心の家路 たったひとつの冴えないやりかた

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たったひとつの冴えないやりかた
飲まないアルコール中毒者のドライドランクな日常
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2019年11月15日(金) 日本人は世界で一番他人に冷たい国民性

テレビのニュースでも取り上げられていた話題で、日本人は見知らぬ他人が困っていても助けない、という話であります。

CAF WORLD GIVING INDEX 10th edition
https://www.cafonline.org/about-us/publications/2019-publications

Charities Aid Foundationはイギリスにある国際的な慈善団体で、世界各国で人々がどれぐらい慈善行為を行っているか調査を行い、それを慈善指数(World Giving Index)として数値化しています。調査を請け負っているのはギャラップという調査会社で、調査の内容は意外にシンプルで、以下の三つの項目のアンケートを行うものです。

あなたは、この一ヶ月の間に、以下の行いをしましたか?

 1.困っている見知らぬ人を助けてあげましたか?
 2.慈善や義援に金銭を寄付しましたか?
 3.どこかの団体のボランティアに時間を使いましたか?

あなたはどうでしょうか? 「この一ヶ月以内に」という条件がついているので、僕はタイミングによっては、三つともノーという返事になることもしばしばありそうです。

この三つの質問を、百以上の国について、各国およそ千件の回答が集めながら、毎年10年間続けたというのだから、大規模な調査です。

そして、気になる結果ですが、日本は

 1.24%(125位で最下位)
 2.23%(64位)
 3.22%(46位)
 総合 23%(107位)

近年日本では大規模な災害が相次ぎ、義援金を送ったり、片付けや人捜しのボランティアに参加する人が増えたと聞きますから、それが2と3の項目が真ん中ぐらいの結果をもたらしたのでしょうか。

しかし、1の項目が世界で最下位なのです。いやいやいやいや・・、日本人は礼儀正しく、自己主張控えめで、人の気持ちを慮り、そして人に親切にするのを美徳とする文化を持っていたのではなかったのか?

私たちのその自己意識は間違っていたのでしょうか?

1の質問では、困っているのが「見知らぬ人(a stranger, or someone you didn't know)」となっているのがポイントです。つまり、日本人は知り合いには親切かも知れないが、見知らぬ人には冷たいというわけです。

ちなみに、総合順位でトップだったのは(なんと!)アメリカで、1の質問でも72%という数字を出しています。

多くの人は、アメリカ人は個人主義的で自己主張が強く、一方で日本人は集団主義的で自分を抑えて生きていると考えています。

そこから、アメリカ人は個人主義的だから、人のやることに余計な口も挟まないけれど、こちらが困っていても助けてくれない(冷たい)のじゃないか、とか・・・日本人は集団主義的だから、人のことにとやかくうるさいけれど、困っているときには助けてくれるのだ・・・という推論を組み立てることも可能だし、実際そう信じている人も多いみたいです。

でも、それって本当でしょうか?

北海道大学教授だった社会心理学者の山岸俊男という人が、いろいろな心理学的実験を行い、日本人が実は個人主義的(というか自己中心)だということを示しています。その詳しい中身については『信頼の構造』など彼の著書をあたってもらうことにして、日本人が個人主義だということを受け入れて考えると、「日本人は親切」という自己意識と、現実の数字のギャップが見えてきます。

困っている人が自分の知り合いだったら、冷たくしてしまうと、後でその人にこちらの悪い評判を流されかねません(しっぺ返しを受けないように親切にする)。しかし、困っているのが見知らぬ人で、見捨てたところで自分に不利益がない(あるいは知り合い相手でも、自分の選択が相手にバレない)のなら、相手を助けないという選択をする(確率が高い)、というわけです。

つまり、日本人は根本的には自分勝手なのだけれど、集団の圧力や社会的証明の圧力によって、望ましいとされる行いを選んでいるに過ぎないわけです。実際に困っている人がいても「あれは自己責任だから助けなくて良い」という論調が出てきがちなのは、そのあたりに理由があるのかもしれませんね。

僕らが「自分たちはそこそこ親切な人間なのだ」と思っていれば、これ以上親切な人間になろうとはしないでしょう。でも、世界一不親切な国民性なのだという数字を受け入れれば、もうちょっと見知らぬ人に親切にしてみようか、という変化が産む余地ができます。

高い自己評価というのは役に立たない、という例の一つです。

さて、FC2ブログとえんぴつで続けてきたこの「日々雑記」ですが、『心の家路』本体のブログに移行することにしました。移行先はこちら(https://ieji.org/category/notes)です。

『心の家路』本体
https://ieji.org/

今後とも『心の家路』をよろしくお願いします。


2018年09月20日(木) 嫌われ役を引き受ける

いま僕は埼玉に住んで、東京の職場に通勤しています。長野からこちらに引っ越してきて5年ちかくになりました。こちらに来て、「将来は依存症の人を手助けする仕事をしたい」と言う人たちと出会うようになりました。人には職業選択の自由がありますから、それがその人の意志ならば、周囲がとやかく言う必要はないとは思います。ただ、一般のAAメンバーの立場から見れば、例えば依存症の回復施設での仕事は「たいへんな仕事」であり、給料に魅力があるわけではなく、積極的に選びたい仕事ではない、というのが正直なところではないでしょうか。

依存症者の回復を援助する仕事なんかしたくない、というのが健康な人の考え方でしょう。ですから、あえてその仕事をしたいと思う人は、どこか病んだ部分を抱えている、というのが僕の見方です。援助の仕事をしたければ、なにもその対象を依存症者に限らなくても良いと思うからです。

話は変わって、どんな人が援助職という仕事に向いているか、という質問を受けることがあります。僕にそんなことを聞かれても、的を射た答えができる自信はありません。ただ、周囲を見渡していれば分かることもあります。

例えば、体力はあったほうが良いし、メンタルも強いほうが良い、頭の良さは常にアドバンテージになるし、美人・イケメンは何かとお得だし、育ちの良さは万人ウケします。そうしたところは、他の職業と何ら変わるところはありません。だから、他の職業だと自分は競争に不利だから、援助の仕事ならイケてる自分を実現できるかもしれない・・・などという動機で選ぶと、「こんなはずじゃなかった」という不満の多い職業生活を送ることになるでしょう。

むしろ、自分が狂っていることは十分分かった上で、それでも「ただやりたいからやる」という単純な動機の人のほうが強く、また満足感も強いと思うのです。

逆に、明らかに向いていないタイプも見受けます。それは「悪役になれない人」です。本当に助ける相手のことを思うならば、あえて冷たい態度を取ったり、憎まれるようなことを言ったりしなければならないこともあります。ハードな直面化は援助関係の途絶を招くので嫌われ、良好な関係の維持が好まれるご時世になってきたとはいえ、やっぱり直面化が必要な時もありますから。

