地上懐想
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2002年06月01日(土) 祈りを探しつづけた日々



私は洗礼を受ける前の、カトリック要理を学んでいた頃から、修道院という場所にとてもとても惹かれていた。
最初は単に興味深くて。
なにしろ、それまで修道院とかシスターとかブラザーというのは、外国の映画や小説の中に登場するものにすぎず、自分の行動範囲内ではまったく接点のない遠い存在だったから。

それが思いがけずカトリック教会に通うようになって、にわかに身近な存在となった。


そうして出会った修道院というところは、私にとってどこもとても居心地のいい場所だった。
簡素で、余計な物がごちゃごちゃと置いてなくて、掃除がていねいに行き届いていて、静かさに充ちていた。


「黙想会」というものが修道院でよく行われることを知って、出かけていくようになったのも、黙想会と共に(もっと)修道院に惹かれていたからだった。


また、修道院の中には個人的に黙想をするために宿泊できるところもあると知って、機会を見つけてはいくつかの修道院に泊まりに行った。


そうして黙想会や修道院へ行くと、終わりに「よく祈れましたか」と聞かれることがあった。
この質問は、当時の私には不意をつかれるようなものだった。
黙想会も修道院も、私は祈りに行くというよりも、興味の赴くままに出かけて行っていたので。


「よく祈る」とはどういうことなのか?
洗礼を受けたあとも、そのことが折りにふれ気になっていた。


主の祈りを何十回も唱えたらよく祈ったことになるのか。
(心をこめて祈れば、たぶんよく祈ったことになると思うけれど、根気のない私にはできそうになかった)


何十回どころか、『無名の順礼者』という本に出てくるように、「主よ、憐れみたまえ」という言葉を一日に何千回も唱えることがよく祈るということなのか。
(この祈りは好きだけれど、何千回というのが私には無理だと目にみえていた)


最初に通ったプロテスタントの或る教会でのように、礼拝の祈祷の5分ほどの間、口から絶えまなく言葉が出てくる状態、それがよく祈るということなのか。
(きっとよく祈ることだと思うけれど、私は自分の言葉で祈るというのが苦手なので、これもまた無理そうだった)


ヨガ行者のように、深い瞑想状態に入ることがよく祈るということなのか。
(黙想会の時などの、沈黙の時間にいったいどんなふうにしていたらいいのかということもよくわからずにいた。瞑想と黙想のちがいも。)


そんな時、あるシスターにそうした疑問について聞く機会があった。


そのシスターと「祈りとは」ということを話していくうちに、くわしい経緯は省くけれども、「日々の霊操」を共にしていただくことになった。


霊操というのは、聖イグナチオがまとめあげた霊的訓練の一連のメソッド(というふうに今の私は理解している)。
英語では spiritual exercise。まさに「霊的訓練」なのだが、人生の何か重大事を決めるときの有効な識別手段でもあるらしい。
基本的には1ヶ月をかけて泊まり込みで行われる。


「日々の霊操」は、泊まり込みではなく、日常生活の中で一定の時間をさいて、与えられたテキストにそって祈っていくというもの。
定期的に(私は2週間に1回ほど)「同行者」(私の場合はそのシスター)の指導を受けていく。まさにお稽古事のレッスンのように。


3年前の春から夏の終わりにかけてのことだし、その時に使ったテキストやノートなどを手元に置いていないので、あまりよく思い出せないのだけれど、「日々の霊操」については

http://www.seseragi.gr.jp/spirituality/spirituality_a.html

ここに詳しく載っていて、いま改めて読みかえしてみると、とても影響を受けていたことに気づく。(上記のサイトでは「生活の霊性」という言葉を使っている)


たとえば、祈りを始める前に、みことばを2〜3回くりかえして読むとか、前の晩に祈りの準備として当日の聖書の箇所をあらかじめ読んでおくとか。
(今は朝、祈ることができないのだけれども、寝る前に翌日の聖書の箇所を読むことだけは続けていて、すっかり習慣となってしまった)


