ケイケイの映画日記
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2011年10月11日(火) 「エンディングノート」




事実だけを映すと思われていたドキュメントも演出あり、と強烈に印象づけたのは、マイケル・ムーアでした。この作品はガンを宣告された父の半年を、末っ子で次女である砂田麻美監督が撮った、ホームムービーのようなドキュメントです。気さくなユーモアとバイタリティに溢れた画面は、一瞬死期が間近の人のドキュメントと言うのを忘れそうです。これも巧みで冷静な、監督の演出でしょう。しかしその隙間からこぼれる隠せぬ娘の愛は、父への感謝に満ちたものでした。

砂田知昭氏69歳。営業畑一筋の熱血企業戦士として40年、気が付けば役員となり、67歳で定年となりました。69歳の時、毎年受けている人間ドックでガンを発見。それも手術不能なタイプで、余命も数ヶ月と宣告されます。生来からの段取り好きの砂田氏は、死ぬまでにしたい事を「エンディングノート」に綴り、自分の葬式の段取りまで始め、死に向かって充実した日々を邁進し始めます。

監督は以前からホームビデオが趣味であったようで、被写体には父を好んで撮っていたようです。監督は一女一男に恵まれた後、予定外に9年後生まれた末っ子。実はうちの三男も予定外の子で、次男とは7歳離れています。予定内であれ外であれ、我が子には変わりなく、年の離れた三番目と言うのは、とにかく可愛いものです。親というものは、全部同じに育てているつもりですが、子供から観れば、それぞれ微妙に違う親のはず。恰幅良く押し出しの効く風情の砂田氏ですが、監督の事をことの他可愛がったのは、想像に硬くありません。人と言うのは多面性のあるものです。精力的で貫禄ある父のお茶目な部分を引き出したのは、監督が末っ子の利点を生かしたからだと思います。

生前直前の半年を映しながら、作品は砂田氏の生い立ちから青春時代、企業戦士だった頃、妻との間柄、成人した子供三人の生活などを、澱みなく浮かび上がらせます。特に監督は、何気ない両親の日常に、映像作家として非凡な腕をみせます。

94歳で健在な母との家族旅行。母上は愛知県で一人暮らしだそうで、何度も同居の話が出ますが、「まぁその〜、女同士は色々ありまして、ご理解下さい」と言う、砂田氏に扮した監督のユーモラスなナレーションが入ります。御母堂は背筋もピンと矍鑠たる様子、老婦人として寸分の隙さえ見当たらない気品と威厳に満ちた美しさは、もうちょっと若い頃は、さぞ手強い姑であったろうと想像に固くありません。対する夫人は65歳くらいでしょうか?仕立ての良いセンスのある装い、白髪ひとつ見えないウェーブの美しくかかった手入れの良いロングヘアは、決して華美ではありませんが、どことなく夫の病に対して緊迫感がなく、浮き世離れしている風です。

砂田氏は要するに仕切り屋で、外でも家庭でも主権を握っていたようです。しかし前から四番目の上の歯は10万円ほどのメタルボンドではなく、保険治療の歯。トーストに塗るマーマレードは、おかずのためのフォークで塗る、葬式はお金をかけない方が良いなど、男性らしい無頓着な大らかさも映し、決して堅苦しいだけの男性ではなかったようです。企業戦士として家庭を顧みない氏と夫人は、長年屈託を抱えて、決して夫婦仲は良くなかったと語られます。熱血社員夫VSお嬢様奥さんでしょうか?監督は両方に理解を示しています。

お墓の事、生前の葬式の段取り、医師とのムンテラ、孫との交流。私は実母、舅、姑の順番に亡くし、全て経験済の事ばかりで、当時を思い出し少し感傷的になりました。唯一ちょっと違うかな?と思ったのが、砂田氏が生きる意欲をかき立てるため、孫を甲斐にしていた事です。もちろん私の親達も孫を可愛がってはいましたが、見事に三人とも病床では、孫など刺身のつまでした。これは生と死の交差を実感を持って描くために、クローズアップしたのかな?と思いました。

秒読み段階になった砂田氏が、長男と葬式の段取りを確認し合っているのに、仰天した方もいるかも。私は理解できました。いくら死が目前に迫ろうが、当人も家族も、あまり実感が湧かないのです。仕事のように段取りを取り合う彼らに「男同士の会話だわね〜」と言う看護師さん。クスクス笑ってしまいます。そう、死の間際だって笑いはあるものです。

それと同時に、やはり涙にもくれるものなのです。家族全員が砂田氏を囲み泣く様子には、私も号泣。映らぬ監督ですが、カメラを抱えて涙する様子が見えるようでした。砂田家は平凡ながら、今の世の中では恵まれた家族だと思います。しかしその恵まれた人々でも、等しく死を迎えるのです。長年添い遂げた妻、優しく両親に寄り添った長女、姉妹に挟まれ男一人の責任を真っ当しようとする長男、そして身分の軽さを利点に、父の人生を肯定して描きたい次女。そして威厳と愛情を家族に振りまきながら、逝ってしまう父。この作品の秀逸なところは、観ている人は家族の誰かに、自分を置き替えて観られる事だと感じました。

私は当然夫人です。夫の「愛しているよ」の言葉に応えた夫人の言葉は、「私も一緒に死にたい」でした。長年葛藤があった夫婦仲が、夫の定年を機に週末婚に切り替え、新たな夫婦のステージに日が差した矢先の病でした。風通しの良い関係になって、夫と妻と言う呪縛から解き放たれて、お互いが理解できるようになったのですね。これも良くわかるなぁ。私も夫の事を、ただの友人なら何の文句もないのに、何故夫だとこんなに腹が立つのかと、長年悩まされたものです。執着の愛は複雑なものです。

明るく心豊かなお葬式の様子に被る砂田氏を想定したナレーションは、残した妻を心配する言葉の羅列でした。これをクローズアップしたのは、苦労をした母への、娘からのプレゼントでしょう。ドキュメントは事実を映しますが、その場面の取捨選択は、監督にあります。実際は他にも家族間の諍い、死への恐れなど、映すには忍びない場面もあったでしょう。しかしこの作品に映る砂田氏と家族の様子も、紛れも無い事実です。「幸せだった」と言う父の人生を、心豊かな記録として残したいと言う娘の気持ちは、充分に観る者を感動させるエンターティメントに仕上がっていました。

監督の師匠である是枝裕和は、実は監督が身内を映すドキュメントなんて、もっての他だと思っているのだとか。それがこの作品を持ち込まれて、その思いが完敗。プロデューサーとしてお金まで出したんだって。砂田監督才能ありますよ。私は次作も是非観たいです。またお金出してあげて下さいね。


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