人に感謝されることがモチベーションだという人は、悪役・嫌われ役・憎まれを引き受けることを、意識的にも無意識的にも避けます。人を助けることには不向きな人としか言いようがありません。

そもそも、支援の現場ばかりでなく、人の集団を目的に向かって動かしていくときには、必ず嫌われ者の役を引き受ける人がその中に必要です。集団のために奉仕しているのに皆に嫌われるのは割に合わない、と考える人は、自分で思っているより利己的な性格をしているわけです。

もちろん、人に嫌われることに何の痛痒も感じない、というのは何らかのパーソナリティ障害じゃないかと思いますし、かつては感じていたけれども今ではもう慣れっこ、というのも困ったものです。やはり、そこには何らかの葛藤が残っているのが健全なんじゃないかと思います。


2018年08月24日(金) 仲間没する

 「神に定められた役割を果たすために、自分たちはこの世に生きているのだ」(p.99)
 We are in the world to play the role He assigns.

すでに一ヶ月すぎてしまいましたが、7月21日の土曜日に、バーブさんが亡くなったという知らせを受けました。お会いするたびに衰えが目立っていたので、ついにこの日が来てしまった、という淋しい気持ちを味わいました。

最後にお目にかかったのは、施設の40周年記念行事の夕食で、他の仲間と一緒にお弁当を食べながら話をした時でした。「もうこれで思い残すことはない」とおっしゃったので、そう言わずに50周年までと言ったのですが、それから3週間後に訃報を受け取ることになりました。

有名な、という形容詞は、無名の人間の集まりにはふさわしくないのでしょう。その代わりに「よく知られた(well known)」という言葉を使うようですが、彼こそまさに「よく知られた」人物でした。横浜でのAA日本40周年紀年行事でも、夜のスピーカーをされてました。施設でもAAでも、回復のアイコンというべき存在でした。

だが彼自身がそうした象徴になろうと望んでなったのかと問えば、答えは明確にノーでしょう。彼自身の言動からそれは明らかですし、そもそも象徴とはなりたくてなれるものじゃありませんから。

バーブというニックネームの由来を聞いたことがあります。日本のAAの始まりの頃はメンバー数が少なく、英語グループの人たちが来てくれて一緒にミーティングをしていたのだそうです。(通訳はミニー神父やピーター神父がしていた)。英語圏の人たちは、お互いをファーストネームで呼びますが、それをかっこいいと思った初期の日本人AAメンバーたちは、自分に外国人ぽいファーストネームを付け、それを名乗るようにしたんだそうです。それが、日本のAAメンバーが奇妙なニックネームを使う始まりだったのだとか。

彼は自分にBobというファーストネームを付け、それを英語読みするとバーブと聞こえたので、そう名乗りました。「だから俺は本当はボブなんだよ」と、そんな初期のエピソードを聞かせてくれる人ももうこの世にいないわけです。

僕は彼とは縁遠く、なかなか近づきになれませんでしたが、晩年の数年は定期的に話をする機会を得ました。等身大の彼は、当然のことながらただの一人のアルコホーリクにすぎません。だが、同時に彼は偉大な人物でもあります。では、何が彼を偉大たらしめたのか。

彼は、バーブ、あるいは本名から取って「ヤマシン」と呼ばれました。誰かが「ヤマシンという役柄は彼にしかできない」と言っていました。まさにその通り。先ほども述べたように、回復の象徴という役割は、自ら望んでなれるものでなく、(自分の意志とは関係なく)神によって選ばれるものです。彼は40年以上かけて、バーブ(あるいはヤマシン)という役割を覚悟を持って果たしきりました。だからこそ、40周年行事で「盆と正月がいっぺんに来たみてえだな」と満ち足りた顔をされていたのでしょう。

もうちょっと僕らのところにも来てくださいよ、とお願いしたら、「お前のところは敷居が高くてな、苦手なんだよ」と真顔で言われました。でもまあ、彼がずっと応援し続けてくれなければ、ビッグブックの12ステップはここまで広がりはしなかったはずです。僕にとってもたいへんな恩人であるし、昨年AAのラウンドアップでビッグブックを使ったビギナーズミーティングをやったとき、来てくださったのは、たいへん良い思い出です。

「どんどん新しいことをやっていかなくちゃならないんだ!」という言葉は心に刻んでいます。

彼みたいになれると思わないし、なりたいとも思いません。僕は、僕に課された役割を果たしていけば良いのだと思っています。

葬儀は家族葬で済んでいるそうですが、施設主催でお別れの会が下記のように行われます。参列者による献花と、数名のお話が予定されていると聞いています。

日時: 平成30年8月25日(土)13:30〜15:30(開場13:20)
場所: 滝野川西ふれあい館(東京都北区滝野川6−21−5) 6階 第1ホール
交通: JR埼京線「板橋駅」西口下車徒歩10分
    都営三田線「西巣鴨駅」下車徒歩5分
問い合わせ:みのわマック TEL:03-5974-5091


2017年05月17日(水) 12ステップで求められる正直さとは

 「無くて七癖」という言葉があるように、人間は誰でもたくさんのクセを持っているものです。文章を書くことにも、その人のクセがあらわれます。僕の文章にもきっと多くのクセがあることでしょう。そして、ビッグブックを書いたビル・Wの文章にもクセがあります。

 その一つは、同じ言葉を繰り返して使わず、別の言葉で言い換えることです。例えば12のステップのステップ5には「過ち」という言葉があり、ステップ6には「欠点」、ステップ7には「短所」という言葉があります。これはすべて同じことを指して使われています。以前、某所で欠点と短所の違いについての議論が盛り上がったことがありましたが、今から思えば虚しい議論だったことが分かります。

 さて、回復するには「正直さ」が必要なのだと言います。ビッグブックにも「正直さ」が必要だと書かれています。だから「ミーティングで自分のことを正直に話しなさい」とアドバイスするスポンサーもいるでしょう。「あいつは正直でない」という非難めいた言葉も聞きます。

 ですが、ここで言われている正直さは、他者に対する正直さです。ビッグブックで正直という言葉が出てくるときは、たいていが「自分自身に対する正直さ」を指しています。

 この「自分に正直」という言葉は、日本語として判じ物のように意味不明です。「自分に正直になったら、飲みたい私は酒を飲んじゃいますよ」という笑えないジョークを言われても、どう反応したら良いか困ってしまいます。