祈りの時間ということでも、得がたい経験をした。
1日に15分すわって祈るというところから始めて、2週間後シスターと会った時に、それがどうであったかということを話し合い、次の2週間は20分、その次は30分・・という風にだんだん祈る時間を長くしていった。
スポーツか何かのトレーニングのような、そんな具体的な習得の方法が祈りにも適用できるというのがとても新鮮だった。
当時はフルタイムの仕事ではなかったので、最終的には毎朝50分くらい座っているようになった。
祈りは長ければいいというものではないけれども、祈りを深めるにはある程度の時間は必要である。
それに、祈りの時間がだんだんと甘美なものになっていったので、とにかく長く座っていたくてしょうがなくなったのであった。


しかしながら、結局のところ、私はどうも霊操には向いていなかったようである。
何といっても「祈りが終わったあと、ふりかえってどんなだったかをノートに書く」ということがうまくできなかった。


祈りをふりかえって書きとめる・・それはまるで、ひとつの曲を楽譜でなく言葉で書きとめるようなものではないだろうか。まったく別次元のものを結び合わせる、離れ技のような。


そして、何かテーマを与えられてそれについて祈る、ということもうまくできなかった。
祈るというよりも、レポートの内容を考えているような頭の状態になってしまうのだ。つまり、心よりも頭の方が活発になってしまう状態に。


「霊操って祈りなんですか?」と、時々シスターに聞かずにはいられなかった。


たぶん霊操というのは、合う人には合う、とても深みのある祈り方なのだろうと思う。
ただ、私は前の年の12月に高橋たか子さんの『霊的な出発』という本で念祷に出会っていて、その祈り方にたぶんとても惹かれていた。霊操は自分の求めている祈りと一見似ているけれども何かがちがうと感じていたのだろう。
けれども、自分の状態が念祷を始めるようにはできあがっていなかったように思う。
どうやって始めたらいいのかもわからなかったという気がする。


日々の霊操は、結果的にはテキストの途中で挫折したけれど、祈りの習慣をつけるということを学んだし、祈りとは何かということが多少なりともわかった。
たぶんこれが念祷の準備となっていったのだと、今ふりかえるとそう思える。


*ところで、念祷念祷と書いているけれども、どうもこの言葉には、その道の達人がするものというイメージがあって、私などとてもとても・・とおそれ多くてしかたない。
自分としては「沈黙の祈り」という言い方がいちばんしっくりきている。


2002.秋 記


2002年02月04日(月) 修道院滞在 2003年秋

この連休は修道院で過ごした。
在来線を乗りついで数時間かかる遠い修道院へ泊まりに行くなど、ちょっと前までの体調では考えられないことだった。
涼しくなって、いちだんと回復したのだろうか。
行くことを決めたのは出発の前日の午前中。
その朝、ふと行く気になり、先方へ電話をしてみたら部屋がとれたのだった。


1年ぶりに訪れる修道院。
ここは私にとって何なのだろう。
いるだけで幸福になる。
病院へ通っていることも、薬を飲んでいることも嘘のように感じられるほど元気になる。
風の音を聞いて、共同の祈りに参加して、そうして生きているだけで幸福だと感じられる。
いちばん自分らしい自分になれるような気がする。


敷地の外を散歩した。
道端に生い茂っている野草が花をつけている。
いろんな種類の花がそれぞれに美しい。
地上にたった1種類の花しかなくてもよかったかもしれないのに、
神はこのようにたくさんの種類の花を創られた。

それぞれが、それぞれに美しく。
人もそのようであればいい。
それぞれが、それぞれに与えられた場所で、その人らしく咲けばよいのだと思った。
そして、その人のいるべき場所は必ずどこかに用意されているのだと。


