ケイケイの映画日記
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2008年10月03日(金) 「イントゥ・ザ・ワイルド」




予告編とショーン・ペンが監督ということだけを頼りに観ました。裕福な家庭に育った、感受性豊かな青年の自分探しだと思っていた予想は、早々に撤回。まるで自分の身を切られるような痛みと厳しさを主人公と共有し、彼の魂の慟哭と浄化の繰り返しを観て、何度涙したかわかりません。その果ての粛々とした静寂と心からの安息。なんと素晴らしい作品でしょう!

1990年、ジョージア州アトランタの大学を、優秀な成績で卒業したクリストファー(クリス)・マッカンドレス(エミール・ハーシュ)。裕福な家庭に育った彼でしたが、両親(ウィリアム・ハート、マーシャ・ゲイ・ハーデン)からの援助の申し出を全て断り、無一文からアラスカを目指し、家族から身を隠すようにして旅立ちます。名前もアレキサンダー・スーパートランプという偽名を使い旅するクリスは、行く先々で様々な出会いと別れを繰り返します。

ただのお坊ちゃんの自分探しではなかったのです。彼の育った家庭は複雑で、幼い時から両親の不仲を観ながら、妹(ジェナ・マローン)と二人、心を痛めて育ったのです。ケンカの繰り返しだけならまだしも、父親の暴力、子供たちも呼ばれての話し合い、果てはどちらの親を選ぶかなど、子供には残酷で辛い事ばかり。子供を交えての話し合いなど、所詮親の言い訳で、こんな時の子供は、両親の果てしない詰り合いを聞きながら、居たたまれず、なすすべもなくただ涙を流し続けるだけなのです。それがどんなに心に傷を残すのかは、私にはとてもよくわかる。だって私がクリスと同じように育ったんだもの。

彼の放浪は途中車も乗り捨て、ヒッチハイクと野宿が主で、お金が底をつくと働く事の繰り返し。リュックに生活用品一式を背負い、缶詰を食べ畑の放水車で体を洗い、草むらで眠る毎日。文明を否定した生活はとんでもないのですが、しかし優等生であることを強いられ、重苦しかった親からの解放で、望んでいた真の自由を手にした彼は本当に生き生きとしていました。家庭に問題があると、子供は自立する時を逸してしまいがちです。飛びたい時に飛べないのです。彼の取ったこの極端な行動は、如何に親の呪縛が強かったかと物語っていると感じました。しかし自由を得た彼は、尚もアメリカで最後の未開の地と言われるアラスカ行きをあきらめません。「自然の中では自分は強いと思いこむのだ」という書物の引用が出てきますが、クリスはもっと強い自分になりたかったのでは?

何故強くなりたいのか?今の自分では、クリスは親を受け入れ赦すことが出来ないからだと感じました。少年のような純粋な感受性のまま青年になったクリス。いつまでも親、取り分け父親を許せぬ卑小な自分が、きっといやだったのだと思います。学資金の2万4千ドルは、恵まれない人に寄付して旅を開始します。学資金はクリスが優秀な成績を収めて得たものでしょう。しかし親の庇護の元、勉強に励むことが出来た結果だと、聡明な彼はわかっていたと思います。親の影が一切ない清貧の暮らしの中、「アレクサンダー・スーパートランプ」として、どこまやっていけるのか?ただの親への反抗心ではなく、気骨のある反骨心だと思いたかったのだと感じました。

たくさんの出会いの中、彼らに学び彼らに与えるクリス。ヒッピーカップルのレイニー(ブライア ン・ディアカー)とジャン(キャスリン・キーナー)、気がよく豪快な農場主のウィル(ヴィンス・ボーン)、孤独だけれどクリスを慈悲深く包む老人ロン(ハル・ホルブルック)。それぞれの場面が一言では言えない味わい深さで描かれ、強い余韻を残します。

クリスに自分の息子を重ねたジャンは、「御両親に連絡は取っているの?」と心配します。同じ立場のジャンの息子の気持ちは、痛いほどクリスにはわかるはずなのに、ジャンは受け入れ、あくまで親は否定するクリス。これが血の執着だなと思います。何度も彼の日記で「いい人だ」と表現されたウィル。厳格で粘着質な父親とは正反対の、肉体労働者の善良さと豪快さを併せ持ち、「この頭でっかちが!」と叱咤する彼に、クリスは男として憧れを抱いていたのではないでしょうか?ウィルが「檻に入る」ことがなければ、もっと長くに彼の下で働き、クリスはアラスカには行かなかったかもしれない、そんな気がします。

そしてロン。ロンが多くのヒッチハイカーやヒッピーたちとは違う佇まいを、クリスに感じた事が、二人の縁の始まりです。私も観ながら感じていましたが、髪がボサボサ、顔も洗えず泥だらけで破れた服を着ていても、クリスには清々しさが漂っていました。人生の風雪を超えた老人の目には、その心だけが映ったのでしょう。

別れ際に「君を養子にしたい」と言うロン。それはたった一人アラスカの奥地に向かうクリスに、「君は孤独ではない」と言いたかったからだと感じます。私はもっと孤独感の漂う放浪だと、観る前は想像していました。それが良き出会いに恵まれ、クリスは本当の意味での孤独を知らないまま過ごします。壮絶な孤独を経験したロンだからこそ、これから孤独に苛まれるであろうクリスに、ここで自分が待っている、だからあきらめるな、そういう意味が含まれていたように感じました。ロンの流す涙は、ただの寂しさではなかったと思うのです。

本当の意味でのサバイバルな、森での日々。他の土地では感じられない、本当の意味での「荒野」を感じさせます。しかし荘厳で雄大な自然は、決してクリスを拒んでいるようには感じませんでした。彼に試練を与えながら、手を差し伸べてはくれませんが、乗り越えてごらんと見守っているようにも感じるのです。とても父性的だと感じました。クリスにとってこの自然と立ち向かうのは、父親と向かうことだったのでしょう。

ラストの顛末は悲劇だったのでしょうか?私はそうだとは思いません。「幸福が現実となるのは、それを誰かと分かち合ったときだ」。クリスが最後に得た教訓。本当の孤独を知り衰弱した体が震える時、彼の脳裏に浮かんだのは、自分を抱き締める両親でした。ロンが語った「神に愛される瞬間」というのは、こういうことなのかと感じました。

人を変えるには自分が変わらねばならない。この言葉はよく使われるフレーズですが、言うは安し行い難し。実際は我慢したりあきらめたりすることを、人は「自分が変わった」と思いこんでいるのではないか?連絡のない息子を心配する両親の劇的な変貌を、画面は映しています。クリスは反抗や説得ではなく、自分が変わる事によって、親を変えたのです。身を呈して親に捧げた、崇高な息子の愛だったのではないかと、私は思いたい。思い切り泣きましたが、決して哀しい涙ではありませんでした。

エミール・ハーシュは、他の作品ではほとんど記憶に残らず、この作品が初めてと言っていいかも。なんで何の賞も取らなかったのかと憤慨するほど、素晴らしい!ラストで本当のクリスが映るのですが、顔立ちは違うのに、本当のクリスが乗り移ったのではないかと思うほど、劇中のハーシュはそっくりでした。他の出演者も演技巧者ばかり集めての派手さのない作りは、とても好ましかったです。

カメラが雄大な自然をとても美しく厳かに撮っています。お話としてはとても地味で、面白みがないはずなんですが、2時間半、引き込まれる様に見つめ続けました。魂が大きく揺さぶられて落ち着いた後、ペン監督の偉大さに気付かせてもらいました。今のところ、今年のNO・1候補です。


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