ケイケイの映画日記
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2015年03月06日(金) 「きっと、星のせいじゃない」




ノーマークの作品で、お友達に誘われての鑑賞でしたが、これがとても拾い物。若々しく瑞々しさに溢れながら、プライドと知性に溢れた語り口が、ただの難病物とは、一味も二味も違う感動を呼びます。この手の作品は、真摯な登場人物の生き方に、気が付けば観客の方が励まされるのですが、この作品はそれがありません。ただ見守りたいのです。最後まで主体は、死を受け入れている彼らでした。あくまで難病はモチーフで、恋愛映画の秀作です。監督はジョシュ・ブーン。とっても素敵な作品です。

17歳のヘイゼル(シャイリーン・ウッドリー)は、末期がんで余命いくばくもありません。ローティーンの時に発病し、今は学校も行けず、肺の機能低下のため、酸素ボンベが手放せません。母(ローラ・ダーン)の懇願で、若いがん患者の集まりにしぶしぶ参加。そこで骨肉種で右足の膝から下を切断したオーガスタス(アンセル・エルゴード)と出会います。リアリティ番組と通院だけの日々だったヘイゼルの毎日は、ガス(オーガスタスの略称)と過ごすことで、彩り始めます。

恋する事でお互いが傷つく事を恐れるヘイゼルと、堂々と駆け引きなしに、彼女に愛を告げるガス。如何にも若い子同士の、純粋な感情のぶつかり合いを、ネットやラインをアイテムに使って、ユーモラスに愛らしく演出しています。

年齢以上の落ち着きで、達観したように死を受け入れるヘイゼル。13歳で危篤に陥った彼女の回想が描かれますが、その時母親が、「もう頑張らなくていいのよ」とヘイゼルの手を握り、その後夫(ヘイゼルの父)に取りすがり、「もう母親何て辞めたい」と号泣するのです。もちろんそれは、愛しい娘の苦しむ姿を見るのが辛い、母心が言わせたものです。しかし何故ずっと娘の手を握り締めないのだろう?と私は不思議でしたが、それはヘイゼルも同じなのです。ヘイゼルの心の底はずっと、この孤独な感情に束縛されていたと思います。

片肺の機能していないヘイゼルは、階段を上ったり立ち続ける事が苦痛です。しかしアンネ・フランク記念館で、意を決した彼女は、最上階まで上ろうとします。辛くて息の出来ない彼女は、上り切れるのか?固唾を呑んで見守る私でしたが、頑張れと応援する気が起きない。いつでも止めていいのよと、見守っていただけ。本当は止めて欲しいとすら思う。ただ階段を上るだけ。たったそれだけが、こんなにも切羽詰った気持ちにさせるなんて。「ゆっくりどうぞ」と言う見知らぬ男性の声が、空間を豊かに包みます。

最上階まで上り切ったヘイゼルが、ガスに抱きつきキスすると、周囲の人々が拍手する。それは私たち観客の代わりなんだな。肉体や精神を傷つける恐れから、彼女が解放された瞬間だから。愛するヘイゼルの気持ちを、ガスが受け止めたから。そのキスには、豊かな愛が溢れていたから。

不完全な肉体に宿る健全な男女の愛。しかしそこから急転直下、物語は急変化します。支える相手が入れ替わるその力強さに、恋と愛の明確な違いを感じさせられました。

ヘイゼルの父(サム・トラメル)が、「誰かを愛して良かっただろう?」と言うと、肯くヘイゼル。今の彼女ならきっと、あの時の母は、世界中で一番愛する者を失う苦しみに耐えられなかった、だから愛する夫にすがったのだと理解出来るはず。お互いを思いやりながら、ピリピリとした感情の交換をしていたはずの母と娘。大らかなこの父はきっと、二人を温かく包み込む潤滑油であったはずです。

主演の二人は日本では馴染が少ないでしょうが、これから大活躍するはず。地味目の印象ですが、その分賢さが際立ち、好感の持てるカップルです。ウィレム・デフォーが、ゲスト的に出演。ヘイゼルの愛読書の著者で、彼女は結末を教えて欲しいと熱望しますが、それは書きたくても書けなかったのですね。真の意味での、二人のキューピッドです。

この作品に高潔な印象を受けるのは、死に近づく若者たちが、自暴自棄にならず、最後まで人としての自尊心を大切にした事にあると思います。それを教えたのは親の愛。報いたのは子の親への愛。生への希望は男女の愛。愛・愛・愛。愛とは何か?教えて貰える作品です。




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