*****

「美しい人」


連休を修道院で過ごして、1年前に聖堂で目にした風景を思い出した。
その人は共同の祈りの時に、祭壇のろうそくに明かりを灯す係をしていた。
背の高い彼女が静かに歩いてきて、ゆっくりとろうそくを灯していく、その動作がなんともいえず美しかった。
平服にレースのヴェールをかぶっていることから、彼女がこの修道院への入会志願者なのだとわかった。
生涯、囲いから出ない修道生活へこれから入っていこうとする、その決意と緊張感が彼女の姿から立ちのぼるようだった。


あの凛とした立ち姿を自分もしていたいと思った。
囲いの中の生活はおくらなくとも、志は同じく。
祈りにおいて。
労働において。
砂漠を生きることにおいて。

世にありながら、世のものでなく。


修道院での滞在を終えて、帰路につく。
たちまち、「世間」が大波のごとく押し寄せてくる。
また今日からこれらに向かっていく日々が始まる。

次第にビルが多くなっていく風景を車窓から眺めながら、自分自身に確認する。

波にのまれないように。
自分を見失わないように。
何のために世に送り出されてきたのか、問い続けることを忘れないように。


2003 秋 記


2002年02月02日(土) 修道院滞在 2002年春


昨日まで三日間、いつもの修道院に滞在した。
敷地の中の林を歩いた。
風の音と、小鳥の声のほかは何も聞こえない世界。
若葉はまだ初々しく、足元にはタンポポやスミレや、名前もしらない小さな花がそこかしこに咲いている。
私はここでこうしている時がいちばん幸せだなあと思い、去年の春も、この同じ場所を歩いてそう思ったことを思い出した。

敷地は広いけれども、滞在者が自由に歩ける範囲は決まっているので、散歩といっても同じコースを毎回歩くことになる。
以前だったら物足りないと感じたと思うけれども、今はそのこと自体は気にならない。
外に刺激をもとめて歩くのではない散歩であるから。

二十歳前後の時に初めて一人旅をして、それ以来たびたび一人で旅することがあった。
けれどもただ旅を好きだと思って旅していた頃は、じつは旅先で自分は何をしたらいいのか不安定だった。
観光名所をまわるということもしてみたし、眺めのいい美術館でぼーっとしてみるということもしてみた。その時はそういう旅で満足感があったけれども、どこかでもっと風景と対峙していたいという気持ちがあった。旅先でゆっくり座って風景画を描けるように絵を習おうかと考えたりもした。

こうして修道院に滞在するということを知ってから、そうしたいわゆる「旅行」というものにだんだんと興味が薄れていった。
とくに何も見て回らなくても、絵を描いたりしなくても、風景を凝視したりしなくてもいい、そういう滞在。

一般にはリゾート地での過ごし方と似ているかもしれない。

リゾートでの滞在とちがうのは、日に何回かある修道院の聖務日課に与って、一緒に聖歌を歌い、お祈りをするという点。
この聖務日課は、一般の教会などでは味わえない。ここの修道院では日に7回あるけれども、それがあることによって、滞在者の時間にも区切りが生まれ、緩急のリズムが生まれるように思う。

聖務日課以外の時間は、散歩したり、本の一節を読んで心に深化させたり、部屋で横になっていたり(そんなことをしていても、自宅で寝ているのとはちがって、無為に時を過してしまったという焦りがない)・・・そんなふうにして、つまりは、心身と魂の休息をとる。そして静かな自分に帰る。


2002春 記


2002年02月01日(金) 修道院滞在 1998年クリスマス


「祈りのなかでは、下界の、人間の沈黙の領域が、天上の神の沈黙と結合するに至る。

かくて下界の沈黙は、天上の沈黙のなかで憩う。

祈りのなかでは、言葉は−−したがって人間は−−この二つの沈黙の領域のあいだに置かれた中心点である。
祈りのなかで、人間はこの二つの領域によって支えられる。」

『沈黙の世界』(マックス・ピカート著 みすず書房 1964)より


12月24日〜26日まで、ある修道院に滞在しました。上記の本はそこの図書コーナーにあったものです。
この修道院は以前にも訪れたことがありますが、おもしろいと思ったのは、同じ本棚の前に来ても、時を経ると手にとりたいと思う本の傾向が違っているということでした。
今回出会う本、今わたしに必要な本というのがこの『沈黙の世界』だったようです。

