終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年10月14日(金)

なぜ書くのか?

この問いに答えるのは簡単だが、同時にこれほどの困難もない。
だが一つずつ始めよう。しまいまで行き着けるといいが。

簡単な部分から言うと、私が書く理由、書きたいからである。
何を書きたいのか。日常では言い尽くされないものを書きたいのだ。
なるほど日常において私は人と話す。
同僚と上司と仕事先と話す。友人とときに親と兄弟と話す。

だが日常はあまりに忙しすぎ、現在の会話はあまりに先を急ぐ。
私たちはおおむね大急ぎで話し、大急ぎで別れねばならない。
そこにたまってゆくものがある。それは確かに語られねばならないのに、
誰に向かっても語られることがないのである。
私が恋人を持っていたときでもそれは同じだったし、今もそうだ。

そうしたものだ、私が書き、私を書かせるものは。
それは私の感情だろうか? 意志だろうか? それとも眠気か?
それはもちろんどれもそうだ。だがどれだけということもない。
夜の眠気をまぎらわせながら私は書き、それでようやく眠れる。

ここで一つの困難が持ち上がる。もちろん私はこれを予期していた。
書くとは表現である。私は言い尽くすということに情熱を捧げる。
だが、誰にそれを読ませたいのか。あるいは誰が想定されているのか。
自分自身という答えも、他人という答えも、同じほどに無意味だ。

神を仮定するなら、あるいは容易かもしれない。
神の前にわたしを開き、わたしを晒すことがいるのだと、そう言える。
そうだ、文字による表現はすべて神への手紙といえなくもない。
ただそういわないだけだ。私が。

何の気負いもなく私は言う。
私の書くものはわたしの欠片だと。私の魂なるものの。
それはそれが私によって書かれたというだけで十分であって、
下賎なものであるか高貴なものであるかなどというのは無意味だからだ。
ガラスの破片のように私は私の欠片を撒き散らして行くのか。

きざだという人に私は言おう。
私の行動は、摂食、会話、排便、睡眠、すべてが私のものではないか?
ならば私の書いたものもまた、私のもの、私の魂なのではないか?
太陽は高みから見て、また照らし、いささか輝かせるだろう。
夜と泥がやがてそれを呑んでも。それ以上のことは意味していない。


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