ケイケイの映画日記
目次過去未来


2007年06月09日(土) 「インプリント ぼっけぇ、きょうてえ」(オンデマインド)

昨年すごく観たかったのに、東京だけレイト上映で、大阪はブッチされた作品。と言っても、元はアメリカのテレビ局が「マスターズ・オブ・ホラー」と名づけて、トビー・フーパー、ダリオ・アルジェんトなど、そうそうたる監督を集めて企画したテレビドラマです。日本からは三池崇史が招かれて、今作品を監督しています。私は岩井志麻子の原作も読んでおり、汚辱にまみれたこの難しい原作を、どういう風に三池監督が料理するのか興味津々でしたが、とっても健闘していたと思います。ケーブル放送のオンデマインド方式で、有料番組です。

明治時代の日本のある地方都市。アメリカ人のクリストファー(ビリー・ドラゴ)は、愛する女性小桃(美知枝)を探しにやってきます。一夜の宿代りに入った遊郭で、顔半分がひきつれた女郎(工藤夕貴)を選んだ彼は、その女郎から小桃は首をつって死んだと聞かされます。

原作は土俗的で不気味、近親相姦、堕胎、売春、拷問など、あらゆるインモラルがてんこ盛りですが、中でも特筆は貧乏と汚さの描写です。著者は私より二つくらい年下のはずで、何故にこんなに大昔の、読んでいて身の置き所のないほどの凄惨な貧乏の描写が上手いのか、全くもって不思議です。今の時代に想像出来る貧乏とは格が違うのです。貧乏というのは恐ろしいもの,諸悪の根源はこの大貧乏なのだと感じさせます。以前ある雑誌で「某先生は、取材に何百万も使うらしいが、私はコンビニで千円で買った『岡山の歴史』の使いまわしなので、申し訳ない気がする」との著者の記述に絶句。あの妖気漂う風情と共に、この人はただもんではないとその時思いました。

その難しい岩井ワールドなんですが、原作が短編、映画は60分足らずだという利点を上手に生かせています。原作にはアメリカ人は登場しませんが、それ以外は基本的にはいっしょ。アメリカ制作なので、全編英語で日本語の字幕がつきます。どうしようもないどん底の暮らしを表す描写の数々が、人間の尊厳なんて木端微塵、ボロは着てても心は錦は、まだまだ余裕があるからなんだよ、と原作と同じく思わせるに十分。原作で工藤夕貴扮する女郎が、「息をしているだけの暮らしだった」と、自分の生い立ちを語るのが強く印象に残っていますが、確かにこれならそうだろうなぁと、スクリーンに繰り広げられる世界観に納得。適度な貧乏というのは、人間を成長させてもくれるでしょうが、息をするだけがせい一杯の貧乏となると、思考も人間以下になってしまうのが、川に堕胎した赤子を流す様子でわかるのです。

産む性である女性は、それを称える表現をされることが多いですが、堕胎の処置をした後、「この穴は地獄に通じる」というセリフがかぶると、ははー、そうでございます、と経産婦の私も納得してしまうのです。女の業なんて生やさしい表現の仕方ではありません。

女郎屋は何故かみんな赤毛で眉をそり、目も色素が薄いので、異形の人の雰囲気が漂います。その中でもなお「フリークス」と罵られる工藤夕貴ですが、彼女だけが黒髪で着物も違います。しどけなくを通り越した肩の抜き方が下品で、彼女たちの遊女としてのランクがわかります。全体に日本的というよりオリエンタルと言った方が良い感じですが、美術的には違和感なく、上手く不気味でエロチックな雰囲気を醸し出しています。

女郎の拷問場面はSM的な作りで、小桃役の女優さんの頑張りもあり見応えがあります。ただしエロス的な部分は少ないです。この作品の肝にエロスは入っていないので、意識してはぶいたのかな?というか、三池が上手くないのか?著者が拷問人としてご出演で、かなりの怪演です。ものすごく楽しそうなのが、この人らしくて一層不気味で良かったです。

数奇な生い立ち、異形として生まれた女の哀しさも、工藤夕貴の好演のおかげで感じられますが、そんな高尚な掘り下げは無視して、うわ〜、汚なーい、怖いー、痛ーい、堪忍して〜と思いながら、見世物小屋のように、覗いてはいけない世界を密やかに楽しむ作品だと思います。私は原作を読んだ時に痛感した、「貧乏は度を越しては身の破滅」、が十分感じられたので満足しました。しかしそれを感じても社会や時代に向けた紛糾が全くないのも、とっても著者と三池監督らしくて潔いですね。観る人を選ぶ作品なので、ご覧になるときはお気をつけを。


ケイケイ |MAILHomePage