- 2003年01月09日(木) 言葉の定義や物語。 1: さて、あなたはもう私を見ないだろう。 だからここで話そう。 わたしとはこの皮膚の内側に棲むもの。 血と肉と骨とよりなり、生物と物質のあらゆる法に従う。 そのごとく、精神もまた多くの法に従っている。 (利己的な遺伝子や運命や生物と物質の限界や) その大きな外側の枠を私は知り、それゆえ内側を更に良く知る。 外には希薄な空気。 そしてまた、そのどこかには私と類似した他者がある。 類似あるいは相同の枠に縛られた他者が。 だがここで呼びかけよう、注意を! 他者と私は大枠において類似している。 誰もが誰もに類似している。 だが実際、重要なのは類似ではなく相違だ。 無限に微細な相違でありながら、そのわずかな相違こそが私を私とする。 他者を他者とする。 そしてこの『わずかさ』は、超え得ぬ性質のものだ。 なぜなら数量として量ることはできても、 それを増したり減らしたりすることはできないから。 それは連続しないから。一つ一つが別種であり別個だから。 一つの形象をとったということは、偶然であれ不可逆。 また永遠である。なぜなら生起されたものはけして取り消されないから。 個は、その永遠なる偶然性は、誰もの上に刻印されている。 渡し得ぬは個とその周囲世界一切への橋。 他者一切への断絶をもって個は個として始めて生起する。 ねえ、あなた。 知ってください。 あなたはかけがえない。 ほかの誰もがかけがえないと同様。 あなたは孤独だ。 ほかの誰も孤独であると同様。 そうして橋はかけられぬが、『橋」をかけることはできる。 2: 『橋』とは斜めの次元に存在するもののいい。 他者との関係。 ああ、私はそれを見さえする。 百合がその花弁を新月刀の切っ先のごとく反らせながら花咲くようだ。 他者への思いとは、それ自体が輝く想念の花、翼。 ありうる唯一奇跡の形。 その形にだけ、ひとは自らと世界との関係性を見うる。 そしてそれこそが、『ひと』ではあるまいか。 関係性への視線、関係性との関係をもって、 ひとはこの世界に自分の影『ひと』を産み落とす。 言葉であれ、眼差しであれ、愛であれ、指先での愛撫であれ。 それだけが、この世界に見る『ひと』ではあるまいか。 そのようにしか、ひとは自らたる完結完全なる小宇宙の束縛を脱して、 この世界という舞台に自らを産み落としえぬのではないか。 そのようにしか存在しえぬのではあるまいか。 行為と発話とはつまり魔法だ。 この世界という手の届かぬ場所に自らを生かすための。 ひとは『ひと』を生きて人生を生きる。関係性を生きる。 影幻『ひと』、契約や義務や権利、思いこみや戒律――を生きるのでなしに、 ほかの何でもなく人間の充足を生きるのでなしに、 いったい何を生きることができる? ためらうことは愚かだ。 ためらうこともまた一つの行為だから。 そのようなものとしてあなたを容赦なく規定し形作るから。 3: ねえ、あなた。 戻っておいで。帰っておいで。 まだなにも、終わってはいないから。 まだなにも。なにひとつ。 止めたところから始めるために。 ――戻っておいで、帰っておいで。 待っているから。 -
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