ケイケイの映画日記
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2011年08月21日(日) 「人生、ここにあり!」




いや〜、素晴らしい!うちの患者さんたちそっくりの出演者の様子の、明るく笑って痛恨に泣ける内容は、まんま私の職場での日々です。それもそのはず、これは実話を元にした作品なんですって。デリケートな精神病を題材に、問題点もきちんとリアルに盛り込んで、こんな素敵なコメディが作られるなんて、本当にすごい。起伏のある山あり谷ありのストーリー展開も、パワフルで文句なしです。監督はジュリオ・マンフレドニア。

1983年のイタリア・ミラノ。熱血漢の組合員ネッロ(クラウディオ・ビシオ)は、そのあまりの熱血ぶりが他の組合員の反発を招き、別の組合に異動になります。そこは労働組合とは名ばかりで、精神病患者たちが、切手貼りなど、極めて単調な軽仕事をこなしているだけ。労働ではなく、今でも保護される対象です。最初は戸惑うネッロですが、彼らに労働の意義や楽しさを知ってもらおうと、奮闘します。

イタリアは1978年に制定された「バザーリア法」により、精神病院の入院を廃止、予防や治療は地域の保健サービスが担っています。バザーリア法という名前は、この制度を提案した精神科医師フランコ・バザーリアにちなむもの。尚、やむおえない時には総合病院に病床15床のベッドを用意し、二名の医師の個別の判断の元、入院も可能です。

彼らの主治医であるデルベッキオ医師がさらっと語る、「彼らが退院して、今度は家族が発狂しそうになった」と言う台詞は、テンポ良くユーモアたっぷりに進むお話の中の前半で、とても重たく響きます。確かに毎日毎日感情の起伏が激しい彼らの世話は、家族は情や執着が絡むので、愛情だけで世話がしきれるものではないでしょう。観ていると実際のところは、家族と暮らしている人や一人暮らしの人の他、日本で言うところの、グループホームやケアホームで暮らしている人も多いようです。

登場する患者たちの様子が、あまりにリアルで目をパチクリしてしまいます。多弁な人、妄想や思い込みのの激しい人、凶暴そうな人。きちんと薬を服用していても、気分の落ち込みの激しいときは、起きることも出来ないところ。そうだ、滑舌も悪い。特に薬の副作用で、歩き方が多少歪になったりするところまでパーフェクトに表現しています。オーディションで選ばれた役者たちは、一年間精神病患者と過ごして、彼らの様子を観察したとか。こういう細かい演技指導は、デリケートな題材であるだけに、好感が持てます。

「イカれているけど、バカじゃない」彼らを、保護され管理される生活から、労働して収入を得て自由な生活へ。自分の信念の元、彼らの精神を改革していこうとするネッロ。ひょんな事から寄木の床張りが評判を呼び、彼らの組合に仕事が殺到します。

始めて労働の喜びを知り、見違えるように生き生きしていく彼ら。彼らの生活の急激な変化を危惧するデルベッキオ医師や家族。規則正しい服薬は副作用も多く、彼らに仕事は無理だと言うのです。そこへ薬の投与の減薬を提案するフルラン医師が登場し、患者たちの多数決で主治医はフルラン医師へ。彼らは望み通り仕事を始めるのですが、軌道に乗った頃、思わぬ大事件が起こります。

ネッロは精神疾患には疎く、服薬の大切さはわかりません。フルラン医師の、自分の観察下において、必要最小限の薬で、精神病患者に人並みの暮らしをさせたいと言う願いもわかります。でも一見過剰摂取のように思えるデルベッキオ医師の処方は、長年彼らを診ている見地から、両刃の剣になりかねない「人並みの暮らし」より、病気と共存し、心穏やかに生きて欲しいと思う親心でもあると感じました。家族の思いも同じ。病気の彼らをずっと見守って、出した結論だと感じました。

しかし起こった出来事は、彼らが精神病だから起きたんでしょうが?友人の悪口を言われたら、誰だって怒るでしょう?恋に悩んで行き詰まったら、誰もがこの不幸を同情するはずです。精神病患者が怖いのではないのです。誰もが経験するはずの挫折や苦難が、彼らに降りかかっただけ。問題はこの経験をどう活かすか?私たちの日常と同じなのです。映画はそのことを立証する展開です。

彼らの生き方を変えられると思っていた、自分の傲慢さを反省し、落ち込むネッロ。これも指導する立場の経験のある人なら、相手は精神病患者に関わらず、誰もが経験する自己満足の結果です。しかし感情の起伏を抑えるのが苦手な彼らは、想像を遥かに超えたことを仕出かしてしまい、取り返しのつかない結果を招く事もあるでしょう。彼らと深く接するならば、やはり前もって勉強した方が良いのだと思います。


女性と経験のない彼らが、国から正規の助成金を得て、その道のプロと初体験する件は爆笑ものです。恋もセックスもきちんと描くのは、情熱の国イタリアですね。しかし実際はその事に盛大にお金使って、食費にも事欠く人もいるので、私には正直映画の中での笑いだけに留まってしまいました。

仕事をして、自分たちの存在意義を確認した彼らが、落ち込むネッロに対して行なった事は?これは大いなる成長で進化です。デルベッキオ医師の保護の下にいたのじゃ、この成長はなかったはず。それを素直に認める老医師の姿も素晴らしいです。笑いと涙に包まれながら、精神病患者と一般社会の共存を見事に示唆した、本当に立派な作品です。

出てくる患者たち、気持ち悪かったでしょう?そう思って良いんですよ。受付にいて、私だってそう思う患者さん、いますから。自分の清潔に気を配れないので、臭い人不潔な人が多いのも特徴で、顔をしかめることもしばしば。それは差別でも何でもないと思います。ただ病気持ちだからと言って、むやみに怖がらないで欲しいのです。心の綺麗な人、根性の腐ったの、したたかな人、優しい人、色々いるのも普通と同じ。心をニュートラルにすれば、気持ち悪いがキモカワくらいにはアップするから、あら不思議。

実際の現場は、この映画のように笑いが絶えず楽しいです。それは嘲笑ではなく、ファニーな笑いです。一般的に連想される、生気のないどよ〜んとした空気は、ありません。この作品以上に手強い患者も多く、ネッロのように落ち込む若い職員さんを観て、ただの受付の私は痛く同情してしまい、何とか後方支援できないか、考える日々。そういう職場が精神科です。ただヴァイタリティはイタリアに負けるかな?

私にも気になる患者さんがいて、私の顔を観れば、「今日はデイ(ケア)休む」「お腹痛い」「デイのあとは(グループ)ホームに帰れへん」「明日は静岡まで行く」(行くと言ったら本当に行ってしまうのだ)と、一方的に話す彼。これ全て甘えで、私になだめて欲しいのです。この手の甘えは若い職員にはせず、私を含むオバチャン職員にしかやりません。おばちゃんたちは、いい年こいた彼が、子供にしか見えないという母性本能をつついた、高等技術です。そういう人を見る目(?)があると言うか、悪知恵があるのも、普通の人といっしょ。それが最近、「どんな絵を書いて欲しい?」とか、「どこから来てるの?」とか、私に質問するのです。一方的な会話に慣れていた私は、もうびっくり。嬉しくって。でも次の日は知らん顔です。私も精神科に勤める端くれ、ネッロのように先を急がず、彼が歩み寄ってくれるまで、待つとしますか。



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