ケイケイの映画日記
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2006年09月04日(月) 「グエムル 漢江の怪物」


昨晩ラインシネマの初日の最終で、末っ子と観て来ました。最近話題作は初日の最終が定番になりつつある我が家。息子によるとラグビーの練習も出来て、次の日も自由に使えるので、夜に映画館に行くのは良いことづくめなのだとか。三番目にして、やっと映画に関して気の合う息子に育って、感激の私。息子は当初「エイリアン」のような、ホラータッチの怪獣モノを想像していたようで、横でゲラゲラ笑う私に「笑ってええん?」と戸惑いつつ尋ねます。「ええよ!」と答えると、次から容赦なく爆笑する息子。まったりした、気の抜けたユーモアが笑いを誘いつつ、それが立派な伏線となって、震撼させられたり怖がったり。「殺人の追憶」や「吠える犬は噛まない」同様、世相や人の心の底を深く深く描く、どこを切ってもポン・ジュノの怪獣モノでした。

漢江の河川敷で売店を営むパク・ヒボン(ビョン・ヒボン)。頼りない長男のカンドゥ(ソン・ガンホ)が店を手伝い、次男のナミル(パク・ヘイル)は大学は出たもののニート状態。妹のナムジュ(ペ・ドゥナ)はアーチェリーの実力者ですが、ここ一番に気が弱いです。一家の希望の星はカンドゥの娘ヒョンソ(コ・アソン)。期待に沿うべく明朗快活な中学生に育っていましたが、ある日突然漢江に現れた怪物(グエムル)によって、さらわれてしまいます。このことを契機にバラバラだった家族は、一丸となってヒョンソを救いに向かいます。

韓国では公開までクリーチャーの露見は厳禁だったと知っていたので、「ジョーズ」のように小見出しに出てくるのかと思いきや、あっさり序盤で大暴れするので、びっくりしました。キャラクター製作のために、ニュージーランドのWETA Workshop(「キングコング」、「ロード・オブ・ザ・リング」3部作)や米国のThe Orphanage(「ハリーポッターと炎のゴブレット」「デイ・アフター・トゥモロー」)などが携わったと聞いていたので、どんな斬新なものかと期待していたので、その辺はちょっともっさり感じて、肩透かしでした。しかし動きが良かった。迫力あるのに流麗で、見た目より華やかでした。怪獣好きの方々も合格点くれそうです。

コメディタッチとも聞いていましたが、これがまた面白い。ガンちゃんのユーモラスでペーソス漂うダメ息子・ダメ親父ぶりが笑わせるし、最初ヒョンソが亡くなったと思った家族が、誰のせいだ!お前のせいだ!と取っ組み合いの末、いい大人が全員大の字にひっくり反って号泣するのですが、韓国人は喜怒哀楽が激しく表に出る性質で、ちょっとデフォルメしていますが、確かに葬式では周りが笑ってしまうほど号泣するのです。しかしながら皮肉ではなく、ジュノ監督は韓民族の愛すべきところだと言っているんでしょう。


すんませーん、ネタバレじゃないと書けないぞ!以下ネタバレ気味





一家一丸となってヒョンソを救おうという時、家長のヒボンがありがた〜いお話をしてくれているのに、子供たちは全員居眠り中で、また私は息子と爆笑。どこの国でもある、親と子の温度差ですね。しかし一番出来の悪い長男カンドゥを庇おうとする父の心が、私も三人子供がいるのでよくわかるのです。幸いうちは低いハードルながら、次男三男は長男を超えられず、下に行くほど出来が悪いのですが、それは親としては有りがたい事。下の兄弟に上の子がバカにされることほど、親にとって切ないものはないはずです。カンドゥのミスでグエムルに殺されてしまう時のヒボンの慈愛に満ちた顔は、「殺されるのが自分で良かった」ではなかったでしょうか?他の二人が後ろ髪を引かれつつ、父と別れを告げたのに、カンドゥだけが一人父の遺体から離れられない姿は、これも韓民族の掟である「長男至上主義」を、暖かく哀しく描いているのだと思います。

漢江にアメリカ軍医師の命令により、ホルムアルテヒドが流されたのは実話だそうで、アメリカに帰国した医師は、法による裁きはなかったとか。グエムルが出現したのは、このことが原因なのは明白で、グエムルによるウィルス感染のでっち上げなども描いているので、反米がテーマと受け取られているみたいですが、私はあまり感じませんでした。確かに事実を憎む感情は入っていますが、韓国人の恋人の反対を押し切ってグエムルに向かっていき、韓国人を助けようとしたのは、駐留の米兵でした。漢江に有害物質とわかっていて流したのも、ウィルスのでっち上げを知っていても、加担したのは他ならぬエリートに属する韓国人です。