 ビルはもちろん「自分に正直」という言葉も他の言葉に言い換えています。「自分の問題に正直に直面することができれば・・回復できる」としています。たしかに、12ステップは一つひとつが自分の何らかの問題に直面するように求めています。

 「自分に正直」とはどう言う意味かと尋ねられ、ビルのこの文章をしめすと、たいてい「ああ、なるほど」と納得してもらえます。ですが、自分が問題を抱えていると認めるのは、難しいことであるし、嫌なことでもあります。

 『米国アディクション列伝』を書いたホワイトは、その著書の中で「AAプログラムは、人間がいかに不完全な存在か教えてくれる」と述べています。アルコホーリクばかりでなく、あらゆる人間は不完全な存在なのです。神の完全さに比べれば、人間の優劣なんてドングリの背比べ、五十歩百歩にすぎません。(そのことを理解するために、神という完全なる存在の概念が必要なのかもしれません)。そのように考えれば、自分の問題(不完全さ)を認めることは、より容易になるのではないかと思います。


2017年02月26日(日) 多くの回復を作り出すことの意味

 最近は日々雑記の更新も間遠くなり、「ブログをやっているひいらぎさん」ではなく「ブログをやっていたひいらぎさん」と呼ばれるようになりました。

 僕が東京の依存症回復施設で働くようになったのをご存じの方も多いと思います。「二つの帽子をかぶり分ける」(※)ために、施設のことを取り上げるのは避けますが、支援の仕事は生産性が悪いということをつくづく感じています。平たく言うと、忙しいわりに利益が少ない業種だということですね。雑記の更新頻度が極端に落ちたのは、仕事とAAで時間とエネルギーを使い果たしているからです。それでもこうして雑記を書こうと思ったのはなぜか。

(※ プロとしてアルコホリズムに関わっていたとしても、AAメンバーとしての活動はあくまで非職業的なものであることを明確にすること)

 それは、長野でサラリーマンとして働きながらAAメンバーをやっていた頃と、現在では、地理的な位置、社会的な立場、職業的な違いがあるので、新しい視点から依存症を見ることになった。それについてネットでも発信してみようと考えました。

 とはいえ、変わらないこともあります。僕は相変わらず週に一回AAの会場を開け、10人あまりの参加者と一緒にミーティングをやり、その他に週に二晩ぐらいスポンシーとビッグブックの読み合わせをしたり、棚卸しを聞いたりしています。そして時々日曜日にはイベントにでかけている。そんな日々のなかで考えたことです。本題に入りましょう。

 元コメディアンの田代まさし、元プロ野球選手の清原和博、この二人が薬物問題を抱えていることは多くの人が知っているでしょう。田代氏は薬物依存であることを公けにして施設のスタッフとして活動されている。清原氏は自らを薬物依存とは公けにはしていないようですが、伝えられている情報を総合すれば依存症である可能性は高い。僕は同じ依存症者として、お二人の回復が順調に続くように願っています。

 田代氏の講演を何度か聴かせていただきましたが、人を笑わせて和やかにする才能には感心します。それは彼が前半生で努力して身につけたものなのでしょう。さて、例えば将来、彼がテレビのバラエティ番組にタレントとして出演する可能性はあるでしょうか(氏自身がそれを望むかどうか別として)。あるいは、清原氏は野球選手としてあれだけの実績を残した人ですから、将来どこかのプロ野球球団でコーチや監督を務めることはあり得るでしょうか。今の日本社会ではどちらの可能性もゼロに等しい。せっかくの才能が無駄になるのは残念なことです。

 「心の家路」のサイトを始めた頃、「依存症」をキーワードとしてニュースを検索し、一覧表示するページを作りました。するとアメリカの有名人が自らの依存症を公けにして治療に励むという記事がたくさん表示されました。AAの英語版月刊誌にはAA以外のことを取り上げた記事も毎月載りますが、数年前の記事に政府機関が行った一般の人へのアンケート結果が掲載されていました。そのなかに「アルコールや薬物の依存から回復中の人と友だちになれるか?」という項目があり、実に7割以上の人が「友だちになっても良い」と答えていました。

 アメリカにおいては依存症であることを隠すより、むしろ明らかにして治療に取り組む姿勢を示した方がメリットがある。さらに、病気が克服できれば仕事を続けていける。そういったことを許容する社会になっていることがうかがわれます。日米のこの違いはなんとしたことか。それは依存症という病気に対する認識の違い、偏見の有無でしょう。

 アメリカは、(依存症に限らず)人生に降りかかった何らかの困難を克服したストーリーが美談として賞賛される傾向はあると思います。ベストセラーのランキングにはそんな自伝がよく混じっています。対するに日本は、輝く者が地に落ちれば、それを皆で叩く、という世の中になっている気がします(しかもその傾向が強まっているんじゃないかと)。そんな国柄の違いを踏まえても、社会の病気に対する理解度の違いが大きいことは明瞭です。

 先日ある新聞社の記者さんから取材を受けたときにも、こ話をし、その上で「例えば清原が将来ジャイアンツの監督にという記事が書けるか」という少々意地の悪い質問をぶつけてみました。その方は率直に「例えそう書いたとしても、どこかから横やりが入って決して記事にはならないだろう」と答えてくれました。報道機関には「ニュースという商品」を売る商売の側面があります。客の望まない商品を売りつけることはできないのですから、その新聞社が悪いわけではありません。日本の社会が変わらなければ、そうは書けないのです。

 おそらく「マーシーも清原も犯罪を犯したんだから、拒絶されて当然だ」と言う人もいるに違いありません。お二人とも違法薬物の所持や使用の罪科で有罪判決を受け、一方は服役もしています。それについては、覚醒剤の使用の罪は「被害者のいない犯罪」と呼ばれていることも考慮していただきたい。法律が何かを禁止するのは、誰か(の権利)を守るためです。どの法律が誰を守っているか、考えてみれば分かるはずです。覚醒剤や麻薬の取締法は少なくとも薬物依存症者本人を守ってはくれない。禁止したからって再使用は防げないし、懲罰を与えることはしばしば治療の妨げにしかなりません。

 覚醒剤や麻薬の取締法は、依存症にならない大多数の人々の福利を守っているが、依存症者の役には立ってはいないのが現実です(まあ取り締まるための法律ですからね)。人は軽い気持ちでクスリに手を出しますが、依存症になろうと望んでなるわけではないのです。

 話を元に戻して、依存症という病気に対する無理解や偏見は、当事者にとってありがたくないことです。羞恥の気持ちが、治療や回復資源に繋がるのを年単位で送らせ、予後を悪くします。社会復帰にも妨げになります。では、そんな世の中を変えていくにはどうしたら良いのでしょうか。