さて、今回は友人と行ったのですが、鈍行列車をのりつぎ、なかなか来ないタクシーを待ち続けてようやく修道院に着いたころ、静かに粉雪が舞いはじめました。
ホワイト・クリスマスになるのではと、わたしたちは柄にもなくはしゃいでしまいました。

部屋に荷物をおいたあと、それぞれ散歩に出かけました。
外は強い風が吹いていて吹雪の時のように雪がたたきつけられてきます。
でも天気は晴れ、上を見れば冬の太陽があり、青空がひろがっているのです。
じつに不思議です。
杉林が風にごうごうと鳴って、あたりには人ひとり見えず、人的な音は何もない。半分この世ではないような風景でした。美しいという意味において。

修道院はほんとうに美しく、それはまわりの自然とか木々のたたずまいとか、時を経てきた典礼や聖堂が美しいだけではなく、美しいということが簡素であることと深く結びついている・・・そしてそこに、沈黙、静けさというものがさらに分かちがたく結びついている...言葉では言い尽くせないそうした世界です。


0時の「夜半のミサ」が始まる頃には、近隣に住む方々もたくさんおいでになり、祭壇脇にある外部者用の席はいっぱいになりました。
町なかの教会ではたいてい、24日の夜7時くらいからこの「夜半のミサ」が行われますが、ここの修道院ではクリスマスの日の午前0時に行われるのです。
2000年前のベツレヘムの夜へと、そのまま時空がつながっていくようなミサでした。

ミサが終わると、聖堂わきの小部屋で簡単な立食パーティがありました。
もてなして下さるシスター方はさすがに受付係の3人の方と神父様のみでしたが、このシスター方というのが実に気さくで、わたしの思っていた「観想修道者」のイメージとはちがっていてちょっとびっくりです。

話は前後しますが、到着した日の夕食後、受付のシスターに「ちょっとこちらへ...」と小部屋へ手招きされました。そして一通の封筒を手渡されました。
それは、前回の滞在時にお世話になったあるシスターへと、わたしが出しておいたクリスマスカードでした。
「ご存じありませんでしたか...」と言われ、わたしは初めてそのシスターが帰天されていたことを知りました。

一昨年の夏に滞在した時に、わたしが典礼用の楽譜のコピーをお願いしたことがきっかけで、そのシスターとは2、3度お手紙をかわしていました。
そのお手紙の中の「クリスマスのお祈りはとても美しいので、ぜひいらっしゃい」という言葉にずっとひかれていて、今回の修道院滞在を決めたともいえます。

話を伺ってみると、発病されたのはわたしが滞在した年の12月とのこと。
そして翌年の5月31日、聖霊降臨の日、わたしが堅信を受けた日に天に召されたということでした。

「いつかまた一緒にお祈りできる日を楽しみにしています」と書かれたシスターの手紙を読むたびに、もうこの世では一緒にお祈りできなくなってしまったとしみじみ思います。
これ以上ないという沈黙、最大の沈黙に入られてしまったのですから。
でも考えてみれば、その沈黙は神の沈黙へとよりいっそう近づいたもの、希望とさえいえる世界なのです。

そしておそらくはこの世においては祈りによって、つながることができる世界なのでしょう。
地上で一緒にお祈りすることはできなくなったとしても、祈りの中でつながっていることはできると...

