ケイケイの映画日記
目次過去未来


2009年09月13日(日) 「クララ・シューマン 愛の協奏曲」




私のようにクラシック音楽に疎い人でも、シューマンやブラームスは馴染みが深いはず。この二人とシューマンの妻であるクララの三角関係は、書物で読んだことがあり、知っていました。しかし作品の方は、主に芸術家の才能との葛藤を軸に描いてあります。高尚でもなく下世話でもなく、品よく描けている秀作で、芸術の秋にはぴったりの作品です。監督は女性でブラームスの末裔である、ヘルマ・サンダース・ブラームス。

ロベルト・シューマン(パスカル・グレゴリー)とクララ(マルティナ・ゲデック)は、作曲家とピアニストの夫妻。7人の子をなしていますが、生活の為、二人で演奏ツアーに出ています。そんなある日、若き無名の作曲家ヨハネス・ブラームスと出会います。楽団の音楽監督としてロベルトが招かれることとなり、やっと家族揃って安住の家を持てた時、再び夫婦の前に、クララに捧げるピアノ曲を携えたヨハネスが訪ねます。彼の才能を見込んだ二人は、ロベルトの後継者として育てるため、ヨハネスを同居させます。

冒頭は素晴らしいピアノ演奏を見せるクララのシーンで始まります。自分の曲を弾く妻に聞き惚れる夫ロベルト。うっかり結婚指輪を落としてしまい、偶然拾ってくれたブラームスを睨みつけます。拾ってくれたのに、無礼ではありますが、それほどシューマンにとっては人に触られたくないものなのでしょう。妻であり我が子たちの母であり、そして自分の書いた曲を豊かな表現力で完ぺきに奏でるピアニストでもあるクララ。このシーンに、シューマンの妻への気持ちが凝縮されていたように思います。

旺盛な仕事ぶりとは裏腹、シューマンは酒浸りで始終頭痛に悩まされています。おまけに気難しく人前に出るのが苦手。楽団員の前で指揮に失敗した夫に代わり、クララがタクトを振ります。女性蔑視が半端ではなかった時代、心無い言葉を浴びせられながら、見事に楽団を指導するクララ。凛とした強さに溢れるこの姿は、どこから来るのでしょうか?

「楽団員の前では威厳を見せて。生活がかかっているのよ」と、夫を叱咤激励する一家の主婦としての責任。そして天才ではあるけれど、頼りない夫を持ったため、彼女はその力を発揮する機会が与えられた訳です。秀でる才能を持ちながら、偏見で埋もれさせてしまった女性たちは、当時はたくさんいたでしょう。見事な指導のあと、草原を走り寝そべるクララの表情は、内助の功を成し遂げた顔ではなく、自分への喜びに溢れていました。

次第に幻聴も聞こえるようになってくるシューマン。一説には若い時に患った梅毒が原因との説もあるらしいですが、映画では自分の才能を持て余し、いつしか才能の枯渇に恐れたシューマンが、精神的な病に向かったと感じさせます。アルコールでは利かなくなり、次に手を出したは薬物でした。

最初は断るも、悩みながらも夫のために薬物を手に入れるクララ。妻としては、毅然と断るべきでしょう。例えそのため、シューマンが曲を作れなくなり生活が困窮しても、彼女がピアニストとして働けば良いわけです。しかし夫の才能を誰よりも愛したのは、妻であるクララでした。シューマンの曲を聴き、感動の涙を流すシューマン宅の料理人の老婆。生活感に満ちた、芸術とは無縁であるような市井の人の心をも感動させる夫の才能を、枯らせてはいけない。それは同じ音楽家であるクララが、曲を作れない夫の辛さを誰よりも理解してしまったため、与えてしまったと感じました。

薬物と妻に依存するあまり、DVまがいのこともしてしまう夫。許してしまうクララには、「私がいなければこの人は・・・」という、そういう夫を持った人の、根源的な部分も見えてしまいます。男女でもあり芸術家同士でもあったため、必要以上に絆が深かったのかなとも感じます。

