- 2002年03月28日(木) 時間。 1: 『ああだれかきてわたくしを抱け、 しかもいったいだれがわたくしにとってあてになろうか』 宮沢賢治 誰も「あて」にはならない。 自らを省みたものは、必ず感情と思考がいかに曖昧で 確かならざる構造の上に成り立っているのかを知るだろう。 自らの発する言葉さえ、しかと見れば――その言葉の外に無数のブレを含む。 そして振り返って他者を見たとき――あるいはその言葉を見たとき、 そこになにひとつ確かなものがなくなっていることに気づき愕然とするだろう。 誰も「あて」にはならない。 世界を愛するわたしは苦しむ。 あなたを愛するわたしは苦しむ。 永劫不信はその苦渋の叫びだ。 誰も「あて」にはならない。 どのような言葉も真実の一面に過ぎない。 どのような感情も、それに地続きの無数のスペクトルを持つ。 どのような論理も、同じほど確からしい論理によって相殺される。 誰も「あて」にはならない。 世界を愛するわたしは苦しむ。 それでも世界に生きたいと願う。 だから、何一つ信じないことにする。誰一人。 そのことによってようやく――愛することができる。 「傷つくことも構わない」と言わずに、 これほど「あて」にならない世界を愛することはできないのです。 2: どれほど努力しても、どれほど注意を払っても、 結局のところ、わたしと世界の間には、乗り越えがたい壁がある。 わたしがなにかを望むとき、 それが叶うかどうかは、わたしの努力と誠意の外にある。 そこには跳躍を必要とする亀裂がある。 わたしはそれを飛びたいと願い。 そして「不信」という跳躍を飛んだ。 落ちることを肯定して向こう岸を願った。 それは間違いだったろうか? だが―― 誰がわたしを咎め得よう。 結局のところ、わたしは――わたしでしかない。 あなたがあなたでしかないように。 -
|
|