そうしていつかわたしがこの世界での役割を果たし終えた時、今度はほんとうに一緒にお祈りすることができるでしょう。


1999.1 記


2001年06月01日(金) プラハ、1989 - 2003



今日、職場のPCからインターネットのニュースを読んでいたら、チェコのハベル大統領退任という文字が目に飛び込んできた。


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 「大統領としての13年間を終え、みなさんにさようならを言います」。
ビロード革命の立役者、チェコのバツラフ・ハベル大統領(66)が2日、退任し、89年12月に就任宣言をしたプラハ城の官邸のバルコニーから、国民に別れを告げた。

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89年秋の、一連の東欧革命は忘れられない。
ベルリン、チェコスロヴァキア、ルーマニア・・・「東」と呼ばれていた国の体制が次々と崩壊していく様を、TVを通して毎日リアルタイムで見ていた。


とりわけ、チェコスロヴァキアは・・・
あの国の革命では死者がほとんど出なかった。
プラハのヴァーツラフ広場には連日、大勢の市民が集まっていた。
皆、胸に「市民フォーラム」のバッジをつけて、あくまで理性的に、忍耐強く。
あの人々の姿は「成熟した市民」そのものだった。


プラハには特別の思い入れがあった。
10代の頃に見た、プラハを舞台にした映像作品を通して、
また、「旅」というものを教えていただいた大学の恩師を通して。
そしてドヴォルザークの音を通して。
あの都市の抱え持つ美しさに憧れていた。


革命から3ヶ月後、90年の1月に私は東欧へ向かった。
ベルリン − プラハ − ウィーンという旅の行程を組んだ。
もともとその時期に旅をする予定があったのだが、
行き先を、と考えた時、
やはりどうしてもあの革命の現場に身を置いてみたかった。


ベルリン・ブランデンブルク門周辺のあの時期だけの奇妙な風景、
プラハの言いようのない美しさと、喜びに溢れてデモをする人々。
(小学生だけのデモ隊というのも見かけた!)
古い街並みに響くシュプレヒコール・・・

そのことを書きたいとずっと思っているのだけれど、なかなか時間がとれない。


でも今日、ハベル大統領のことだけは書いておきたい。


プラハ城の敷地内を歩いていたら、ものすごい数の修道女達が城内の官邸前に集まっていた。
そのうちバルコニーに、就任したばかりのハベル大統領が出てきて、彼女達に手を振った。
彼女達も皆、笑顔で手を振りかえしていた。


いま推測するに、旧体制下で修道生活が禁じられていたシスター達が、
革命によって「自由の身」となり、
その感謝をハベル大統領に伝えるため全国から集まっていたのかもしれない。


何より印象的だったのは、私のような外国人旅行者もその場にいられるくらいに、
警備がゆるやかだったこと。
日本では考えられない。
劇作家で、旧体制下では投獄されたこともあるハベル大統領らしいと思った。
人々との間にけっして壁をつくらないのだ。


来日した時に出演したTVのニュース番組で、
司会者の隣でずっと机のふちをいじっていたのも微笑ましくて忘れられない姿。


退任後は、これまで大統領職のためにできなかった執筆活動を再開するという。

回顧録の出版が待ち遠しい。


2003 02/03 23:29 記


2001年02月01日(木) 紅海−−祝福された海



最後に海を見たのは、もうずいぶん前になる。
エジプト・イスラエルの旅をした時。
出エジプトをたどる旅、ということで、シナイ半島の両側の海を見た。
アラビア湾(?)と、紅海と。


バスでカイロを出て、砂漠の風景がずっとつづいたあと、遠くにちらちらと群青色の水が見えてきた。
それがたぶんアラビア湾(地図が手元にないので湾名があやふや)。


昼食を取る時間でもあったので、レストランに入る前に浜辺まで行くことができた。
こんなにきれいな海が、と感嘆していたら、
沖縄からその旅行に参加していた方が
「沖縄の海もこんな感じですよ」と教えてくれた。


紅海はその翌日、シナイ山を降りてイスラエルへと向かう時に、
バスの中から見ることができた。
やはり砂漠の風景がつづいたあとに、いのちの源のように海があらわれた。
まさに「碧瀾」というべきか、見たこともないような色の海面と光。

