ケイケイの映画日記
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2007年08月26日(日) 「イージーライダー」(布施ラインシネマ ワンコインフェスティバル)




ご存じアメリカン・ニューシネマの金字塔的作品です。今回のフェスティバルで、私が一番楽しみにしていたこの作品、昨日レイトにて観てきました。昨夜はチビが合宿、上の二人は給料日直後の土曜日とあって家なんか居る訳もなし。夫一人しょぼくれて残しておくわけにも行かず、「お父さん、今日は晩はどこかでご飯食べて、『イージーライダー』観に行くで。」「『イージーライダー』?なんとかフォンダの出ている、暴走族の映画か?」そうそう、昔の東映の舘ひろしが出ていたみたいな映画でね〜、って違うやろ!さすがは大昔「レッド・ツェッペリン知ってる?」と聞いた私に、「知らん」ときっぱり言い切った男は、感違いもモノが違うよなぁ。

夫は1953年生まれでね、青春時代は70年前後で、8歳下の私はその時代の話が聞きたかったのですが、どうも嗜好のベクトルは大幅に違うようで、夫から聞いた話は「駅前シリーズ」「社長シリーズ」「任侠もの」、及び「シルクハットの大親分」などなど東映のいわゆる「ボンクラ映画」の楽しさでした。だからまぁ守備範囲が広がって得はしたんですがね。音楽もそう。私は滅多にニューミュージックなど聞かず、小学校高学年から既にほとんど洋楽しか聞かなかったのですが(初めて親に買ってもらったレコードは『モンキーズのテーマ』)、結婚当初夫が私に「これええ歌やで」促したのは、テレビから流れる「氷雨」でした。恥ずかしながら青春時代全盛だったユーミンの曲もあまり知らない私が(ユーミンのレコードは持っていないけど、松村雄策の『あなたに沈みたい』は買ってたりする。この曲聴いて、渋谷陽一が嫌いになったのは、私だけか?)「氷雨」ですから。新婚生活に暗雲立ち込める予感がした、新妻ケイケイ。予測通り、それ以降演歌な花道の主婦と生活が私を覆い尽くしたのは、ご理解いただけるかと思います。

「麻薬で大金を掴んだ二人の若者が、自由を渇望してバイクでアメリカを放浪するロードムービーやん。」と、かいつまんで説明したのですが、「それやったらフーテンやな」「フ、フーテン?ヒッピーやで。」「同じようなもんやないか。」見かけは似てても、根本的に違うと思うよ。ヒッピーは背景に反社会的な思想を持つけど、フーテンはただ社会から逸脱した、自堕落な生活をする人ちゃうん?と言いかけたけど、「お前はまた理屈を言う」と言われそうなので、止めました。そう言えばビジュアル系ロックバンドの男子たちを観て、「化粧したかったら、オカマになったらええやんけ」とも言ってたしなぁ>夫。

つまり夫はこういう作品は苦手なのですね。私も本当は一人で観る方が気楽なんですが、観るのはこの日しか無理だし、夫をひとり家に残すのは忍びないという妻心もあり(夫は寂しがり)。夫もそういう私の気持ちは汲んでいる模様。そうそう、夫婦は歩み寄りが大切なのよ。あぁなんか観る前から気疲れした。制作はピーター・フォンダ、監督はデニス・ホッパー、脚本は二人とテリー・サザーンの共同です。

時代は1969年のアメリカ。メキシコから大麻を密輸して大儲けしたワイアット(ピーター・フォンダ)とビリー(デニス・ホッパー)。真の自由を求めてオートバイでアメリカを放浪することにします。

実は私、多分中1くらいだったと思うのですが、「日曜洋画劇場」でこの作品を観ています。淀川さんは、もちろん大絶賛だったんですが、子ども過ぎたのか当時の私には全然わからず。でも深い意味はあるのだろうと感じたのは記憶にありました。今回無事再見出来て意味もわかって嬉しかったです。まず何故バイクで放浪するかなんですが、あれは「馬」なんですね。ちゃんと描写してあるのに、全然わかっていませんでした。

