終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2003年03月23日(日)

賛成と反対の間。

1:
イラクが核を隠し持ち、化学・生物兵器を持っていることには
むろん疑念の余地がある。一切が全て茶番であった可能性も。

(実際わたしたちは当事者たる国々の証言を確かめる術がない)

しかし我々の知っていることが事実であったとしたら、
そしてこれまでイラクが行ってきたとされることが事実であったとしたら、
イラクはまさに我々に対する脅威とされるべきた。

(我々とは日本人のことだ。アメリカ『一味』としての国際社会に属する)


2:
脅威を排除するのは確かに義務だ。
それは国というものの義務だ。守護を義務とするものの義務だ。
国際社会としての国連の義務だ。問題はその手段にある。

査察か、武力行使か。
国連を割って、アメリカは武力行使を選んだ。

現在の『反対運動』はすべて、このへんに論点が集中している。
それ以前の分は考えたこともねーだろーっつーおばちゃんら、おじちゃんら。
どうかと思う。

武力行使をするべきかどうかということはさておき。
殺すな、というのは、わかりやすいだけにどうしようもない意見だと思う。
しかし同時に、『反対』への不信が即賛成になるわけでもない。
間には深い亀裂がある。


3:
賛成と反対の間にあるのは、深い亀裂だ。

国連とアメリカは査察において最善を尽くしたのかという技術的な疑問。
そしてこれは帝国主義に基づく主権の侵害であり、
異文化への侵略ではないのかという歴史的事実に基づく疑念。
また冷戦時代に自ら作り上げた怪物『フセイン』に手を上げるアメリカの
マッチポンプ的動向への冷笑と不信めいた複雑な感覚。
殺すなとただいう人々への、その脅威の意味をわかっているのかという疑い。

賛成と反対は地続きではない。
断絶がある。

それゆえ。

賛成と反対は、自分自身を何者と規定するかという原点に回帰する。
日本人とし、日本国の法と権力と主権に守られているとし、
またそれをとりまく世界と国際社会に規定されているとするなら、
自らをアメリカ『一味』であると苦くも認めるなら、
賛成は必然だ。自ら戦車の車輪であるものに、反対の余地はない。

己を何者でもなく、いかなる法によるのでもなく、
どのような庇護も受けていないとするなら。
あらゆる危険と殺害を恐れを恐れないなら。
そのとき反対は可能だろう。だが惜しむらく、
反対を叫ぶ人間は、何も考えていないように見える。


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