祝福された海。
出エジプトをしたイスラエルの民も、あの海の輝きに喜びを見ただろうか。


いつか、あの輝く海の前に
ずっと立ちつくしていたいものだと思う。


2002.9.4 記


2001年01月06日(土) マントンの海辺

マントンという町に行くことを、長いあいだ夢見ていた。
マルセイユからニースを経て、さらにモナコの先、イタリア国境のすぐ手前にある海辺の町。

はじめてこの町のことを知ったのは20代の頃、日曜の午前にかならず見ていた旅のTV番組だった。
海上から町の全景を撮った映像が忘れられなかった−−レンガ色をしたたくさんの屋根が、坂にそって連なり小山のようになって、その中からひときわ高く、ひとつの塔が天に向かってのびている風景を。

98年の春、ほとんど突発的にフランスへの一人旅を思いたった時、まず決めたのがマントンへ行くことだった。

旅のガイドブックを見ても、マントンの町の紹介はごく短い。
大きな美術館とか、見学の対象になるような歴史的な建造物といったものもない。

けれども、フランス国内の、地中海に沿う他の町を訪れたことがないので、コートダジュールといえば、わたしにとってはこの町である。
そして、それまで遠くからわずかな時間だけ見るのみだった地中海を、日がな一日何するともなく眺め、初めてその水に手をひたしたのも。

その日、海辺から見た地中海は、明るい緑色をしていた。翡翠色、というのだろうか。
そんな色の海を見るのははじめてだった。
4月の下旬、あたたかな光がふりそそいでいた。
沖合いの海面の照りかえしも、そんなに眩しくはない。
シエスタで人けのなくなった海岸。きこえてくるのは、波の音ばかり。

美しい地上の幸福につつまれている。

いったいわたしがどんな善い事をしたからといって、こんな幸福が与えられてくるのか。
この祝福の記憶さえあれば、多くのことを捨てることになってもいい、と思った。
捨てるというより、手放すということだけれども。

わたしは、わたしなりに誠実に決心したつもりだったのだが・・・。



いつか、ふたたびこの町を訪れることはあるだろうか。
訪れても、訪れなくてもいいように思う。
そんなふうに解き放たれつつある自分がいる。

マントンの海辺で決心したことは、その後、実現には至らなかったけれども、
いろんなことから解き放たれて、あるいは手放して、
それでも静かでいられる自分というものを、20代の、旅の夢を追っていたあの頃は想像もしなかった。

2002.3.7 記


2001年01月05日(金) 地中海−−天国への階段、ロードス島

ロードス島には、天国への階段がある。
その階段をのぼりきった、限りなく天に近いところから地中海を見おろした。
空も海も、どこまでも青かった。

ロードス島へは、アテネから飛行機で1時間ほど。
やはり、ゼミ有志旅行で行った。
アレキサンドリアに行った時の旅だったと思う。

島の端にリンドスという町がある。町というよりは、集落に近い。
まぶしいような白い色で塗られた家々が、小高い丘に沿って並んでいる。

ひときわ高い崖の上にはアクロポリスの遺跡がある。
何段も何段も階段をのぼって、いよいよ頂上に近づいて上を見ると、その階段が天に向かって伸びているように見える。
階段の上に何があるのかは見えない。
階段と、空のほかには何も見えない。
天国へのぼっていくようだった。


リンドスの丘を降りたあと、ロードスの町へ向かった。
過去、イスラム軍勢に追われた十字軍がたどりついたところらしく、旧市街の中に「ヨハネ騎士団」の騎士団長が住んだ立派な館などがある。
ヨハネ騎士団という組織は現在も残っている。
ローマにその本部があると聞いた。この旅ではギリシャのあとローマへ行くことになっていたので、自由行動のときにわざわざ見にいったことを思い出す。
残念ながら建物の中には入れなかった。特に、なにか展示物を公開しているということでもないらしい。
中世風の格好をした人でも出てこないかとしばらく門の外に立っていたが、建物はしんと静まりかえったままだった。

