ケイケイの映画日記
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2015年09月23日(水) 「ぼくらの家路」




あまりの幕切れの鮮やかさと言うか、意外性に茫然としてしまい、慌てて鑑賞後にチラシを手にすると、そこには一種ネタバレ的な文章が。ふんふん、なるほど。しかし絶望的なお話で終わりそうなところを、ラストの締めくくりが、家庭に恵まれぬ兄弟にエールを送っているようで、拍手を送りたくなりました。監督はエドワード・ベルガー。

ベルリンに住む10歳のジャックと6才のマヌエラ。シングルマザーのママは優しいけど若く自堕落で、母親業より自分の遊びを優先させます。当然幼いマヌエラの世話は兄のジャックの役目に。しかしある事から、ジャックがマヌエラに火傷させたため、二人は児童相談所預かりに。マヌエラは母の元、ジャックは施設へ。しかし施設でもいじめに合い、馴染めぬジャック。何とか夏休みまで頑張ったのに、ママは迎えに来れないと言う。トラブルも重なり、ジャックはママの友人に預けられたマヌエラも連れ出し、足跡を辿りママを探す旅に出ます。

予告編で既に泣いてしまった私。多分号泣する羽目になるだろうと、先にハンカチを握りしめての鑑賞でしたが、これがこれが。ジャックの行動を淡々と追い、過剰な演出一切なし。ただ事実だけを積み重ねるドライな演出は、あまりにドライ過ぎて泣かせてくれません。

その代り、ジャックが何故そのような行動を起こすのか、彼の行動を追う事で、しっかり心情が理解できる。彼なりの統合性がありました。しかし事情を知らない大人には、ジャックが不良の道一直線に、急降下しているように見えるでしょう。感傷的に描いていては、同情は引けても、ジャックを真に理解することが出来ないから、計算して泣かせてくれなかったのです。それでは真に彼を救えないからだと思いました。

それはジャック=ネグレクトや虐待に合っている子たちだから。少し前に、鈴木大介著作の「最貧困女子」を読みました。その中に虐待に合っていた子供たちへのインタビューも載っていましたが、ジャックの行動は、まるで彼らの証言をなぞる様なのです。何故万引きするのか?何故施設の中にもヒエラルキーがあるのか?哀しい事に、カーストトップは、親がたくさん面会に来る子だそう。誰も面会に来ない子は、自分たち同士で励まし合うのではなく、傷口に塩を塗る行為をするそうで、この作品でもそうでした。怒りの矛先を、どこに向ければいいのか、わからないのです。

ジャックがマヌエラを連れ出したのは、寂しかったからでしょう。家族に拘りたいジャック。彼は彼で、マヌエラの世話をする事は、ママが喜ぶ。その事で自分自身の存在意義を確立していたはずで、連れ出すのは自然だと思いました。

三日間、子供の目線からは計り知れない恐怖だったでしょう。恐怖を与えたのは、暗闇と空腹と見知らぬ大人たち。年端もいかない子供を追い払っても、何故事情一つ聞かないのかしら?これはどこの国もありそうです。

やっとまともな大人に辿り着いたら、それはママの元彼。何故こんなまともな人と別れたんだろう?と咄嗟に思いましたが、まともな男性なら、ジャックのママとは結婚しないなと、すぐ思い直しました。彼の行動はしごく真っ当だと思いました。

二人はママに会えるのか?ママは二人を捨てたのか?サスペンスを見るよりドキドキしていたら、何とあっけない。たった三日間の事ですが、三日でジャックが大人になったわけではなく、薄々わかっていた、でも否定していた事を、彼が納得するための三日だったように思います。子供はいつまでも子供ではない。親がそれを忘れがちなのです。

ラストにマヌエラの手をしっかり繋いだジャックは、寂しさからではありません。弟も守らねばと言う、兄の責任感に満ちていました。水際で自分と弟を救ったのです。この映画の原題は「Jack」。邦題は辛いけど秀逸だと思います。

この作品のチラシの横に子供虐待防止の「オレンジリボン活動」のチラシが置いてありました。子供を虐待していると自覚がある人は、些細な事でもいいから、ご相談下さい。それが急がば回れ、虐待防止につながります、そういう趣旨が書いてありました。親を救えば子供が救われる、大賛成です。

ジャックたちのママをバッシングするには簡単です。でもバッシングから何が生まれるのか?知らないわからないなら、教えてあげたい。感情が育っていないなら、おざなりでないカウンセリングを。あのママはどうしようもないママだけど、全く望みがないわけじゃないのは、私よりジャックが知っています。それが家の鍵をもぎ取った理由じゃないかな?このお話はフィクションですが、是非続編も作って欲しい。ジャックとマヌエラとママのその後を見守るのは、大人としての義務のように感じています。


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