- 2001年11月30日(金) 恣意とその肥大、限界について。 1: 恣意は、何にでもなりうる。 にもかかわらず――あるいはそれゆえに――常に不安である。 多くの場合において、醜悪であり、未完成であり、不安定である。 それは自らを常に空中分解の危険の中に置き、 「地に足のついた」感覚とはかけ離れている。 人間は、自らの限界、自らの力の及ばぬ枠によってのみ 自らを知りうるからである。 何にでもなりうる、ということは――人間本来の形状ではない。 そしてその枠とはつまり、 デカルトの言う「内なる道徳律」であり、 ドストエフスキーがシャートフに言わせた 「悪が醜く、善が美しく」見えるという感覚そのものである。 2: 「私はこの手をどこにでも振り下ろせる」 ということは、物理的には事実である。 ひとの顔に振り下ろすことも、自分の顔に振り下ろすことも、 モナリザの絵にむけて振り下ろすことも、 あるいは斧の刃の上に向けて振り下ろすことも、可能である。 それが恣意である。 恣意にとっては、善をなすことも、悪をなすことも、等しい。 「そんなことできっこないわ!」 というのは、常識の叫びであり、礼儀の叫びであり、 自己保存の声であり、また「道徳律」の叫びである。 自らの内側から規制する声である。 それが枠である。 枠は善悪を定め、慣習に従い、こまやかな襞を持つ。 恣意は、無造作な白痴的な実行であり、意思である。 枠は文化であり、大地と進化に根ざすひとつの感覚であり律である。 3: ひとと二人きりで向き合うとき、私はふと考えることがある。 たとえば彼(彼女)が私に背中を向けたときなどに。 「私は彼(彼女)を殺しうる」 それは、可能だ。 恣意は望めば無造作にそれをするだろう。 ほんの好奇心でさえ足りる。 それができるから=やった、ということさえありうるだろう。 4: 自らのうちに限界と枠を感じるときにだけ、 人間は真に自らを人間と感じるだろう。 望んで自らの内なる規範と感覚に服し、 「わたしにはできない」というときにだけ、 人間は人間だろう。 最も多くの限界を持つものだけが、 最も深く豊かに生きるのだ。 5: 限界を意識し、 流れ出そうとする恣意を鋭く切り裂くことのできる、 そのことによって苦しむ―― ――人間。 -
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