さて、ロードスの町に話をもどそう。
海沿いにある旧市街は城壁に囲まれ、その中は迷路のようだ。
石造りの古い町並みの中に、ときどきアーチがある。
迷うのをなかば楽しみながら適当に道をあるいていくと、ふいに目の前に城門が現れる。
アーチをえがいた城門の先には、青い地中海が輝いている。
とつぜん、光に出会ったかのようだ。

地中海はどうしてこう明るいのだろう。
光に出会う迷路。
いつまでもいつまでも、迷って、そして光に出会って・・・というのをくりかえしたくなる町だった。


2001年01月04日(木) 地中海、アレキサンドリアより 3

[アレキサンドリア四重奏]
ロレンス・ダレルという作家が書いた、不思議な小説。舞台は20世紀初頭?のアレキサンドリア。全4巻だが、1巻目を読んだかぎりでは恋愛小説、ところが2巻目に入り語り手が変わると、実は政治スパイ小説だったということがわかるらしい。(1巻目しか読んでないので「らしい」としか言えない)

1巻目に出てきたホテルが、たしか「セシルホテル」という名前だった。
アレキサンドリアではそこに泊まることができた。(教授がセレクトしたホテルだったのだ)。古き良き時代の面影を残すホテルだった。
ラマダン(断食)の時期だったため、建物の外面にクリスマスツリーの飾り付けのような、豆ランプがはりめぐされていたが、それはそれでエジプト的でよいものである。
ホテルのある一帯は、20世紀初頭は、クレオパトラ時代とはまたちがった、国際的な町であったであろうことを感じさせる場所だった。

「アレキサンドリア四重奏」1巻目の最後に付された「都市」という詩がとてもいい。
20代の頃のわたしの心情を写しとったようで懐かしい。

[都市]
きみは言う、でかけよう、
どこかほかの国へ、ほかの海へ、
かつてのこの町のすがたよりも、おそらくは未来のすがたよりも
はるかに美しい都会にいこう−−

(中略)

おまえみずからにふさわしく、またこのような都会にふさわしく、
心臆せず、誇りをもち、あきらめをもって、開かれた窓から見おろすがいい。
すべての疑いをすて、この神秘の群れから
最後の暗い陶酔を飲みほすがいい。そして別れを、
去りゆくアレキサンドリアに別れを告げるがいい。


2001年01月03日(水) 地中海、アレキサンドリアより 2

アレキサンドリアから見た地中海はすばらしかった。
特に朝、かつて要塞だった建物のてっぺんから見た地中海は、大快晴の空の下、ほぼ360度にわたって青く輝いていた。
あんなにすごい青色をわたしは見たことがなかった。

アレキサンドリアという町は、どこかエジプトばなれしている。
もちろん、その辺を歩いている人の姿かたちや、市場が「スーク」的であることなんかを見れば、まちがいなくエジプトの町だ。
だが、町のイメージとしてエジプトというよりは、ギリシャかどこかの地中海の町、といった方がぴったりとくる。古代エジプトの建造物がこの町にあるのかどうか、少なくとも主な観光ポイントには入っていないことは確かで、それがルクソールなどの「いかにもエジプト!」という町と一線を画す原因となっているのはまちがいない。

たしかに町の歴史を少しでもひもとけば、ここが紀元前何千年も前から、地中海の重大な交易ポイントであり、ギリシャをはじめ沿岸諸国の民族が入り交じって生きてきた国際都市であることがわかる。そもそも、「アレキサンドリア」という名前からしてエジプトばなれしている。

あのクレオパトラが生きたのもこの町であった。(彼女はギリシャ系? 手元に詳しい資料がないのでうろ覚え)。そして彼女にかかわってくる、カエサル、アントニウスといったローマ人たち。
また、2万冊だかの本を所蔵した、当時としては驚異的な大図書館があった町でもある。(わたしは図書館というもの自体が好きなので、こういう町にはそれだけでも惹かれてしまう)
古来より、人と情報が交差する町なのであった。

そして、この町を舞台にした印象的な小説「アレキサンドリア四重奏」がある。

つづく


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