カンドゥの訴えを調べもしないで却下する警察、国家権力を見捨てて自分たちでヒョンソを救うパク家の人々の姿は、監督の国に対する思いではないでしょうか?中間ら辺で、一度パク家の人々の手によって、グエムルが追い詰められる場面があるのですが、なんだ、こんな市井の人でここまで出来るのかよ、軍隊も警察も何してるんだろう?と脱力しますが、それこそ監督の狙いだと感じます。建前→反米、本音→自分の国が一番悪い、ではないでしょうか?

ナミルが大卒ニートというのも、学歴に異常なまで渇望する韓国の姿を皮肉っています。火炎瓶の作り方の上手さに、ナミルが学生運動に携わっていたのが忍ばれますが、結局今は酒びたりの無職です。運動にも挫折し、何のための大卒かわかりません。私は受験期の韓国の、パトカーが遅刻しそうな受験生を学校まで送るという異常な様子に、とても疑問があったのですが、この描写に監督も同じ思いを抱いていたのかと、ちょっと嬉しく思いました。

ヒョンソが希望の星、というのは、観る前の荒筋で知っていました。しかし明るく素直な良い子ですが、ヒョンソが才媛だとか芸術的な才能があるとの描写はありません。何故平凡なヒョンソが希望の星なのか?

それはこの家族に母や主婦がいないからです。母親は一家の太陽、そう表現されることの多い、家庭を縁の下から持ち上げる存在です。妻のいない、母のいない寂しさ侘しさを、パク家の人々は心からヒョンソを愛するということで、埋めて来たのだと思います。与えられて癒されるのではなく、与えることで癒す道を選んだのだと思います。

一身に愛を浴びたヒョンソが、同じ捕らわれの幼児を最後まで守ろうとする確かな母性が、それを正しいと証明しています。「脱出出来たら何が食べたい?順番に考えよう」と幼児を慰めるヒョンソ。母親が一番子供に気にかけるのは、お腹をすかしていないかです。まだ中学生の子が放つ母の光りに、ヒョンソが一家の希望の星だというのが、すごく納得出来ました。

ダメ親父とわかっているのに、ヒョンソが一番に助けを求めたのは、父のガンドゥでした。どんなに情けない格好でも、娘を救おうとするガンドゥ。普段はバカにしたりいがみあっても、世間の誰より兄を息子を信じる兄弟と父。最終的には必ず一家団結する姿は、韓国も最近は変わりつつあるのでしょう、古来からのあるべき理想を映したのだと思います。それを眉目秀麗な才人一家ではなく、美男美女の一人も居ない、欠点だらけの家族で描いたところに、ポン・ジュノらしさが現れています。


ここからは絶対観た後!!!













グエムルを退治した後、ヒョンソは死んでしまいびっくり。こういう作品なら、必ずヒョンソは救われるはずだからです。しかしラストの一年後、ヒョンソが守ろうとした幼児を育てるカンドゥが、アメリカのウィルス事件のでっち上げを謝罪するニュースを流すテレビを、足の指で興味なさそうに止めた姿で、ある思いが湧きました。韓国というと、「恨の国」と称されることも多いですが、これは「恨みの国」ではありません。「恨」という言葉は、「情」や「想い」といった感情が、色濃く現された言葉です。その言葉と対極のような「ケンチャナヨ(気にしない)」という言葉もまた、韓国人を表す言葉です。くよくよしない、執着しないという意味です。今更謝られてもしょうがなし、他人の子だが、ヒョンソの「忘れ形見」のようなこの子を大切に育てる、「恨」も「ケンチャナヨ」も両方表現するシーンであったと感じました。この言葉もまた、目の前に映さねば、今の韓国では忘れられているのかも知れません。

たくさんの食べるシーンが印象的でした。韓国人というのは食べることが大好きな民族、それもお腹いっぱいにというのが、私の意見です。少し前まで貧しかった韓国が、三段飛びで豊かになった今、この作品の盗みをしてお腹を満たすような子供は、大幅に減ったことでしょう。昔のひもじさを思い出すのは大切なこと、若いジュノ監督がそう言っているかのようです。


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