- 2005年03月12日(土) さて、息つくひまもなく不幸と悲惨と異様な興奮を書いてきて少し疲れた。好きで書いてるから別にいいのだが、このへんで一回休む。 キリスト教的な「神」についての私の全ての知識は、「ナルニア国物語」(CSルイス)に始まる。これは純然たる読書の順番の問題で、私は幼稚園のころの「日本昔話シリーズ」などの幼児書から、小学校一年生のときにこの本に飛び移った。正確には読んだのではない。母が枕元で読んでくれたのである。姉と一緒になって「もっと読んで」ととりすがり、下手すりゃ二時間くらい読ませたらしい。 だから、私の「神」の原像は同シリーズのアスランである。解説すると、アスランは人としては描かれず、「海の彼方の大帝」の息子、力強い前足と豊かなたてがみを持つ獅子とされる。純粋にイエスの移し変えであれば子羊でもあったろうが、何の因果かCSルイスという稀有なファンタジーの名手のフィルターを通してみたために、私の「神」の姿は獅子である。 もっともそれ以外はさして元本と変わることはなく、同シリーズ中でアスランは罪あるものの代わりに自ら死に、さらに蘇りを果たすというキリスト教的筋書きを踏む。さらに最終話で最後の戦いが起き、世界は裁きの日を迎える。 CSルイスは一時期、無神論者であったことで知られる。しかし後に熱烈なキリスト者に転じ、宗教的著作を多く残している。ここに一つ、日本人にはいわく到達しがたい発想を見出したのは中学校のころであろうか。 神は「あえて面を上げるに耐えざる」愛でもって人を愛したもう、というのがそれである。簡単に要約すると、こういうことだ。 神は人を愛するが、それはわがままな孫を目を細めて見る好々爺としての愛ではない。神は人を愛し、人が神の愛にふさわしいものとなることを望む。絶えざる自己放棄による帰依を求める。そしてそれのみが人の幸いである。神は人がその高みに至ることを熱望し、ために悪もまた苦痛もあるいは地獄による脅しもあえてためらうことがない。 全く重たい愛である。だがそれに続けてルイスは言う。 人はそもそもの初めから、神への帰依に勝る喜びがないことを知っているのではないか?美しい風景の美しさ、壮麗な詩歌の響きに喜びを感じるとき、それは神への愛を感じているのではないか? さて、ドラゴンクエスト8のマルチェロとククールに至るまでにはもう一つ寄り道をしなくてはならない。キェルケゴール「死に至る病」である。 信仰に至る諸段階と躓きの石の発想はここにある。地獄のありようというものについてもそうである。まあ、この思想については要約不可能なので何も述べないが、強い人間は自分自身であろうとして絶望して神にそむく。という一文を私が愛好していることは誰にでもわかるはずだ。 マルチェロの罪は神に対しては傲慢(「私に従え」)であり、人に対しては殺人である。法王庁はもちろんどっちの罪も裁かねばならないが、その宗教的存在としての原理上、神に対する罪に重きを置くであろう。悔い改めが果たされたところであらためて人の法に照らして罰することになる。悔い改めが果たされない場合は神の法に任せるとして放逐されるのではないか。でなかったら悔い改めるまで拷問とかな。 「悔い改めない」バージョンその1、破門の話は、中世の儀式に基づいている。ええと、何日に書いたんだったっけかな。蝋燭の火を消す呪いの儀式ね。絶望した強い人間。その2、放逐は11日付けと、ククールに殺される話の2本が該当する。ちょっと違う要素もあるけど。 「悔い改める」バージョンはまだ書いてない。 「保留中」は祈る兄弟の甘げな断片と、蝶の話。首をくくるマルチェロは保留中にふと囚われた人間的な絶望、スタヴローギン(「悪霊」ドストエフスキー)のパクリだというのは知ってる人はすぐわかる話。 ククールの扱いはいろいろですね。補完的な役割とか、別の選択肢の先にいたりとか。彼の兄貴に対する愛情が主なテーマになることは絶対ない。もしそうかもと見えても、それはただ単に私にマルチェロの側から書ききる能力がない場合だけですね。哀れだ。 それで、今後は何を書くのか。マルチェロの救済の可能性を探りたい。カラマーゾフの兄弟しかないのか?わからん。あともう一つ。祈祷の文句は基本的にオリジナルだが、発想の多くはイスラムにとっている。いいじゃん、だって好きなんだもん。 -
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