- 2003年06月26日(木) 指輪@愛進行中。愛において失語。 1: 「ファンタジーというか架空の歴史モノがダメなのよ」@悪友A。 ファンタジーと架空世界の魅力についてどう語ろう。 ほんとうに愛するものについて冗舌になれる人間は稀だ。 考えぬいてさえも語ることはいつも難しい。 アーシュラ・K・ル=グウィンのファンタジー論『夜の言葉』から引いてみよう。 もっとも本が手元にないうえ、うろ覚えだから正確ではない。 「人間は昼の光のなかで生きていると思いがちなものですが、 世界の半分は常に闇の中にあり、そしてファンタジーは詩と同様、 夜の言葉を語るものなのです」 私の語彙の中に 「男曰く女」だとか「人曰く人」というのがある。 わかりにくいだろうから解説すると、 「男が見る、男が知る、男が言う、オンナ」 「人が人であると知り、人であると言う、ヒト」 ということになる。 男が「女」と認識しないオンナもいれば、その逆もいる。 人が「人」と認識しないヒトもいれば、その逆もある。 言葉は思考と視界を規定する。 一つだけでは、そこには見えなくなるものがある。それも、たくさん。 人はみな言葉で考え、言葉の網で世界を拾う。 『昼の言葉』で拾うことのできないものを拾おうとするなら、 語り方と語彙と視界そのものを全て変えねばならない。 『夜の言葉』は、奔放で自由であり、意味の境界さえ昼とは違う。 2: とはいえ、夜と昼の言葉の違いを明確に示すことは難しい。 それは全く異なるが、どちらも同じく語られ書かれる。 昼を装って夜の語法で書かれるものもあるし、 夜とみなされるファンタジーにさえその実昼に属するものもある。 昼の言葉とはなにか、夜の言葉とはなにか。 日本神話の数ある神の中でも最も尊いとされる三柱の神は、 それぞれに昼と夜、海を治めたとされる。奇妙な区分である。 昼と夜、それは時間的な区分であって領土ではないはずだ。 だが、そうだろうか。 夜は自らのうちに一定の法則、一定の暦すら持ってはいないか? そこには昼とは異なる夜行性の生き物が歩み、食べ、飛んではいないか? 人の心もまた昼とは異なり、闇と夜の流儀に従って働きはしないか? そこには昼とは異なる独自の――歴史と視界と智恵と流儀がある。神も。 そして世界そのものを異とする昼の言葉と夜の言葉がある。 なりたちそのものが違うから、語彙も論理も文法も違う。 3: 一昔前に中東の田舎町を歩いたとき、女性の姿はほとんどなかった。 街は男たちで営まれているように見える。 だが女たちの世界は家のなかに、厨房の裏に、仕事場に存在する。 外からでは見えない女たちに裏打ちされて、男たちの世界は廻る。 女たちは隠されているが、それは彼女らを少しも不満にさせない。 女たちこそが街と生活と家の本質だからだ。 昼と夜の言葉の関係もこれに少し似ている。 夜の言葉は事実ではなく真実、世界の事象ではなく本質を語る。 夜の言葉はどこにもなく、だが確かに存在するものを語る。 私はほんとうのファンタジーを読むとき、深い泉の底にいるように思う。 見えるものははかない光の揺らめきだが、その揺らめきに見えるものがある。 それは時折、本当よりもほんとうらしく見える。 「すぐれたファンタジーにはほかにはない特別な性質の喜びがある。 それは根源的な真実、真理をほんの一瞬垣間見せてくれる」 J・R・R・トールキン『妖精物語について』 どこにもなく、だがどこかに確かにあるもの。 年表の外の時代に、地図の外の場所で起きたと信じられること。 福音書は幸福なファンタジーではなかったかとトールキンは語る。 真に偉大なファンタジーは歴史の中にまで居場所を与えられるようだ。 悪友Aはこれで多少なりと納得してくれるだろーか。 私は論理より比喩で語る人間なので、どうにも整然とは語れない。 詰めの甘い部分があったら後からでも書き足そう…(眠) -
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