ケイケイの映画日記
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2011年11月03日(木) 「ウィンターズ・ボーン」




久しぶりに打ちのめされました。2010年サンダンス映画祭グランプリ作品。アメリカンドリームなど戯言のように思える、私たちの知らないアメリカを描いた作品。最底辺の貧困家庭を一人で背負うヒロインに、お為ごかしの励ましなど、何の慰めになるんだろうと、大人として恥ずかしくなります。厳しく辛い作品ですが、だからこそラストがあんなに輝くのでしょう。やはりアメリカの映画です。監督はデブラ・クラニック。

ミズーリ州のとある村。17歳の高校生リー(ジェニファー・ローレンス)は、精神を病んだ母親と、12歳の弟、6歳の妹の面倒をみています。その日暮らしのある時、服役中の彼女たちの父親が、家を担保に保釈金を作り出所しているのがわかります。裁判までに出てこないと、家を出ていかなければけません。リーは一人父親を探しに出ます。

荒れ果てたと言う表現がぴったりの村。ベッドや布団さえ満足になく、今日の食事にも事欠くリーの家は、貧しい家ばかりの中で、一番厳しい暮らしをしているようです。父親の親族ドリー家を訪ね歩くリー。男も女も皆、あらくれのならず者です。裏で覚せい剤の密造や売買をしており、父親の行先を教えて欲しいと言うリーの願いを、誰もが無視するどころか、踏みつけにします。

遊びたい盛りのはずなのに、大黒柱として一家を支えなければいけないリー。甲斐甲斐しく家族の世話をしながら、必死で家族を守っている。この子がこの家の母親なのです。本来ならしなくてもいい苦労を背負い込むリー。どんな苦境にも、弱音も愚痴もこぼさない。17歳なりの知恵を絞り体を張って父親を探す姿は、私には逞しさより痛々しさが先に募り、ひ弱いリーの母親に憎しみまで感じました。それほど劣悪な環境なのです。

学校での母親教室が行われているのは、10代の妊娠出産が多いからでしょう。リーを助けてくれる友人もその一人。遠縁の少女、リーの父方の叔父・ティアードロップの妻も、皆夫や目上の男性のいいなりです。暴力を恐れているのでしょう。女にも容赦ない仕打ちが待っています。これほどアメリカ映画で女性が虐げられる姿は、最近は記憶にないくらいです。この描写が、リーを励まし、先に進ますことを観客に躊躇わせているのだと思うと、監督が唾棄すべき一部の男性社会を告発しているように感じます。

ジェニファー・ローレンスがとにかく素晴らしい!いつも強い眼差しで冷静さを自分を見失わないリー。どんな難儀にも怯む事のないリーの、心細い内面が映された涙を流すシーンは、私も一緒に泣きました。ローレンスは抑揚を抑えた熱演で、気高く運命に負けないリーの内面を、観客に届けてくれました。

リーは家族の苦境を救うため、軍隊に志願します。結局は叶いませんが、若く愛らしい少女の選択としては、何と賢明なのだろうと感心しました。安楽に水商売に出て仕送りしてもいいはずですが、そうすると、家族を捨ててしまいそうになると思ったのでしょう。何度も出てくる「私もドリー家の人間よ」と言うリーの言葉。真っ当な人間など一人もいない親族の名を口にする時、切っても切れない血の濃さを自覚している彼女。同じような道を辿ってはいけないと、戒めとして心に刻む意味もあるはず。そして、画面には一度も出てこない、憎いはずの父親への慕情も感じるのです。この複雑であり自然な感情を両立させたセリフだと思いました。

ドリー家の人間だという事を、決して忘れなかった彼女を助けたのは?意外なようで、当たり前の人物でした。私の想像が当たっていれば、その人は自分を守るため、墓場まで持っていかなくてはならない大きな代償を支払ったはず。リーの懸命な姿は、彼に残っていた善き心に火を灯したのですね。ラストの「これはあげるわ」と語りかけるリーは、全てを飲み込み受け入れていたと感じました。17歳の少女としては必要以上の寛容ですが、これくらい器が大きくなくちゃ、この家族は守れないのでしょうね。

立ちすくむような逆境を超える若きヒロインを観て、大人として無力感をとても感じました。現実にもリーのような子は、世界中にたくさんいるはず。せめてこの子たちに恥じない大人でいよう、大切に毎日を生きよう、痛切にそう思います。目を覚ませてくれた監督に、お礼を言いたいです。


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