ケイケイの映画日記
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2008年04月20日(日) 「大いなる陰謀」




ロバート・レッドフォードの七年ぶりの監督作品。「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」という言葉は、確かマッカーサーの言葉だったと思いますが、70〜80年代のハリウッドを支えてきたこちらの老兵は、消え去りません。今の自分の立場と同じ、非常に地味な立ち位置から自国民に向けて、強いメッセージを発しています。成熟というより老熟とでも呼びたい造りは、インテリジェンスのある、とても気骨溢れるものでした。

ジャーナリストのジャニーン・ロス(メリル・ストリープ)は、大統領への野望に燃える共和党の上院議員アーヴィング(トム・クルーズ)から、面談を持ち込まれます。かつて彼のことを「新進気鋭の若手議員」と紹介してくれたジャニーンを使い、売り込みをかけてきます。しかしジャニーンは、そこに胡散臭い情報操作を感じます。その頃大学教授のマレー(ロバート・レッドフォード)は、優秀で見どころがあったのに、最近授業に身が入らない学生トッド(アンドリュー・ガーフッィールド)を呼び出します。そしてアフガンの戦いに志願した、二人の自分の学生ロドリゲス(マイケル・ぺーニャ)とフィンチ(デレク・ルーク)のことを、語ります。

今や完全に一線からは退いたレッドフォードですが、かつてはハリウッドの屋台骨をしょっていた人で、初監督作品の「普通の人々」では、オスカーも受賞。とても美しい人でしたが、清潔で誠実な雰囲気が漂うのが魅力で、一度くらい彼の虜になった、私前後の年齢の女性は多いと思います。私も高校生の時、大毎地下劇場で「追憶」と「スティング」の二本立てでノックアウト(昔も今も私の異性の好みは、誠実・知性的・面白みが薄いが三本柱)。ブラピが注目され始めた時、レッドフォードにそっくりだと、言われてましたよね。



毎年ユタ州で開かれるインディーズ作品最大の映画祭、「サンダンス映画祭」は、独立系の若手映画人を支援するため、レッドフォードが始めたものです。サンダンスの名は、←の画像の、私の大好きな「明日に向かって撃て!」の彼の役名・サンダンス・キッドから取ったものです。以上有名なお話ですが、もしお若い人が読んで下さっていたらと思い、書きました。レッドフォードがいかに偉大な映画人であるか、知っていただけたら嬉しいです。

映画はアーヴィングとジャニーン、マレーとトッド、そしてロドリゲスとフィンチの様子が、交互に描かれます。

アーヴィングは野心家ながら、なかなか賢い人で、巧みに手の内を見え隠れさせながら、ジャニーンを惹きつけます。「私もあなたも、未来の為、過去を反省することが重要だ」など、政治には疎い私も肯く論法で、かつての「自分たちの」あやまちに言い及ぶ場面では、優秀なベテランジャーナリストであろうジャニーンが、言葉に窮します。この二人の場面は、映画的娯楽度は薄いのですが、あまり観慣れないプロットなので、興味深く観られます。

アーヴィングの役にトムを起用したのは、彼のカリスマ性とスター性で娯楽不足を補いたかったのかな?なかなか良かったです。受け身の芝居が要求されるストリープは、いつも通り完璧な演技で、私は退屈しなかったです。

トッドに思い通りの人生ではなかったと語るマレーは、今は優秀な人材を見付けだし、「正しい道」に進んでもらうのが楽しみだと語ります。しかしその「正しい道」は、マレーが決めるものではなく、彼ら自身が決めるものです。自分の誘導が軽率だったので、フィンチとロドリゲスは志願したと悔やむマレー。

黒人のフィンチとメキシコ系のロドリゲスは、アメリカに置ける格差社会の象徴なのでしょう。奨学金の取りにくさ、志願から戻れば授業料は無料だと、彼らの口から言わせます。授業の様子では、社会制度を底辺からコツコツ改革するという彼らの案に、鼻で笑うような白人の同級生たち。そこには蔑視や嘲りも感じさせます。ここの大学は恵まれた白人層の学生が主流で、フィンチたちは、異端です。結局アメリカの富裕層では、マイノリティーをまだ「アメリカ人」とは認めない空気を感じます。色々な政策で、格段に差別はなくなったと、遠くの日本からは感じますが、政策によって守られているということは、まだ「守られる存在」なのですね。そこからの脱皮が「アメリカ兵」としての志願だったと感じました。

彼らが敵に囲まれた中、引きずる足を無理やり立ちあがったのは、「アメリカ人としての誇り」なのでしょう。名誉と言う言葉も浮かびます。確かに泣かせる場面なのですが、それだけの意味で、監督は演出したのでしょうか?彼らの行動は尊く潔いけれど、そうさせたのは、アメリカと言う国の責任だと、言いたかった様に感じました。

でもそれって、遠くのベトナム戦争の時代から、ずっと同じなのではないでしょうか?描き方が古いのではなく、2001年を題材にしたということは、これがまだまだ真実なのかもしれません。

トッドは、誰が政治をつかさどっても同じだと語ります。この辺は日本の若者と同じ。政治や勉強に興味をなくしているトッドに、フィンチたちを引き合いにだし、それでいいのか?と促すマレー。マレーはレッドフォード自身、トッドは観客なのです。レッドフォードは有名な民主党支持者ですが、今の自分の立ち位置を考えて、啓蒙するより、観客自身に考えてもらう手法を取ったところが、控えめな知性と、強い気骨を感じました。

ジャニーンの背後にも、忍び寄る寒々した老後を感じさせます。これもアメリカが抱える現実なのでしょう。戦争で亡くした多くの若者の墓の前で、彼女が流した涙が、とても印象的。ジャニーンは矛盾を感じながらも記事にするのか?トッドは再びに勉学に意欲を持つようになるのか?映画に答えは出てきません。

しかしジャニーンがトッドが、そして観客がいかなる行動を取ろうとも、決して監督は責めたりしないでしょう。そういう父性的な包容力も感じます。この作品を観て、国について政治について考える、そうして欲しいとの思いが強く残りました。決して面白味のある作品ではありませんが、70歳と言う年齢で、このような志の高い作品を作ったレッドフォードを、私はリスペクトしたいと思います。


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