 一つのアイデアは、無理解や偏見を取り除くために「啓発活動をする」というものです。実際に啓発活動に取り組んでいる人たちがいて、その熱意と努力には頭の下がる思いです。僕もそうした活動にはできる限りの協力はしようと思います。ですが、僕自身は啓発活動の先頭に立とうという気持ちは薄い。それはなぜか。

 アメリカのAAや依存症の歴史を見ると、アメリカも以前は依存症への偏見が強い社会だったことがわかります。それが変化したきっかけは、AAやその他の機関が依存症からの回復者を大量に作り出したことです。もちろん、啓発活動が大きな役割を果たしたことは間違いないでしょうが、啓発活動だけで社会を変えることはできないはずです。なぜなら、人は身近に存在を覚知することにしか関心を寄せないものです。回復した人がたくさん存在しなければ、理解が進みようがありません。

 だったら僕は回復ということに焦点を当ててやっていきたい、と思うようになりました。社会を変えることが僕の目的ではなく、回復というものが増えていった結果として社会が変わってくれれば、それはそれで有り難いし、自分もより安全になれる。だから、たくさんの回復が作り出せることが大切ではないか。それが当事者が当事者として活動する指向性だ、というのが最近の考えです。


2016年03月28日(月) どうやって「ゆだねる」のか

10日ほど前に、メールで質問をいただきました。返事を出さないまま、日が経ってしまいました。せっかくなので、メールに返信する代わりに、日々雑記のエントリでお答えしたいと思います。

ご質問の部分だけ抜き出します。

> ステップで、行動を神に任せる、という祈りがありますよね。
> これはどういう風に、自分の生き方を定めるという事なのでしょうか?

12ステップでは、ステップ3で自分の「意志と生き方を自分なりに理解した神にゆだねる」決心をします。

ステップ3は「決心をする」ステップですが、決心をした後、具体的にはどのように神にゆだねていったら良いか、という主旨の質問だと理解しました。

決断や決意は心の中で行うことです。だから、ステップ3の決心も心の中で行われるものでしょう。しかし、12ステップは「行動のプログラム」ですから、ステップ3も何か具体的な行動をするのがふさわしいでしょう。ビッグブックでは、p.91に「第三ステップの祈り」が書かれています。「神よ、私をあなたにささげます」で始まる5行の短い祈りです。

p.92では、理解ある人と一緒にこの祈りを口に出して唱える、という行動が提示されています。決心を行動として現わすわけです。

これでステップ3は終わりです。しかし、決心しただけでは「ゆだねる」ことは実現しません。

もし、東大に合格する、と決心しただけで東大に合格できるのなら、はたまた、大金持ちになると決心しただけで金持ちになれるのなら、僕はいくらでも決心するでしょう。しかし残念なことに、決心しただけでは物事は実現しません。決心に続いて、その内容を実現するための努力が必要です。東大に入るためには、決心に続いて受験勉強が必要ですし、金持ちになりたければ努力して事業を成功させなければなりません。結婚だって就職だって、決心だけでは実現しません。

「神にゆだねる」ことも同じです。ステップ3の決心に続いて、ゆだねることを実現するための行動が必要です。それがステップ4から12にあたります。

さて、話を進めやすくするために、この図を見てください。

人生の三つの次元

これは、ジョー・マキューとチャーリー・Pのビッグブックスタディで使われた図を日本語に訳したもので、12ステップの説明に使われます。私たちの人生(life=生命、生活)を三つの同心円で表現しています。

私たちが「自分」と捉えているのは、この図ではグレイのアニュラス(円環)で表現しています。私たちが「心」とか「精神」と呼んでいるものです。

私たちは物質的なもの(金銭や財産)や社会的なもの(人間関係や社会的地位)に囲まれて暮らしています。だからそれらを一番外側の円環として表現しています。

さらに、ビッグブックでは神(あるいは神の意志)は、私たちの一番深いところに見つかる、と書いています(p.80)。だから、神が一番内側に描かれています。

この三つの円を「人生の三つの次元」と呼んでいます。

さて、真ん中にある神は意志を持っています。もちろんグレイの円環である私たちも意志を持っています。つまり「神の意志」と「自己の意志」の二つがあるわけです。ステップ3では、この「自己の意志」を「神の意志」に従わせていく、という決心をするわけです。

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自分の意志を神の意向にだんだんと合わせられるようにするのがAAの十二のステップの目的である。(12&12, p.56)
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内なる神は善なる存在です。しかし、グレイの自己は利己的な存在なので、良い動機を持っていたとしても、「人との間に、あるいは何かのことで、ごたごたが絶えない(AA, p.87)」という生活を送ることになります。だから、自分の意志を神にコントロールしてもらえらえば、うまく生きていけるだろう、というのが12ステップのコンセプトです。

神あるいは神の意志は、僕ら人間に生まれながらにして備わっています。誰もがそれを備えています。だから、そう望むのなら、誰でも、自分の意志と人生を、内なる神にゆだねて生きていくことができます。

でも、僕らは日常生活の中で、内なる神や神の意志を感じ取ることはなかなかできません。どうしてできないのでしょうか。

ビッグブックでは、神(一番内側の円)と自己(グレイの円環)の間に「障害物」が生じている、と言っています。また、12&12では、神と自分をつなぐチャネル(※)が詰まっていると言っています。どっちにしても、神と自分との関係を阻んでいる「障害物」があるわけです。

※チャネルをパイプと訳している(12&12, p.135)。

その障害物とは何か・・それは、恨み、恐れ、欲求不満、罪悪感などです。そして、そうした障害物が発生する原因が私たちの「性格上の欠点」と呼ばれるものです。

だから、ステップ4・5では、恨みや恐れを手がかりに棚卸しをして、自分の「性格上の欠点」を見つける作業をします。ステップ6・7では、見つけた欠点を取り除きます。ステップ8・9では過去に自分が傷つけた人に埋め合わせをします。ステップ10では、ステップ4〜9の作業を日々繰り返していきます。

こうして障害物が取り除かれていくと――あるいは神と自分をつなぐチャネルが掃除されると――、僕らは神の意志を受け取る準備が整います。そこで、祈りと黙想という手段を使って、神の意志を知り、それに従っていく努力をします(ステップ11)。