張りつめた夫婦関係に入り込んだブラームス。シューマンへの敬意、クララへの愛情、子供たちを慈しむ彼。そしてその類まれな才能。この問題の多い家庭を風通しよくさせ、持ちこたえさせているような描き方でした。まあ監督がブラームスの末裔ですから、そこは御愛嬌。一種風来坊めいた自由人でもあるのですが、演じるマリック・ジディが本当に爽やかな好青年で、容姿も端正で優しく品があるので、すごく説得力がありました。

パスカル・グレゴリーも、芸術家の才気と神経質な弱さを上手く表現していました。観客の同情も引かなければいけない役で、難しかったと思いますが、とても良かったと思います。子供たちと直接関わるシーンは少なかったですが、子供に声を荒げることも無様な姿を見せるシーンもありません。実際のシューマンは大変子煩悩で、子だくさんだったのは彼の希望とか。そういう良き一面は、健やかで可愛い子供たちの姿で、表現されていたのかもしれません。

ラスト近く、ある行動をとる決意をしたシューマンが結婚指輪を外し、妻に渡してくれと言います。冒頭のシーンとの対比だと思いました。これは足でまといになった自分から、妻を解放させるためのことだったかと思います。妻の才能に理解を示すシューマンは、決して「智恵子抄」的男性ではなかったと思います。フェミニズム映画としての側面も感じさせます。

そしてマルティナ・ゲデック。「善き人のためのソナタ」が、本当に忘れがたい人です。この作品のか弱く繊細なクリスタとは対照的な、芯の強いクララ。その器の大きさには惚れ惚れするくらいです。家庭の苦境にも、彼女が涙したシーンはたった一回。しかしその強さは、家族への溢れる母性と、自分の才能を開花させることを忘れない姿勢が強調されているため、恐れより共感を呼びます。そしてマルティナの特性である官能性。その色香は色で言えば上品なパープルです。年増女が若い男性を虜にするといえば、ある種いやらしさが付きまといますが、彼女が演じることで、瑞々しく落ち着いた艶を感じさせ、説得力が増しました。音は吹き替えでしょうが、ピアノを弾く姿も様になっており、タクトを振る姿もお見事。とにかくクララを演じて、マルティナの演技はパーフェクトでした。

クララとブラームスの関係は、諸説色々あるそうですが、この作品では生涯プラトニックであったと描いています。ラストのクララの演奏を聴き惚れながら涙するブラームスを見て、それはそれで、ちょっと良い大人のお話だと私は思います。

当時最下層であろう人々の前で、ブラームスがリクエストされピアノを弾くシーンがあります。今でこそクラシック音楽と言えば高尚なものですが、当時は流行歌と同じようなものでもあったのだなと、改めて思います。娯楽がいつしか芸術に転化されたのですね。そういえば以前、あと50年したらビートルズの曲もクラシックだ、と書かれた記述を読みました。確かにそうだなぁ。

私が音楽を聴き涙したのは、リンダ・ロンシュタットの「またひとりぼっち」を聴いた時と、我が母校であのストラディバリウスで生演奏してくれた、ヴァイオリニストの辻久子さんの演奏を聴いた時。どちらも感情より先に涙が出て、自分でもびっくりした記憶があります。いずれも高校生の時でした。この体験からすれば、人を感動させるのに、高尚も大衆的もないのですね。これは映画にだって言えることです。

ブラームスが「子守唄が歌える?」と聞かれて歌うのが、あの「ブラームスの子守唄」だったり、子供たちとダンスを踊るために弾いた曲が「ハンガリー舞曲」だったり、随所に名曲の数々が演奏されるのも聞きものです。でもシューマンは知らない曲ばかり。シューマンと言えば「流浪の民」くらいしか頭に浮かばない私。駄目だなぁ。でも鑑賞後、スクリーンから出てきた老紳士お二人が、「シューマンは知らん曲ばっかりやったなぁ」とお話されていたので、ちょっとほっとしています。私は景気づけに音楽を聴くときは、ツェッペリンだったりクィーンだったりするんですが、この秋はクラシックもいいかなぁと、思わせる作品です。


ケイケイ |MAILHomePage