ケイケイの映画日記
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2015年08月08日(土) 「野火」




高校生の時に大岡昇平の原作を読み、大変感動した塚本晋也監督が、いつか映画にしたいと熱望し、苦労に苦労を重ねてやっと実現した作品、と読みました。私は監督と同世代。原作も未読、有名な市川崑作品も未見です。この作品を観て、私がほわんほわんと女子高生活を送っていた時、真逆のような感受性を持つ同世代の男子がいたんだと、とっても恥ずかしくなりました。過激で凄惨なシーンも満載なのに、何故か静寂に包まれたシーンが印象深い作品です。

日本軍の敗戦が濃厚となっていた時のフィリピンレイテ島。田村一等兵(塚本晋也)は肺を病み、上官より野戦病院行きを命じられますが、そこは生死を彷徨う重篤患者ばかりで、田村は追い払われます。再び部隊に戻るも、隊に拒否され行き場の無くなった田村。島を彷徨う中。別の伍長(中村達也)率いる隊と巡り合い、行動を共にすることになります。

冒頭、怒鳴られながら叩かれながら、隊と野戦病院を行ったり来たりする田村の様子が滑稽で。肺病くらいでと言わていますが、結核だったのでしょう。普通なら安静にして養生してとなるのにと、可哀想なはずなのに、可笑しいのです。よくよく考えると、軍隊は上官の命令が至上であり、田村の行動は普通の事。可哀想が度を越すと、可笑しかったり、馬鹿馬鹿しくなるものなのだと、腑に落ちます。これも戦場の実態なのでしょう。

しかし次第に内容は悲惨に。本当に突然空爆が起こり、目の前の人間が吹っ飛ぶ。命からがら逃げてきた同胞の日本兵に、別の隊の伍長は、田村の持っている塩を分けてくれるなら、ついて来て良いと言います。では、塩を持っていなかったら?食料など、価値のあるものを持っていないなら、味方も捨て置かれるのです。田村は肺病持ちで、見るからにひ弱いインテリです。置いて行かれたら、野垂れ死に必死のはず。これも戦場。

この作品では、「戦う」場面は皆無。銃は泣き叫ぶ罪のない現地の人を殺す為だけに使われ、その日本兵たちは、敵軍の一瞬の攻撃で阿鼻叫喚の中、手も足ももがれ、死んでいく。帰国を目指し歩き続ける獣道には、折り重なった兵隊の無残な死体。目を覆いたくなる凄惨さのはずですが、感情が湧かないのです。それは「人」ではなく、「物」であるように感じるからだと思います。この感情こそが、人から尊厳を奪う最もたるものなんだ、これが戦争なんだと、自分もまるでレイテ島を歩き回っている錯覚に陥りました。

そこから先は、餓えから人肉を食べると言うショッキングな展開が待ち受けています。あちこち日本兵がいるのに、原住民を襲っていたのは、最低限の武士の情けであったのかどうか。しかし究極の飢餓には、苦楽を共にした目の前の「味方」を、「獲物」として虎視眈々と狙う。極限の生への渇望は、人間をどこまでも野蛮にも卑しくも獰猛にもしてします。もう敵も味方もないのです。人から根こそぎ人間性を奪うもの、それが戦争であると感じました。

たくさんの精悍で屈強そうな兵士の中、帰国できたのはヘタレでインテリの田村だけです。田村のしたことは、ただ逃げて逃げて逃げまくる。それだけでした。戦争が起これば、逃げるのは正解なんだよ。某議員は、戦争に行きたくないと言うのは、わがままだと言い放っていますが、それは間違い。戦争に行きたくない、始まれば逃げると言うのは、正しい選択なんだと思う。たった一度暴発のような形で、田村は現地人を殺しますが、戦争がなければ、彼は一生人殺しとは無縁の人であったはず。それは戦争に行く人みんなに言える事のはずです。

凄惨な殺戮場面や、汚辱に満ちた場面の連続なのに、私には昼間の生き生きした草花や太陽の輝き、夜の闇の中に浮かぶ月や虫の輝きなど、躍動と静寂を繰り返す、レイテの自然の豊かさが目に焼き付いています。この豊かさの中で行われる、人間たちの蛮行と愚かさまでも、抱擁しているように感じました。自然は「無敵」なのだと、しみじみ思いました。

戦後70年と言う事で、映画もドラマも、たくさんの作品を、色々な切り口で作られている中、この評価は賛否両論のようですが、様々な事を想起出来て、私は大いに「有り」の作品だと思います。


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