終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年10月08日(土)

「『主よ、深い淵よりあなたに呼びかける』という歌が
 われわれの時代にはなぜ歌われなかったのかという問いを
 私はこれまでにしばしば発したし、いまもそれを問うている。
 われわれが叫びをあげる相手がもう存在していないのか。
 われわれの口は永久に閉ざされたのか。
 私もついに歌いはしなかった」
   『ドロテーア』(ハンス・エーリッヒ・ノサック作)


17世紀前半、ドイツは国土の広い部分を荒廃させた三十年戦争を経験した。
その期間に生まれたのがコラール、つまり合唱である。

プロテスタント特有のものであるコラールは、礼拝に信徒が
積極的に関わるために生み出されたとされている。
『主はわがやぐら』、『深き悩みの淵より』など幾つかの歌詞は、
マルティン・ルター当人によって書かれたことで知られる。
後代のバロックにおいては主要な音楽様式ともなった。

一人ひとりが神に呼びかけし、また会衆として共同体として神に向かう。
神に呼びかけるのはもはや僧侶ひとりではない。
コラールの特色はそうしたところにある。
神の救いを求める痛切さは獰猛な戦争の顎に晒され続けた人々の、
心の奥底から湧き出るものであっただろう。

ここで留意しておきたいのは次のことである。
引用した文章は第二次世界大戦直後に書かれたもので、
ハンス・エーリッヒ・ノサックはドイツ人の作家である。
彼は加害者としてのドイツについてはほとんど書かない。
彼が書くのは破壊された町、傷ついた人々、生き延びた者の苦しみ、
そうした敗者のもの、市民の視界と思いの中にありそうなものである。
コラールを歌わない理由は、加害者としての罪の意識には還元されまい。

あるいはそれは通奏低音としてあるのかもしれない。
彼もまたその一部であるドイツという国が犯した犯罪は、
彼の上に深く暗く落ちて、その思いを閉ざしたかもしれない。
神に対して顔を背けさせたのかもしれない。
だがそれだけではあるまい。少なくとも私はそう思うし、感じる。
もっと根本的な絶望があるのだ。不安が。

彼はこの短い文章の中で、二つの可能性を挙げる。
「叫びを上げる相手が存在しない」「われわれの口が閉ざされた」
いずれの場合でもコラールは無意味になろう。
だが彼の言い方はひどくあやふやである。
ただ可能性として、ひどく頼りなく、また前後との連関なく言われている。
彼自身さえわかっていないと結論してもよかろう。

なぜノサックは、この文章を書いたのだろう?
この文章は、おそらく、これ自体一つの表現なのだ。
私はそれを、うまく書けない。


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