このようにして「ゆだねる」ということが実現するわけです。ふう、ちょっと大変かもしれませんが、東大に合格することや、大金持ちになるよりはずっと容易だと思います。

僕らは、自己(グレイの円環)と物質的・社会的なものとの関係にばかり関心を持ってきました。お金のこととか人間関係のことです。だからミーティングでもその話ばかりしているでしょう。でも、大切なことは自己と内なる神との関係です。その関係が良くなれば、外側とのことで思い悩むことはずっと少なくなり、楽に生きていけるようになります。それが、ゆだねて生きていくということであり、それを実現するために、棚卸しと埋め合わせ、祈りと黙想に取り組むことが必要です。これが、あなたの質問に対する答えになります。

アメリカのあるNAメンバーが、僕らの心の中には god-shaped-hole が空いている、と言っていました。神の形をした穴です。生きるのに虚しさや辛さを感じるのは、心の中に大穴が空いているからです。それは「神の形をした穴」なので、神以外の何かで埋めようとしても、ぴったりはまりません。僕らはその穴を酒や薬で埋めようとして、かえってひどいことになりました。

障害物を取り除いてみれば、その穴の中には神がちゃんと存在していたことを知るでしょう。生まれたときからずっと一緒にいてくれたことも。その時私たちは奥底から「満たされた」という感じを抱きます。そうして得られる「自分より偉大な力への気づき」、「神がここにいるという実感」がステップ12に書かれている「霊的な目覚め」です。

 最後に振り返ると、あなたにもわかるはず
 結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです
 あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです

 (ANYWAY〜マザー・テレサ作とされている詩


2016年03月18日(金) 分け隔て無く vs. アルコホーリク限定

2年ほど前に、僕が引っ越しと転職をしたことをご存じの方も多いでしょう。

環境が大きく変わったことが、この「日々雑記」の更新が滞った原因の一つですが、それ以外にもAAのゼネラル・サービスに時間を費やされたことが主な理由でした。そのサービスの頸木(くびき)からもようやく解放される見通しがつき、これからはもう少し「家路」に時間を割くこともできる、と自分で期待しています。

新しい仕事の関係で、社会福祉の勉強をすることになりました。先日も5日間のスクーリングに行かせてもらいました。エリザベス救貧法とか、救血規則・・じゃなかった恤救規則とかから始まって、現在の自民党の政策までの社会福祉の歴史の話だとか、援助技術論とか公的扶助論とか。講師は大学で福祉を教えている先生でした。

社会福祉とは何なのか? 僕の単純な理解では、それは「困っている人を手助けすること」です。社会生活をしていく上での基本的な欲求を満たせない状態の人に、何らかの制度を使って助けてあげることです。

福祉制度の無かった時代は、裕福な人が行う「慈善」活動が福祉の役割を果たしていました。だが、慈善は与える側の善意が元になっていて、受け取る側のニーズは反映されにくいものです。他にも血縁・地縁による「相互扶助」の仕組みもありました。でもこの互助というのは、「頂いた分へのお返し」が必要なので、お返しできない立場の人は辛くなってしまう。そこで、税金などを使った公的な制度を作ったわけです。それが、公的扶助(生活保護)や年金や保険制度などの仕組みです。

社会福祉とは、困っている人のニーズと公的な仕組みを結びつける役割であって、必要な仕組みがなければそれを作る活動をしたり、自ら仕組みの一部となってサービスを提供するマンパワーになったりする・・・。

社会福祉は人権思想に基づいているので、対象を選別することを嫌います。例えば、生活保護には無差別平等の原則があって、困窮に至った原因は問われないのです。酒を飲んで身を持ち崩したのは自業自得だから生活保護は支給しない・・という扱いはしてはいけない。要件を満たす人は、分け隔てなく、可能な限り多く助けるというのが基本です。

先日、障害福祉の現場で働きながら、アルコールのことにも関心を持ってくださる、ある方と話す機会がありました。そしてすぐに、あることに気がつきました。その方は、手助けする対象がアルコホーリかどうかを気にしていないのです。アルコール多飲の原因が、依存症であっても、依存症以外の知的な障害や統合失調であっても、同じに扱っているのです。

福祉としては、それが正しい態度なのだと思います。アルコールで問題を起こしていれば、その人にとっては分け隔て無く助けるべき存在なのでしょう。

AAはそうではなく、アルコホーリクに対象を限っています。伝統5は「靴屋よ、なんじの本分をはみ出すな」(12&12, p.203)と、AAがアルコホリズムに専念するように言っています。アルコール多飲には、依存症以外の原因も考えられます。それを区別するのはAAメンバーの仕事ではありませんが、アルコホーリクではないことが明らかな人は、AAの対象でないことも明らかです。

もちろん、アルコホーリクでない人をAAミーティングから追い出せ、と言っているわけではありません。排除の理屈ではない。ただ「下手に多くのことに手を出すよりも、一つのことを最大限うまく行う方がよい」(12&12)という、選択と集中の原理が、AAを世界的に広める力になったことを忘れてはいけません。近年のAAの国際会議でも、"Singleness of Purpose"(AAの目的の単一性)というテーマが繰り返し扱われています。

同じことは、アルコール依存症の回復施設にも言えるのだと思います。アメリカの回復施設のスタッフやAAメンバーと話していて、強く印象に残ったのは、彼らは「(真正の)アルコホーリクだけを対象とする」ことに誇りを持っていることです。同じアルコホリズムという共通の問題を抱えていることが、助ける側と助けられる側に深い理解を生み、その共通の問題に対して12ステップという共通の解決策が提供される・・・。解決策を受け渡す手段が、ミーティングやスポンサーシップである、というわけです。

日本のAAメンバーや施設スタッフが、アメリカの施設のスタッフに会うと、よくこんな質問を投げかけます。

「ほかに障害があるみたいで、回復のプログラムに馴染まない人は、どう手助けしたらいいんだ?」

僕も同じような質問をしました。それに対して彼らは一様に困った顔をし、そして親切に、こう言ってくれるのです。

「アルコホリズム以外の問題は、その専門家にまかせたらどうだろう」

この答えに対して、質問した側が、はぐらかされたような気持ちになってしまうは、AAプログラムが誰を対象にしているかの認識にギャップがあるからです。目的の単一性を良く認識している人たちと、アルコールで問題を起こしている人なら誰でも助けたい人たちと。

アルコホリズムとそれ以外の問題を同時に抱える人はいます。僕の福祉の勉強は、そのような重複障害の人を手助けするのに役立ってくれるでしょう。だから、AAメンバーが福祉の勉強をすることに反対しようとは思いません。でも、福祉の思想をAAに持ち込むとおかしなことになっていきます。

