# 懐かしき卒論の話
2001年03月22日(木)
毎晩、日記を書いている為に寝るのが二時を過ぎてしまふ。
それがいけないんだろうね。(だから今日はちょっと早めなのだ)
風邪が日々だんだんと悪化していきます。
今日もちゃんとバイトに行ったのだけど、声がほとんどでなくてね。
出てもひどい声なのさ。そりゃもう。
自分では判らなかったけど、赤い顔してたらしくて、
「今日はもう帰っていいよ、家でゆっくり休んで」と云われました。
お言葉に甘えて4時間だけ仕事して帰らせていただきました。
喋りたいのに声が出ないっていうこの状態、私にはつらい。
歌も歌えない。鼻歌すら歌えない・・・くそう。

昨日は話の流れで太宰治に触れたから、今日は夏目漱石の話でもしましょうか。
作家つながり。

私が夏目漱石の本を初めて読んだのは、多分小学生の頃。
母に『坊ちゃん』と『吾輩は猫である』を買ってもらって読んだ。
でも全部読み終わらないうちに嫌いになった。嫌いだったんです。
当時この二作しか読んだことなかったんだけど、もう二度と読むもんかと思ったね。
なんか言い訳がましい感じがしたような覚えがある。
それからしばらく私は、漱石嫌いを公言する奴でした。

再び漱石を読んだのは、高校3年の時。
夏休みの課題で、論文を書かなきゃならなくて、
あるきっかけから興味を持った『虞美人草』で書くことにしたの。漱石のね。
その時一応は漱石嫌いではなくなった・・・んじゃないかな。

で、次に夏目漱石を読んだのは、短大の授業だったかな。
それとも卒業論文が先だったかな。
授業で読んだのは、『それから』と『こころ』だったんだけど、
これは特に私の琴線には触れませんでした。興味は湧いたけど、所詮授業。
私が卒業論文で選んだのは、夏目漱石の『虞美人草』でした。
この作品を論じるのは二度目。一度論文を書いたから、書きやすいかと思って選んだのね。
卒論てのはやっぱり楽に完成させられるものじゃないですよね。
私も残り2ヶ月、とかで書き始めたような覚えがある。
とにかく自分の論を組み立てるのがもう大変で・・・。うまく考えがまとまらないんですよ。
何とかギリギリで仕上げましたけど。卒業かかってますからねェ(笑)
悪くない出来でした。先生にもよく書けてるって云って貰えたし(誉め言葉に弱い)。
 夏目漱石『虞美人草』論 ―藤尾の悲劇について―
というのが卒論の題名でした。うわ、いかにも国文科っぽーい(笑)
今思えば、この卒論を書くことによって、私はまた一つ文学の読み方を学んだような気がしました。
そして気付きました。

「私は夏目漱石の文学は特に好きでもないが、夏目漱石の書く文は好き。」

『硝子戸の中』っていう漱石の随想集があるんですが、それが私は好き。
これって別に物語ってんじゃなくて、ホントに随想集なんだけど、
私は漱石の他の作品より、この随想集を読んでるほうが楽しい。
『虞美人草』は好きな方だけどね。好きっていうか、もうある意味特別。
でもこの随想集はホントに読んでて飽きないです。

また長くなった。
長くなったついでに、最後に私の卒論の要旨をココに載せてしまおう。
WEB的にはたいへん読みにくいので、暇な方と興味のある方だけどうぞ読んでください。


↓卒業論文要旨↓ 夏目漱石『虞美人草』論 ―藤尾の悲劇について―

『 私は初めて『虞美人草』を読んだ時、女主人公甲野藤尾の最期に悲劇のヒロインとしての死の魅力を感じた。だがこれは勧善懲悪小説といわれるもので、藤尾は「悪」として制裁される人間である。何故魅力ある女主人公が悪として制裁されるのか。そこで彼女の魅力や死という「悲劇」が意味しているものについて考察してみた。
 藤尾はクレオパトラの色ともいえる紫を身に纏っているなど、エジプトの女王クレオパトラと自己を同一化して登場した。そして藤尾の死は、クレオパトラの死を告げた言葉によって暗示されている。しかし、その死は本文の表現が曖昧で死因がはっきりしない。クレオパトラと重ねられている点を見れば、悔悟や改心を拒み、自己を守り通そうとした服毒自殺と取れる。だが、道義第一義説を説くという漱石の意図から、藤尾は制裁を加える対象であって、見事な死を与える意味はなく、ただの憤死とも取れる。このようにどちらとも取れる曖昧な書き方をした背景には、漱石の女性へのアンビバレンス(両義性)な感情があった。嫌悪し、「我の女」のイメージを強化して藤尾を崩壊へ導こうとしながらも、自らが貼った「我の女」のレッテルが生んだ魅力を無視できなくなってしまった。つまり藤尾の死因の曖昧さは、作者によって与えられた人為的な死であるのを隠蔽する意図があったのだと考えられる。このアンビバレンスは漱石の西洋女性に対するそれと似ており、西洋女性への憎悪から西洋風女性の藤尾を登場させたといえる。
 そして、藤尾が漱石にアンビバレンスな感情を抱かせたもう一つの要素が「悪女」性である。藤尾は、女としての性的魅力で男を翻弄し堕落させるという、「悪」が肉体のみならず精神に宿った「悪女」の型である。しかし「悪女」の虜となる男たちも利害打算で動いている為、藤尾は「悪女」の魅力を充分に発揮することが出来ない。漱石は強引に「我の女」という意味付けをしたが、抹殺されるべき「悪」よりも強い印象をもつ「悪女」の魅力を生み出す結果となった。つまり「悪女」の魅力に翻弄されたのは他ならぬ漱石自身であり、だからこそ、真の「悪女」になる前に藤尾を殺してしまう必要があった。その点で藤尾は「悪女になりきる前に死を与えられてしまった美女」なのである。
 では藤尾の精神に宿っていた「悪女」性以外の「悪」とは何かというと、道義第一義説を説きたい漱石にとって、それは彼女が「道義」を踏みにじろうとする点である。つまり藤尾は男たちの重んじる「徳義」の世界の枠組の中でのみ成り立つ罪悪によって抹殺されたのである。
 物語の最後で、自己の出立点に向かわせるものが「悲劇」だと説明されているが、結局誰一人としてそのようにはならない。「新しい女」としての生を封じ込められただけでなく、成り立たない「悲劇」を与えられたことこそが、藤尾にとっての「悲劇」ではないだろうか。』


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