ケイケイの映画日記
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2004年11月08日(月) 「血と骨」(2)

昨日書いた文章に、書き足りないものがあったので追加です。年老いて病に倒れた俊平は、それでも自分の過去を省みて反省することなく、強気に生きます。人間誰しも老いれば普通の年寄りになっていき、今までの好き勝手のつけが回ってきたのだと、悔恨や反省が生まれるはず。段々自分より腕力が勝ってくる息子にも脅威を感じ、自分の人生のドアが、ゆっくり閉じられるのを感じるはずです。しかしそんな描写は希薄です。ここは平凡な年寄になった俊平を描き、どんな人間でも平等に老いは来るのだと表現し、俊平に哀愁を感じさす演出であれば、観る者の心を揺さぶるものがあったと思います。

唯一良かったのは、オダギリ・ジョーが演じた、若かりし頃俊平が人妻に生ませた武の描き方です。顔も見た事のなかった父親に、ありったけの反抗と憎悪をむき出しにすることで、切っても切れない親との深いつながりを感じさせ、それと正反対に腹違いの弟の正雄を可愛がる様子は、今まで孤独に生きてきた武の、兄弟がいたことに対する嬉しさを上手に表しています。極道とわかりきっている武に対し、尊敬と嬉しさの入り混じった想いで慕う正雄にも、血を感じることが出来ます。壮絶な父子喧嘩の果て、別れ際に「しっかり勉強せえよ。」と、平凡ですが自分を省みるような言葉で弟を抱き寄せる武は、とても兄を感じさせました。

出演者は私の個人的感想では、たけしは(1)に書いたようにダメ。鈴木京香は健闘していましたが、一世女性の、怖いほどの性根の座った心意気は表現出来ていません。この役は亡くなった金久美子に是非演じて欲しかったです。彼女の死がこの作品を観て、本当に悔やまれます。オダギリ・ジョー、松重豊、正雄役の新井弘文など、他も概ね好演でした。

松重豊演じる高信義は、俊平とは対極にある温厚・誠実な男性で、原作では同輩です。少々気弱いところもありますが、理性的で男性として充分な器を感じさせる彼を、この物語できちんと演出して欲しかったです。

原作からの?な変更は、俊平が二人の甥から、「クナブジ」と呼ばれていたこと。字幕では「叔父」でしたが、韓国語は同じ叔父でも「クナブジ=父親の兄」「チャグナブジ=父親の弟」など、言葉一つでどんな間柄かわかるようになっています。他にも叔母は、「コモ=父の女姉妹」「イモ=母の女姉妹」などです。原作では俊平は「チャグナブジ」です。養豚所を営む彼らからも、かまぼこを作った後の捨てるようなあらを払い下げ、お金を取っていた俊平でしたが、より吝嗇さを強調しようと、「クナブジ」に変更になったのでしょうか?でも日本の方にはわかるはずもなく、とても疑問に思いました。

どうしようもない極悪人の俊平ですが、長老婦人の叱責には口答えせず、映画では出てきませんが、高信義の妻には(原作では晴美ではありません)、絶対言葉を崩さず、ずっと敬語で通します。これは人の妻は一段高い位置になることを表します。事実夫と結婚した当時、弱冠21歳だった私に、倍の年齢の夫の先輩が、今もってずっと言葉を崩さず対応して下さっています。このような儒教の良き面も持ち合わせている俊平の善とも言える描写があれば、何故あのように彼の憎悪が家族に向かうのか、自分以外を一切信用しないのか、彼の抱える深い心の闇を解く鍵にはなったと思います。

私が日本に生まれたことには、自分にはわからない何か意味があるはずです。それは崔監督や鄭義信とて同じこと。ヒット小説の映画化、松竹系拡大公開と、せっかく一世を深く掘り下げることで、日本の方にも在日を理解してもらう絶好のチャンスだったのに、これでは誤解されないかと案じてしまいます。それとも人口の1/4が在日の生野区に生まれ育ち、今も住む私は、そのことで返って井の中の蛙になっているのでしょうか?


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