日本のAAは40年間、「関係者」と呼ばれる人たちの応援によって発展してきました。最初はその方たちを、英語の professional を訳して「専門家」と呼んでいたのですが、職業的専門性に自信のない人たちから「俺たち援助職を<専門家>と呼ぶのは止めてくれ!」と言われたので、仕方なく20年ほど前から援助者のことをAAの「関係者」と呼ぶようにしたのです。

この「関係者」には、医療、行政、矯正などいろいろな分野の人が居るのですが、数が一番多いのは福祉の分野の人(ワーカーと呼ばれる人たち)でしょう。その人たちの善意があってこそ、日本のAAがここまで成長してきたのです。だから、その人たちが気を悪くされたら申し訳ないと思いながらも、やはり言っておくべきことは言わねばならぬ、という気持ちがあるのです。

ケースワーカー、ソーシャルワーカーの人たちは、福祉の仕事をしているだけあって、「分け隔て無く、なるべくたくさん」を手助けするという理念があります。個人的にそういう指向性を持っていない人だって、職場の倫理観がそうなんですからね。だから彼らには、AAを福祉の社会資源と捉えて、

「AAは、アルコールで問題を起こしている人なら誰でも引き受けるところ」

であって欲しい、という願いがあり、それがときには「であるはずだ」という思い込みにもなる。それは福祉の理念をAAに押しつけることになる。それに対してAA側は「アルコールで問題を起こしている人には、アルコホーリクもいれば、そうでない人もいる。AAはアルコホーリクのみを対象にしている」ときちんと伝えなくてはいけないのでしょう。

AAのことを正しく伝える努力が弱まると、AAは「別の専門家に任せるべき人」を引き受けるようになってしまいます。それは、その人にとっても、AAメンバーにとっても不幸なことですし、苦しんでいるアルコホーリクが助かるチャンスを減らしてしまいます。

AAメンバーは、AA以外にもやらねばならないことがたくさんあります。仕事もあるだろうし、家庭のこともある。ストレスにつぶれないように、人生を楽しむレジャーの時間も必要でしょう。24時間の中から「AAのメッセージを運ぶ」ために割ける時間は多くないはずです。限られた時間を有効に使うために、対象を真正のアルコホリズムに限定するということも必要でしょう。

だがそれは、どこかで誰かに冷たい態度を取らねばならないことを意味します。12の伝統の中で、伝統5の実践が一番厳しい気もします。

(最近アメリカのGSOから出てくる文章は、AAプログラム(12ステップ)がアルコホリズム以外にも効果があると受け取って欲しくない、というニュアンスが強くなってきています)。

さらに、AAの(真正の)アルコホーリクと、医師が医学的にアルコール依存症と診断を下した人は同一ではない、といことも述べておかねばなりませんが、それについては稿を改めましょう。

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年末年始にこの雑記が書けなかったので・・・

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 (FC2ブログはカウンターを設置していないので不明)。


2015年09月20日(日) 当事者性の限界

「当事者」という言葉はいろいろなジャンルで使われています。法律の分野では、事件や紛争に直接関わる人を当事者と呼びます(加害者とか被害者とか)。

福祉の分野では、障害を持っている人を当事者と呼びます。浦河べてるの家の「当事者研究」は、統合失調の人が病気の症状に上手に対処する方法を(支援者の手助けを得ながらですが)自分で見つけていく点を特徴にしています。障害のほかにも、暴力被害などの問題を抱える人も当事者と呼ばれます。

依存症を障害と捉えれば、アルコホーリックは依存症の「当事者」です。ですからAAは当事者の集まりということになります。

(さて、家族の立場の人は当事者なのでしょうか? それには曖昧さがあるようなので、その議論は別の機会に譲り、今回は本人について話を進めていきます)

当事者という概念が存在するのは、問題の解決に当事者でない人が関わってくるからでしょう。法律の分野では、弁護士や検察や裁判所が関わってきます。病気や障害の場合には、医師やソーシャルワーカーが関わってきます。問題解決を援助する人(援助者)と援助される人(被援助者)という関係が成り立ちます。そしてたいていの場合、援助する側はプロフェッショナル(職業人)であり、援助を仕事にしています。

プロの援助者は、たいていは当事者ではありません。自己破産の手続きを手伝ってくれる弁護士が自己破産した人だ・・とか、統合失調の治療をする医師が統合失調を患っている・・ということはまずありません。あったとしてもレアケースです。プロでありながら当事者でもあるとすれば、それはむしろ不都合なことだと見なされます。

セルフヘルプ(自助)グループは、プロによる援助を排し、当事者が自分たちの手で問題を解決していくことを特徴としています。AAも同様です。

当事者と似た概念にピアがあります。peer という言葉を英語の辞書で引くと、a person who is of the same age or position in society as you とあります。年齢や社会的地位が同じ人。年上でも年下でもない同年齢とか、上司でも部下でもない同僚です。対等の立場ということが強調される言葉です。ピアサポートとか、ピアサポート・グループという言葉は、参加者が対等の立場であることを強調しています。

では、AAはピアサポートなのかというと、それはちょっと微妙です。対等というのをどれほど厳密に考えるかにもよりますが、スポンサーとスポンシーの関係は、プロによる援助とは違って同等の立場によるものです。けれど、そこには明確に「援助する人」と「援助される人」の関係があるので、ピアとは呼びにくいです。

話が脇に逸れますが、例えスポンシーが飲んでしまっても、スポンサーは酒をやめ続けることができる・・人を手助けしているつもりで、実は自分が一番助けられている。そこには、援助する側・される側の逆転があり、相互に援助しているとも言えます(対称ではないけれど)。

話を元に戻して、AAに関してピアという言葉を使うのはふさわしくなさそうなので、当事者という言葉を選ぶことにしましょう。

数ある精神疾患のなかでも、依存症ほど当事者活動が盛んな分野も他にないように思います。他の病気にも患者会はありますが、AAや断酒会ほど高い頻度で会合を開いているという話はあまり聞きません。

なぜアルコール依存症の当事者活動は盛んなのか。いままでその理由を深く考えたことはありませんでした。完治させる治療法がないため、再発(スリップ)の防止に重点を置かなくてはならない。入院や通院よりも、日常生活の中に支えがあったほうが都合が良い。それを踏まえると、日常生活全般を生涯にわたってプロが援助することなど無理ですから、当事者どうしで支え合うのが現実解だ、ぐらいに思っていました。

しかし、最近はそれだけでもないだろう、と思うようになりました。

「○○は、それを経験した者でなければ分らない」という考え方があります。○○には、例えば「子育ての大変さ」とか「介護」とか「新聞配達」などが入ります。これが、傍から見ているだけじゃ、その苦労(や喜び)は分りませんぜ!と、まあ経験至上主義とでも呼びましょうか。

