ケイケイの映画日記
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2009年06月28日(日) 「ディア・ドクター」




前作「ゆれる」で、たくさんの映画ファンを唸らせた、西川美和監督の三年ぶりの新作。今回もすごい、素晴らしい。西川監督は丹念かつ的確に、登場人物の心理を浮き彫りにするのが非常に上手い人です。「ゆれる」では男兄弟、今作では中年男性医師ですが、まだ三十代半ばの愛らしい女性(可愛いんですよ、この人)、何故こうも男性心理が理解できるのか、本当に驚愕してしまいます。今回は僻地医療にも言及しており、社会派の面も感じさせる秀作です。

山間にある人工1500人の小さな村。村でたった一人の診療所医師・伊野(笑福亭鶴瓶)は、看護師の朱美(余貴美子)と共に、献身的に患者の治療にあたっています。とりわけ伊能は、長らく無医村だった村に来て三年半、村人からは神のように慕われています。そこへ東京から研修医の相馬(瑛太)がやってきます。最初はいやいや研修にあたっていた相馬ですが、伊野に対する絶大な村人たちの信頼感を目の当たりにし、研修期間が終わっても、ここに残りたいと思い始めます。そんなある日、一人暮らしの老夫人かづ子(八千草薫)が、自分の身体について、伊能にある「嘘」を頼んだことから、伊野は失跡してしまいます。実は伊野自身も重大な「嘘」を抱えていました。

私は役者鶴瓶に対しては疎く、何故彼が主役?といぶかしかったのですが、終わってみれば、彼ほどこの役に適任な人はいないと感じます。誰でもすぐ溶け込めるような、人を選ばない愛嬌のある笑顔。しかしふとした拍子に見せる小さな目の奥は、猜疑心の塊のようです。見方によれば小悪党に感じ、もしかしたらもっと悪党かも知れないと思わす瞬間もあります。直後にそれを打ち消すように、また笑顔。村人にはわからず、観客だけにわかるように感じる演出です。

伊野の嘘に加担するのが、医師以外の医療関係者だというのが、医療を取り巻く環境の、根深い問題を提議しています。伊能の嘘を知りつつ加担する薬問屋の営業の斎門(香川照之)。彼が吐露する国家資格のない、末端で医療に携わる者のやりがいは、私も病院で働く医療事務員(それもパート)なので、非常に共感するものがありました。なので「年寄りを自分の自慰に使っているのか?」という刑事(松重豊)の言葉は、冷水を浴びせられたような気がしました。確かに患者の役に立っている、そういう思い込みは、ただの自己満足なのかも知れません。しかし伊能の嘘を、「金なのか?愛なのか?」斎門に問う刑事に見せた彼の行動は、伊野を庇うだけではなく、自らの自尊心も示しています。

ベテラン看護師の朱美とて、当初から伊野の嘘には気付いていたはず。しかし老衰でみとる以外、これといって命に関わる病気が起こらなかったのでしょう、見て見ぬふりをしていのだと思います。理由はやはり、無医村であったから。なので重篤な状態で運ばれた患者の容態を朱美が先に見抜いたシーンは、この作品一番の緊張感が溢れます。「長く救急(病院)にいました。お手伝い出来ると思います」という控えめな言葉が、医師と看護師の力関係を物語っています。

病院にはこの他、理学療法士、臨床検査技師、医師以外のたくさんの医療者がおり、外をみれば、薬問屋以外にも製薬会社、医療機器メーカーなど、たくさんの人たちから、医療と言うのは成り立っているはず。医師だけで医療は成り立っているのではありません。甚だ未熟な医療事務員である私でさえ、「医師」という名の前には、どんなに理不尽な言葉にも口応え出来ず、悔しい思いをした経験があります。上記の人達はベテランであればあるほど、仕事が出来れば出来るほど、砂を噛む耐えがたい思いをたくさんしているはずです。医療の最前線で働いていた、それも優秀であるだろう朱美が、何故こんな僻地で看護師をしているのか、その理由もここにあるのでしょう。

れっきとした医師であるはずの相馬だけが、伊野の嘘が見抜けませんでした。このことからも、医療業界と言うのは、経験がものを言う世界だとわかります。伊能の嘘によって、僻地医療への夢と希望が砕かれた相馬。しかし伊能の元で学んだ彼の言葉には、患者側への提言も含まれます。「東京の病院では、患者の逆恨みや苦情で追い詰められていたのに、ここでは医師への感謝と敬意に満ちていて、本来のあるべき姿がある。医者としてのやりがいを感じるんです。」この言葉は、良き医師を育てるのは、患者の責任でもあるのだと思いました。

自分の父親の本当の仕事を、かづ子以外には語らなかった伊野。父親の仕事が彼にコンプレックスを持たせ、彼に嘘をつかせた起因であったと思います。どんなに優秀な大学を出ていたとて、父親の仕事を彼が口にすれば、なーんだと、相手は伊野をみくびり軽く侮蔑する、そんなことが多々あったことは、想像に難くありません。そのことで父の仕事に憧れ、憎む伊野がいたはずです。

「次々投げてくる弾」を的確に打ち返すことは、伊野に陶酔感をもたらすと同時に、常に逃げ出したい、とてつもない緊張感をもたらしたはず。我慢出来ず、時々冗談交じりに伊野が吐露する「真実」。それは多分、逃げ出したい気持ちが数段勝っていたと思わせます。それが出来なかったのは、長らくこの地が無医村であったためです。斎門の語った言葉が全てでしょう。例え嘘から始まったことでも、伊野なりの誠意と責任があるのです。そして村全体で、伊野の嘘を真実にしてしまったのだという、刑事の言葉も真理です。しかし、誰がそのことで村民を責める権利があるのでしょうか?

かづ子の娘であり医師であるりつ子(井川遙)。無医村である故郷を知るのに、自分の親でさえほったらかしの彼女。姉たちは陰で詰りますが、その事に医師であるりつ子が、心を痛めないはずはありません。しかしどうしようもないほど、都会の医師たちは多忙なのです。多分心身ともにすり減った日々を送るであろう彼女は、「あなたは伊野を訴えることも出来ます」という刑事の言葉に、「村の人に訴えられるのは、私の方かもわかりません」と、自嘲気味に答えます。地方出身のたくさんの医師の、内心の忸怩たる思いを、監督は彼女で表現したのだと思います。そして「彼(伊野)が、どういう風に母を診る気であったのか、知りたい」という彼女の言葉は、今のままの医療ではいけないのだという、医師側からの危機感も感じます。

西川監督の作家性でもある、常にスクリーンから漂う緊張感。しかしこの作品からは、一瞬気を抜けるユーモアもふんだんにありました。例えば老衰で亡くなる寸前の老人(高橋昌也)を往診するシーン。亡くなる事を前提に話を進める家族を尻目に、蘇生の準備をする相馬。それを遮って、「よう頑張った」と、伊野が老人の「遺体」を抱きしめ、心から労った後に起きた「奇跡」。そのユーモアで表現した部分こそ、監督が医師と患者との本当のあるべき姿を提言していたのかと、今感じています。かづ子との関係もしかりです。

今の医療を取り巻く環境は細分化され、本当に難しく問題が山積みです。しかし軸になるのは、病気を治したい患者と医療者側の、一丸となった強い気持ちであるのは、今も昔も変わりはないはず。片方に偏らず、両方にしっかり目くばせを効かせた作品で、とても考えさせられることがたくさんありました。病気は誰でもなるもの、医師には敬意を持ち、かつ奥する事無く何でも相談できる対等な環境を作らねばと、患者側でもある私は、痛感した作品です。


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