ケイケイの映画日記
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2016年05月20日(金) 「オマールの壁」




鑑賞後、打ちのめされ、辛くて胸が張り裂けんばかりになりました。これだけ長きに渡って、イスラエル・パレスチナ問題は話題に上っているのに、オマールが命がけで渡る壁の事さえ、私は実情を知りませんでした。全く持って無知を恥じ入るばかり。出資・スタッフ・出演者、ほぼ100%パレスチナ人で作られた作品で、フィクションですが、今のパレスチナの現状を具に映した作品かと思います。社会派にして、見事な娯楽作でした。監督はハニ・アブ・アサド。

真面目なパン職人のオマール(アダム・パクリ)。今日も幼馴染のタレク、アムジャド、そして恋人のタレクの妹ナディアに会いに、パレスチナ自治区を分断する壁を上ります。タレクやアムジャドと共に、イスラエル兵の狙撃を企てます。狙撃後、秘密警察に捕まったオマールは、激しい拷問の後、釈放と引き換えに仲間を売ってスパイになれと、執拗に迫られます。

この分離壁なのですが、高さ8メートル。私はイスラエルとパレスチナ自治区を分ける、ベルリンの壁のようのものかと思っていました。それが自治区を二分するものだなんて。管轄は全てイスラエル。よじ登って向こうに渡るのが発見されれば、重い罰が待っています。一応、イスラエルの言い分は、テロから守るためとの事ですが、パレスチナの力を分断するためかと思います。

私は社会派作品だと思って観始めましたが、途中からサスペンス的な逃走が始まり、青春物のような輝きも感じられ、どんな境遇にいても、青春の光は消せないと描きたいのかと思っていたら、とんでもない。その後、私の感傷など吹っ飛ばす展開が待っていました。

敵を欺こうと、一旦はスパイになる事を承諾するふりをするオマールですが、敵は一枚も二枚も役者が上。結果オマールは、敵にも味方にも居場所がなくなり、追い詰められます。

仲間同士の疑心暗鬼、裏切り、そして嘘。これもイスラエルの狡猾なラミ捜査官(ワリード・ズエイター)が、彼らを巧みに操って作り出した情景です。普通の青春時代なら、ほろ苦い思い出で通り過ぎて行く出来事が、彼らには、全てが死に辿り着く。蹂躙される青春。腰抜けで耐え忍ぶのか、命がけで未来を勝ち取るのか?秘密警察が来たと知らせる幼い男の子、車に投石する人々。常にイスラエル兵から、虫けらのように甚振られるパレスチナ人。この環境で育った男子たちが、命を賭ける事を選ぶのは、自然なのだと感じると、辛くて堪らなくなります。

一度秘密警察から目を付けられたら、二度と元へは戻れない。それを知らせに分離壁を上ろうとするオマールですが、かつては軽々と登っていた壁が、今は登れないのです。未来や希望を勝ち取ろうとしていた時は登れても、その夢が無残に消えた今は、登れない。しかし「可哀想に。手伝ってやろう」と、手を差し伸べたのは、見知らぬ老人でした。この老人は、オマールにかつての自分を見たのではないか?青春だけではなく、この老人は人生を蹂躙されたはず。この老人は、分離壁を登り、縦横無尽に自治区を行き来する事を夢見る、パレスチナ人の想いの象徴なのではないかと思いました。

思えば、一度も愛する人たちを裏切らなかったオマール。勇敢で心優しいこの若者が選んだ幕引きが、あの結末とは。茫然としました。一切のBGMのないエンディングに、席を立った人はわずかでした。終わりまで見届ける。そうでなければ、パレスチナの人々に、失礼だと思いました。

二転三転する展開は、普通なら上手い捻りだと感心するところが、この作品では、先に痛ましさが募ります。しかし、この映画的な巧さが面白さに繋がり、この作品をただの社会派の啓発作品にしなかったのだと思います。

この作品は、オスカーの外国語映画賞にノミネートされ、カンヌでも賞を取ったとか。パレスチナの現状を、私のように知っているようで、実は何も知らない人々は、世界中に溢れていると思います。パレスチナで何が起こっているのか知る事が、まずは作り手の心に報いる事かと思います。

この作品の字幕監修は、重信メイでした。彼女に取っては普通の母親だったそうですが、あの母の子として生まれることは、どんなに過酷だったかは、想像に難くありません。オマールたちの分まで、彼女がジャーナリストとして活躍出来ますように、願っています。



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