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| 2002年05月16日(木) |
生きる喜び(神の否定) |
夕方からネット。ほかの教室が空いてなかったので仕方なくMacを使っている。明日の某教授の経済学で当てられてるんで、どういうわけかその資料集め。ゼミでもあるまいし。クジ運が悪かったのでしょう。とりあえず東証と大証のページからいくつか項目を選んで印刷しておいた。どのくらい調べたらいいのかも、どのくらい手を抜いていいのかも、見当がつかない。
6時のニュースによれば宇都宮で猫が殺されたらしい。ほかに、虐待画像を、娯楽であるかのように掲載している、そんな異常なサイトもあって問題にするべきだという話もあった。
目を覆うような虐待や動物実験の実態。これまでも、メディアを通してそんな光景や実情を聞かされ目の当たりにしてきた。どうしても救いたい、苦しみから解放してあげたいといくら願っても、こんなちっぽけな私という人間一人の存在でいったい何ができるのだろうと、結局その力のなさに失望するだけだった。動物保護団体というのが数多く存在し、最近は動物虐待を罰するための法律も成立したけれど、尚不幸な動物達が後を断たないのはやっぱり人間の意識そのものが変わっていないからじゃないだろうか。
動物実験に携わる人たち、医学部では実験は当たり前とされているけれど私は彼等のことをただの変人だと思っている。実際本当に必要かもわからないような実験て動物を苦しめ、生き物を「道具」としか思っていない。話によれば、論文作成のため、優秀評価を得るためだけに、不必要で残酷な実験をする研究者が多くいるという。
かれらに欠けているのは生命への愛情。今日みたホームページでは、「生命への畏敬と憐憫」が欠けていると表現されていた。本当にそのとおりだ。欠けているというよりはじめから無かったのかもしれない。それは日本の受験社会とか偏差値教育が生み出したものだったら、この先、考えただけでも恐ろしい。
言いたくなかったけどやっぱり。神は、いません。多分私のほうが異常だとあなた方はおっしゃるでしょう。それでも結構。神がすべての生命をつくり出し、そしてそれらの幸福を願っているのなら、なぜこんなにも不幸で救われない動物が存在しているのか。無闇に貴い命を奪う人間たちを、どうして放っているのか。
世間には、善と悪、美しさと醜さ、逆のものが常に存在するという。無論、悪は罰せられる。
本当に強い信仰を持ちつつ、善人だったにもかかわらず戦争や事故で「不幸にも」死んでしまった人々は無数に存在しただろう。なぜ彼等は殺されたか??神の思し召し??答え。悪人を罰する際の証拠として、善人達は犠牲になってしまったのだという。
なるほどね。これで納得できる人がいるんだから、単純。狂ってる。わざわざ犠牲者を出させることができるくらいなら、はじめから悪人を消滅させてしまえばいいのに。神は万能ではなかったか??
自分の都合のいいように解釈して、死んでから幸せになるんだと変な空想に耽り自己満足している暇があったらもっと現実を見て救われるべきものを救おうと努めてほしい。協力してほしい。
話は戻るけれど、今すぐに私ができることと言ったら、動物実験をしている化粧品の不買運動、今までにも心掛けていたけど、もっと徹底したいと思う。それからもっと他の人たちにも伝えたいと思います。あんな宣教師たちじゃあるまいし、生命に関わることだから、現実のことだから、人間であるならみんな分かってくれると思う。
「殺す喜びより生きる喜びを」(映画「子熊物語」より)
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