終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2005年06月11日(土)

いったいこれはどう理解するべきなのだ。
大東亜戦争*をまさにその時代に生きて、しかもこの感想。


小林秀雄はほとんど戦争について語っていない。
またその間に書いていたものも、戦争にかかわりないものだ。
戦争について書かれたその数少ないもので、
全集にも掲載されていない「三つの放送」という文章を、
ネットの海で発見したので読んでみた。

『「来るべきものが遂に来た」といふ文句が
 新聞や雑誌で実に沢山使はれてゐるが、
 やはりどうも確かに来てみないと
 来るべきものだつたといふ事が、
 しつかり合点出来ないらしい。』

しょっぱなからこれだ。
開戦の詔勅を聞いて首をかしげる様子が目に見えるようだ。
合点などさっぱりしていないではないか。
戦争が始まると聞いて、ああ始まるんだなと呟いている。

このあと『ああ、成る程なあ』ときて、
日米会談を便秘患者に例え、下剤をかましたようだという。
面食らっているうちに『すっきりした』といわれても、
こっちはどうしたもんだかわからない。
そうしているうちにもう、真珠湾攻撃の報を聞いている。

『僕等は皆驚いてゐるのだ。
 まるで馬鹿の様に、子供の様に驚いてゐるのだ。
 だが、誰が本当に驚くことが出来るだらうか。

 何故なら、僕等の経験や知識にとつては、
 あまり高級な理解の及ばぬ仕事がなし遂げられたといふ事は
 動かせぬではないか。

 名人の至芸と少しも異るところはあるまい。
 名人の至芸に驚嘆出来るのは、
 名人の苦心について多かれ少なかれ通じていればこそだ。

 処が今は、名人の至芸が突如として
 何の用意もない僕等の眼前に現はれた様なものである。
 偉大なる専門家とみぢめな素人、
 僕は、さういふ印象を得た。 』

驚くことさえ放棄して、ああもう驚くこともできないと。
ああ、この魂は戦争をついに理解しなかった。
奇妙なことだ。この魂はただ、苦しんだだけだ。

多くの日本人がなんらかの意見を持たねばならぬと感じ、
多くの日本人が歓喜したり反抗していたりするのに、
この見る魂は、戦争が見えないと呟いている。

思うに彼がこのとき見たのは、ただ混沌と、嵐であって、
彼はそれを見る器官を持たぬままにそれを生き苦しんだ。
そして気づけば戦争は、終わっていたのに違いない。



*太平洋戦争とは米国のつけた名である。

それともこういうことなのか。
彼は問いかけているのか。

戦争とはなんだ。
おまえたちはそれを本当にわかっているのかと。
嘲るように自嘲するように問いかけているのか。

この現代的な戦争とは人間に理解できるものなのか、
人間に本当の意味でなしまた責任を負いうることなのかと。
苦しむように悲しむように問いかけているのか。

この見る魂が、これほど屈託して語った文章はほかにない。
その肉体と時代を感じさせた文章はほかにない。
それともこれは、私の思い込みか。


-



 

 

 

 

ndex
past  next

Mail
エンピツ