あふりかくじらノート
あふりかくじら



 コンソレーション「慰め」と困惑。

誰かの誕生日を、誰かが作ってくれた手作りの料理とデザート、寄せ書きのカード、そして年齢をかたどったキャンドル(子ども向けだけど)でささやかに祝う。

いつもいつもそうだったけれど、同じ人たちと同じ時間と場所を共有するということは、もうない。そして、わたしはすでにいまこの瞬間すらを懐かしいと思ってしまうと同時に、早く思い出にしてしまいたいと思っている。
だから写真を撮る。
その写真を心から愛おしく思う。
もう二度とないから。そして、わたしはまた去って、まったく新しい別の自分になるから。
後ろは振り向きたくないし、そこにはもうわたしの居場所などないから。


こういうことは、何度もここに書いたような気がするけれど、また繰り返しそう思う。いまはそういう時期なのか。
来月末、ここを去る。


バースディは別のひとだったけれど、周囲のひとがわたしに気を遣ってくれているのがわかり、途端、やりきれなくなった。とても淋しい気持ちになった。周囲のひとの優しさ、愛すべき人たち。そういうものに囲まれた幸せなわたしは、どんどん淋しくなるのである。虚しくなるのである。

わかっている。

でも、これは自分が悪くした人間関係のせいなのだ。
そのことだけが理由なのではないけれど、いつもならそこへいるべき誰かが今日はいない。その不在が、苦しかった。どこにも逃げ場のない、この苦しい気持ち。誰のせい?わたしのせい?相手のせい?

だからすべてを切り捨てて去りたいとすら思う。
過去にしてしまいたいとすら思う。

わかっている。でもそれだけではだめなのだ。
まったくもって、だめなのだ。

それをするには、わたしは弱すぎる。
そしてわたしは今、人生の中でいろんなことが複雑に絡み合って、すっかりくたびれ果てている。



このところ毎日ベリーダンスのためのアラビアンな音楽をかけては無意識に身体を動かすということをしていたため、忘れていたのはフジコ・ヘミングの音だ。

リストのコンソレーション「慰め」第3番、そして、ラヴェルの『亡き王女のためのパヴァーヌ』を、フジコが彼女にしか出せない指先の音で奏でる。彼女のピアノにしか出せない音なのだ。奇跡のように、わたしはこの音に吸い込まれる。他のピアニストではぜったいにだめなのだ。
今夜は、ほんとうにこの困惑と虚しさをフジコ・ヘミングに包み込んでもらいたい。



そして、誰か、そばにいてください。
でも、ほんとうは誰にもそばにいてほしくなどないのです。


その、繰り返し。

2007年06月19日(火)
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