終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2003年12月23日(火)



やはり鬼怒川河川敷。橋。
……橋の名前チェックすんの忘れてた(だめじゃん)。

橋というのはどことなく、奇妙なところがある。
民俗学では橋は彼岸とこちらとをつなぐ呪術的な側面を持つものだという。
学問というのはおおかた後付けだから信用できるかどうかはわからない。
しかしその結論がどのような事例を基に解釈されたかに関わらず、
「橋」は私に奇妙な印象を与える。ごく原始的な、感覚の次元において。
そしてその感覚は彼岸との連続という解釈を許すかもしれない。
(これが私において唯一最大の断定の言葉だ)

彼岸。私にとって橋はこの彼岸へと遠ざかるための通路である。
近づくことはない。なぜか。立ち去るものは知っても来るものは知らないからだ。
民俗学において橋は行きまた帰る道であるが、私には行く道である。
この写真は橋の外に視点を置いて得たものであるが、本来は橋の上にあるべきだ。
なぜなら私もまた橋の上にいるからである。私もまた遠ざかりつつあるからだ。
行く道、まさに行きつつある道として以外の橋というものが存在しないからだ。

橋を外れ、橋を見上げるとはどういうことなのか?
私はなぜ視点をここに置き、このように橋を仰いだのか?
答えをあげることはできる。それらしい答えをあげることはできる。
だがそうすることは正しいだろうか? 書く言葉はすべて嘘ではないか?
私は沈黙することができる。なぜならこの写真はすでにここにあるからだ。
私は沈黙することにする。いつもそうするように。


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