終わらざる日々...太郎飴

 

 

- 2002年07月28日(日)

今日や明日や明後日を。

1:
現代人は、人を愛しうるか。
自我を持ち始めて人間は、同じく自我を持つ人間を。
何として愛するのか。

「恋愛とは、結婚であり、相手を信頼し、
 自ら責任を感じる幸福に他ならなかった。
 さういふ簡潔で充実した恋愛が、失われてしまってから既に久しい。
 近代文学は、人間性の名の下に恋愛について
 感傷と短気と獣性より他に書いたことはないのである」
               小林秀雄「バッハ」より

人間がいわゆる「自我」を持ち始めてから、まだそれほど長くはない。
まだ人間はこのやっかいな蛇の贈り物を、どう扱えばいいのか知ってない。

実際、これは蛇の贈り物であったに違いないのだ。


2:
ラスコーリニコフは非常に大きな自我の持ち主だ。
その自我を通じて、
彼は多く考える。
彼は多く知る。
彼は多く見る。

だが、それが果たして彼にとって幸福であるだろうか?
――否。

『見えすぎる目』は不幸だ。
なぜなら体はそれに追いつかない。
しかも彼の見えすぎる目は、血と肉と骨、その上にしかない。
しかも彼の見えすぎる目は、非常に単純極まりない物理世界の上にしかない。


3:
心は千里を走る。
万里も行ける。
飛翔も沈潜も思いのまま。

だが、行ってはならない。
私は「ここ」に生きているのだ。
「ここ」に根ざしているのだ。
望むと望まざるとに関わらず。

だから、行ってはならない。
どれほど望郷に胸掻き毟られても。

自我はおそらく、この世のものではないのだろう。
この世の外から投げ込まれた黄金の果実なのだろう。
肉と霊に争いをもたらしたのは、たしかにこの果実だった。


4:
自我もまた、この世のものだ。
「ここ」にあるものだ。
私はそこから始める。
さて、どう、料理をしよう?
さて、どうやって、愛しよう?

どうしたいのかを見つけ出すまでは迷っても。
そこからは迷わない。

この足で走る。
翼ではなく。
この手で水を掻く。
銀の尾ではなく。

人間の道を。
人間の手だてで。
できることがそれだけなのだから。
――重畳。


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