クローン病という難病指定されている病気があります。小腸大腸に炎症が起きる病気ですが、根治できないため寛解状態を維持するのが目標になります。治療には腸を休めるために、点滴しながらの絶食が必要になります。この絶食が、何週間あるいは何ヶ月、人によっては何年も続きます。寛解しても、再発すればまた絶食です。僕にはクローン病の経験はありませんが、何も食べられない辛さは想像を絶します。まさに「経験した者でなければ分らない」ことなのでしょう。

さて、ここからが本題。

どうやら、アルコホーリックは、この「経験したものでなければ分らない」はずである、という考えに凝り固まっているようです。それは「あなたに分るはずがない」という考えにつながります。

アルコホーリックは「酒をやめろ」とか「もう飲むな」と言われます。もちろん僕も言われたことがあります。素直に受け取ることはできず、反発したくなります。相手に対して「簡単に言ってくれるなよ。あんた、俺が酒を飲むことをどんなに必要としているか、何にも分っちゃいないな」と言いたくなります。さらには、

「じゃあ、あんたは酒をやめたことがあるのかよ!」

と毒づきたくなります。飲もうと思えば、いつでもトラブルなく酒を飲めるあんたに、俺たちが酒をやめる苦労が分ってたまるか! というわけです。

「酒をやめるために、AAのミーティングに通って下さいね」、とか言われても同じ反応です。なんでそんな面倒なことをしなくちゃいけないんだ。

「だいたい、そう言っているお前は、AAに通ったことがあんのかよ!」

そんなケンカを、医師や看護師やケースワーカーや自分の家族相手にふっかけても、何の意味もない・・・意味がないことはわかっちゃいるんだけど、反発したくなる。その反発の背景には「あなたに分るはずがない」という考えがあります。まあ、実際わかんないだろうしね。

それに対して、断酒会の先輩やAAの「先行く仲間」は当事者としての経験を持っていますから、酒をやめた経験もあるし、例会やミーティングに通った経験もあります。「俺がやったんだから、お前もやれ」と言うこともできます。それによって、反発をすっかり取り除くことはできないにしても、だいぶん減じることはできます。そこが、当事者どうしの良いところです。

12のステップは、やった方が良いことは分かっていても、なかなかやる気になれないものです。特に、自分の欠点を探す「棚卸し」や、傷つけた人への「埋め合わせ」はイヤだし、避けて通りたいと思う方が普通です。いざ12ステップに取り組むときに、ガイド役になってくれるスポンサーは12ステップの経験者であって欲しいと思うでしょう。それは、未経験な人より、経験者のほうがスキルが優れているというだけじゃなく、やったことがない人から「やれ」と言われることに、無闇な反発を感じちゃうのがアルコホーリックだからです。

依存症の社会資源としては、AAみたいな当事者グループの他にも、マックやダルクのような回復施設があります。施設のスタッフはたいてい当事者です。日本だけでなく、アディクションの本場アメリカにおいても、回復施設のスタッフは当事者が多数です。

なぜ当事者がスタッフの多数を占めているのか・・その理由は、ここまで書いてきたのと同じでしょう。立場を共有し、同じ経験を持っていることが重視されるのです。

ところで、施設のスタッフは当事者であると同時に、その立場で金を稼いでいるプロ(職業人)でもあります。先に書いたように、他の分野ではプロであると同時に当事者であるのは、むしろ不都合であったりするのに、依存症という分野ではプロとして当事者であることはしばしば強みになります。

ここまで、アマチュアである相互援助(自助)グループにおいても、プロとして施設スタッフにとっても「当事者である」ことにはメリットがあることを述べてきました(述べてきたつもり^^;)。

当事者であることは、立場や経験を共有しており、共感によって「あなたに分るはずがない」という反発を取り除くメリットがあります。

「経験した者でなければ分らない」、これは真実です。けれど、「だから当事者でなければ手助け(支援)ができない」というのは真実ではありません。経験者にしか分るはずがない、というのはアルコホーリック特有の狂った考えであり、役に立たない信念の一つです。だって、別に分る必要なんかないんだし。動機付けだったら、当事者である以外の手段もあります。

当事者であることを頼りに手助けをしていくと、どこかでその限界にぶち当たります。

例えば、ステップ5で棚卸しを聞いてくれる相手は当事者でなければならいのか? 実は、当事者でなくてもまったくオッケーの「はず」なのです。もちろん、棚卸しの目的は性格上の欠点を見つけることなので、その目的が達成されるように、棚卸しを聞く人は、そのための最低限のスキルを持っている必要があります。

そのスキルの本質は、「世間並みの常識」とか「バランスの取れた考え方」とか、「物事をいろんな立場から公平に見る能力」とか、あと「ちょっと批判的な視線」とかでしょう。そして、常識やバランスや公平性なんてものは、依存症の本人に最も足りないものです。だから、当事者じゃないほうが、棚卸しの聞き手としてふさわしかったりするのです。

棚卸しを聞くときに、性格上の欠点を見つけるという点では、非当事者のほうが優れた能力を発揮するでしょう。見たくなかった自分の欠点を映し出す、より正確な鏡を提供できるわけです。

しかし、人間というのは自分の欠点を指摘されると嫌な気分になるし、反論したくなるし、本当のことを言われると無性に腹が立つようにできているのです。だから、つい「当事者でないあなたには分らない」という言葉で拒絶したくなってしまうのです。それは、「あんたは酒をやめたことがあるのかよ!」というのと同じレベルの話で、実にみっともないのですけど。

だから、欠点を見つけるという点ではイマイチだったとしても、当事者同士でやったほうが、指摘される側がまだ受け入れやすいし、非当事者に迷惑かけなくて良いかな、という理由で、当事者同士でやってる、ということなのでしょう。つまり次善の策ということ。

本人同士でやることによって、「俺たち当事者にしか分らない」という閉じた世界ができあがってしまうことがあります。棚卸しであれ何であれ、「経験したものでなければ分らない(はず)」という経験至上主義がはびこり、それ以外のものは、一段低く見られるようになる。そうなると、よりバランスの取れた、より公平な、より常識的な考えが「外」から(=非当事者から)入ってくるのを拒むようになってしまいます。

それでは質の向上は見込めず、劣化するばかり。これが当事者性の一番の限界だと思います。じゃあ、どうすればその限界をぶち破れるのか。それは、閉じた世界ではなく、開かれたものにすること。当事者でない人、つまり家族とか、非当事者の援助者とかの話に耳を傾け、新しいものを手に入れていくしかないのでしょう。