二人とも同じに思えた子供時代と違い、今回はキャラもくっきり。思慮深そうで口数少ないクールなワイアットは、協調性も社会性もある程度身についているようです。ビリーの方はやんちゃで明るく、無軌道な野生児のような雰囲気が、幼い感じもするけど若々しくもあります。大家族の元で食事を世話になる時、お祈りの前にビリーが箸をつけたが印象的でした。みんながお祈りの用意をしてるのにです。これは彼が早くから家を出たか、もしかしたらストリートチルドレンのように育ったと感じさせました。

対するワイアットは、出会った弁護士(ジャック・ニコルソン)に「インテリって?」と問われ、「いい人だ」と答えたシーンが印象的。確かナイスガイと聞こえました。これは必ずしも=でないはずですが、皮肉だったのか羨望だったのか。知的な印象も与えるワイアットだったので、含みが感じられます。

ヒッピーたちのコミューンは、今の年齢の私が見ると、奇妙な反社会性より純粋さを感じさせます。でも見通しも甘くきっとその内散り散りになるんだろうなと言う予感か。実際にこういうコミューンにいた人たちのその後が知りたくなりました。

あちこちで長い髪、バイク=無法者のイメージで露骨に差別される彼ら。ベトナム戦争のことには一言も触れませんが、この戦争のせいで、当時のアメリカ人の志向が分裂したのが、この作品の背景にはあるのでしょう。田舎に行けば行くほど脅迫的なほど保守的になるのが怖いです。白人の彼らですらそうなのですから、黒人を始めとする有色人種、ヒスパニック、障害者などは人間扱いされなかったのでしょうね。今は良い時代になったなと、素直に思います。今観ると何も偏見の対象になるような見かけではない彼らなので 40年近く前の時代の思想も感じることが出来ます。、

しかし弁護士の語る「自由を説く者より、自由を生きる者は、世間から恐れられる」というのは、今の時代も脈々と続いているんじゃないかと思います。自由という定義は時代によって微妙に変遷していくだろうし、現にワイアットとビリーの自由も違うものです。お金が入れば自分のしたいように出来ると思っていたビリー。彼の自由はお金のある人間は、どんな行動も非難されない、それが自由だと思っていたのでしょう。お金があっても自由は得られないと言うワイアット。彼の自由は心の解放だったのでしょう。もっと言うと世の中から解放されないことの苦悩から、脱せない自分からの解放でしょうか?世間を憎むビリー、自分を憎むワイアットということかな?ワイアットのその感情は、娼婦たちとの混沌としたシーンで表わしていたような気がします。

衝撃的なラストは、彼らが麻薬の売人だったということが前提にある気がします。無軌道者には相応しい気がして私的には納得でした。

「イージーライダー」と言えばステッペン・ウルフの「ワイルドで行こう」ですが、オープングでバイクで馳走する二人は今観ても本当にかっこ良く、当時スクリーンで観てバイクの免許を取った人は多数だったと思います。かっこ良いと言えば、私は当時ピーターが大好きだったんですが、あまりにアンソニー・エドワーズと雰囲気が似ていることにびっくり!異性の趣味って変わるもんじゃないんですね(実感)。

















映画が終了して、「全然わからんかった」という夫。「寝てても良かったんやで。あの弁護士さんな、ジャック・ニコルソンの若い時やで。あの演技であちこち賞もらって、認められたんやで。」「全然わからんかったわ。そうか、なかなかハンサムやし、芝居も上手いと思っててん。」

「あれがレクター博士やったんか」
「違う!」

夫によると夫婦とは、神様が相性の合わない者同士を引き合わせ、魂の修行をさせるものなのだとか。いつまで続く修行の道ぞ。次回に続く(嘘)。


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