終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年08月20日(土)

NHKで放映されていた「アウシュビッツ」(BBC製作)を見た。
怖かった。怖かったが、これ、見なきゃいかんだろうということで。
でも怖かったよ。人間の悪。ああ人間の悪。なんてこった。

たとえば死が、たとえば悪が、たとえば憎悪が、
ああそれは種子だ。あそこは悪魔の持ち場だったに違いない。
そこで創っていたのは神の死だ。神はそれとも隠れていますのか。
そんな神はどんな神だ。あの死体、死体、死体。

「夜と霧」

あそこは種子だ。生み出された悪がはびこっている。

「百万人もの死をたった一人の死でつぐなうことなどできない」
所長ルドルフ・ヘスの絞首刑を見届けたポーランド人はいった。
だがそれはひるがえればこういうことではなかったか。

これだけの、この凄まじい、この見渡す限りの悪を、
あの人、あの十字架の上で死んだひと、イエス・キリストの、
そのたった一つの命であがなうことなどできはしない、と。


そしてまた元親衛隊員はいう。
「いつまでも過去に囚われ許しを乞い、一生施しで生きねばならないのか。
 やり直す機会はないのか」
信仰の不可能性がそこに生まれたのだ。



神の血による救済もなく、
その前に一切を投げ出す悔恨によって贖う救いもなく、
だからあそこは、あの場所は、現代のゴルゴダではないのか。
神がこんどこそ死んだ場所ではないのか。魂の存在への確信が。


だめだ、泣きそうだ。
なんて怖い。

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 ウォルターは糸を巻く。鋼鉄の糸を巻く。かつて人間だったものの滅びを巻き取ってゆく。血と肉が絡まって化け物たちの悲鳴は指の動きに連動して高く響きまた低く響く。
 ウォルターは考える。こいつらは人間でいることに耐えられなかったのだろうかと考える。それとも人間であろうとし人間であり続けようとしてその敷居を踏み越えたのだろうかと。
 そして思う。どちらであっても関わりのないことだ。
「さあ血を流し殺そう、おまえら死者の
「埋葬のため、鎮魂のため、忘却に資するため
「夜の杯は傾き倒れ時至り――ぬ」
 声は切れ切れに聞こえる。目の前で突撃してくる屍食鬼どもの頭が割れ胴が裂け内臓がぶちまけられて悲鳴が流れ出す。妙だとウォルターは思った。これは本当ではないようだ。なにもかも遠ざかり揺らいで。
 そして目を覚ました。辺りは暗かったが、周囲の様子はよくわかった。それで自分がどこにいるのかまたどうしてそこにいるのかがわかった。右手を顔の前に寄せる。承知しているよりも若い手、強い手だ。それならこのことにも多少は余禄があるようだ。この、ことにも。
 ウォルターは、自分が死んだということを自覚した。なにになったのかも。呼吸もその必要はなく心臓は鼓動せず温度はない。わたしは、とウォルターは考えた。人間でいるには弱すぎたわけではない、人間でいることに固執しもしなかった。老いも衰えもやがては来るべき死も楽しむジョン・ブルの自負に賭けて。にもかかわらずわたしはもはや人ではない。
(――滅ぼすか)
 静かに呟く声もなく。どのように殺せばよいかは熟知している。そのわざも。鋼の糸を捜してもよいが、もっと簡単な方法もいくらでもある。たとえば頑強さを逆手にとって自ら杭を心臓に突き立てても良い。高みから飛び降りて粉々になることも朝日の中に歩み出ることもできる。
 ウォルターは右手を動かし自分が寝かされている寝台を掴んだ。体を起こせば、かけられていただけの屍衣が落ちて、裸の体がむき出される。そのときようやくなにかが身近にあること、すぐ身近にあることに気づいた。
ぎこちなく顔を向ければ、傍らに立っているものが見えた。
 長身の軍服姿。軍帽の下からこちらを見る目。赤い目だ。ウォルターを殺した男、「最後の大隊」にあって大尉と呼ばれる寡黙な男だ。その手袋をした手が伸びてきた。頬に触れる。
 最初に考えたのは温度のことだ。吸血鬼にも吸血鬼の温度がある。死体であれ一定の温度であるのは生身の「物体」であればこそ当然だがそういうことではない。気配ともなにともつかないものが触れられているところから伝わってきた。死ぬということ人外の存在となるということは、そのようなことだった。ウォルターは顔を上げた。沈黙の悪鬼はそこにいる。
「奇妙なことだ。奇妙なことだ――」
 ウォルターは囁いた。声はかすれている。まだ死んだ体を動かすのに慣れていないせいだ。舌やもう用をなさなくなった呼吸の器官が重い。
「――おまえがわたしを殺し、
「しかも私はこうしておまえを見ている」
 いま静かに頬に触れる指が、そのとき肋骨を貫き肺を破り心臓を掴んでウォルターを殺した。悲鳴も出せぬ痛みと目前の死の黒さはまざまざと脳裏に立ち返り、だが憎しみやそれに類する感情はない。
「わたしの心臓とともにわたしは死に、
「わたしの死を悼むべき心も死んだ」
 大尉は無言でその指を喉元につたわせ、そこにあるいくらかの傷跡を示した。つまりそれがウォルターのくびきだ。その死のあとも地上に縛り付ける。
「死者に義務があろうか、誇りがあろうか、なすべき務めがあろうか。
「死はわたしの上で勝ち誇り、生は過ぎ去った炎のごとく見当たらぬ。
「まさにわたしは生きた屍、歩む幻に過ぎない」
 大尉は、笑いもしなければ答えもしなかった。冷え冷えとした死者の温度はウォルターの上に静かに静かに染み入っていった。





ヘルシング、大尉に殺され改造され復活した直後の執事(すでにネタバレ)


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