当事者であるということは強みであるものの、同時に限界を作るものでもある。その限界を突破して成長したければ、当事者であることの強みを捨てることも必要になる、ということ。


2015年06月18日(木) 『誘拐の掟』を観て

アルコール依存症とAAが登場する映画がいくつかあります。お勧めどころを挙げると、ビル・Wの伝記的な映画「ドランカー(My Name is Bill W.)」、サンドラ・ブロック主演で施設での4週間の治療を描いた「28DAYS」、AAが制作に協力した「酒とバラの日々」、イギリス映画の「マイ・ネーム・イズ・ジョー」、メグ・ライアン主演の「男が女を愛する時」、他に「チェンジング・レーン」、「フライト」もお勧めしておきましょう。

つい先日、マット・スカダーシリーズの小説「墓場への切符」を映画化した「誘拐の掟」を見に行ってきました。その感想を含めて最近感じていることを書きます。

誘拐の掟
http://yukai-movie.com/

マット・スカダーシリーズは、アメリカの推理小説作家ローレンス・ブロックが30年近くにわたって書き継いでいるハードボイルド小説です。長編17冊が日本語に訳されて出版されています。

マットはニューヨーク市警の警官でしたが、非番の夜に警官にタダで飲ませてくれるバーで飲んでいたところ、その店が強盗に襲われます。彼は強盗を追いかけるのですが、その途中で撃った拳銃の弾が跳ねて7才の少女の目に当たり、その子を死なせてしまいます。マットは犯人逮捕の功績を表彰され、少女の死の責任を問われることはありませんでした。しかし、彼は警察を辞め、酒に溺れるようになり、やがて妻子と別れてしまいます。

一冊目に登場するマットは、飲んだくれの私立探偵になっています。(その後、数作に渡って彼は飲み続けます)。私立探偵とはいっても、ライセンスは持たず「知り合った友だちの頼みを引き受け、経費と僅かの報酬をもらうだけ」なのだと言います。

ローレンス・ブロックが書き、訳者田口俊樹が日本語にした文章からは、マットが背負った人生の切なさが匂い立ってくるかのようです。優れたハードボイルド小説なので、お暇があったら、ぜひ読んでいただきたい。1970〜80年代のニューヨークのAAの様子が描き出されているので、その点でも面白いし。

実はマット・スカダーシリーズは、以前に一回映画になっています。シリーズ中一番の名作とされる「八百万の死にざま」を原作に、1986年に映画が作られました。Amazonで探しところ、DVD化されておらず、商品はVHSしかありません。これはひょっとして映画は人気がなかったのか・・・観て理由がわかりました。舞台は陽光溢れるロサンゼルスに変えられているし、マットの人物描写も原作の人生の哀しみを背負った男から、なんだかチャラい軽薄男になっているし、なによりストーリーが少女の死以来、拳銃を握れなくなっていたマットが、トラウマを克服して拳銃をバンバン撃ちまくれるようになっちゃったりして・・。全然違った話になっていますから、マット・スカダーのファンからは黙殺されたとしても無理のない映画でした。

おまけに、その映画のエンドロールに、大きく「Alcoholics Anonymous」とクレジットが出てきたのを見たときには、思わずorzでしたよ。もう。こんな映画に、こんな映画、こんな映画にAAの名前が大きく出ているなんて!

そんなわけですから、「八百万の死にざま」の映画は見ない方が良いです。小説のほうは、とってもお勧めです。

で、今回の「誘拐の掟」は(結論から言うと)観てとても楽しめました。ただし、万人向けとは言い難い。誘拐犯はサイコパスのシリアルキラーで、おぞましいシーンもビジュアルに描写されますから。

それで、映画のストーリーがネタバレにならない程度に感想を書いてみたいと思います。推理小説ファンという立場からでなく、12ステップ的な観点から。

マット・スカダーの小説を読んでいる人で、なおかつ12ステップやAAに親しんだことのある人は、主人公マットの行動に違和感を憶えることもあるんじゃないかと想像します。なぜなら、マットはさらりと嘘をつくこともあるし、人を見捨てたり、敵対的な相手をためらいなく陥れたりするからです。そうした行動は、正直とか謙虚とか、正しさを求める12ステップの生き方と矛盾しているのじゃないだろうか、と。

最初の酒を飲んでいた頃ならともかく、アクティブなAAメンバーになった後も、そうした行動がやまないのはどうしたことか。それをこんなふうに合理化して考えることも出来ます。きっと、マットは12ステップに従って「正しく」生きたくても、私立探偵という職業は人の欲望が相克し、時に暴力的ですらあるわけですから、「正しく」生きてばかりはいられないのだ、と。ましてや彼のようにアウトローに囲まれて暮らしていればなおさらだし。ローレンス・ブロックは、主人公の性格付けにアルコホーリクやAAを使ったけれど、結局これはハードボイルド小説で、12ステップは話を盛り上げる材料にすぎないのだ・・と。

対極的な話として「北の大地」というコミックを紹介しましょう。これは青年マンガ誌に掲載が続いている作品ですが、主人公のプロゴルファーは温厚な性格ではあるものの、自分の信じるところを曲げず、そのことで自らがどんなに大きな不利益を被っても、ひたすら努力して一途に信念を貫いていくところが人間的魅力として描かれています。こちらのほうが、よほど「12ステップっぽい」と考える人もいるのでしょう。

僕もそのように考えていた時期もありました。だが次第に、マットの生き方こそ12ステップの生き方なのかも知れない、と思うようになってきたのです。

この頃、いろんな人の棚卸しを聞くことが多く、人の内面を知るようになるにつれて、一つの考えを持つようになりました。それは、

アルコホーリクになる人は、奇妙な正義感を抱えている。というものです。

「奇妙な」という形容詞がふさわしいのかイマイチ自信がありませんが、他に良い形容詞が思い浮かびません。

ひとつ例を挙げるとすると、映画「酒とバラの日々」でジャック・レモン演じる主人公ジョーです。この映画はAAが協力して作った映画で、AAが考えるところのアルコホリズムという病気の概念や、アルコホーリクの性格が映画の描写に反映されている、と考えることができます。

ジョーは広告会社に勤め、広告マンとして高い理想を持っているのですが、実際の彼の仕事は大口顧客が開くパーティーにコールガールを手配するというポン引きみたいなことだったり、顧客の好みに合わせてまったく的外れの宣伝をやられたりしています。理想とのギャップに悩んだ彼は、上司に相談するのですが、上司は「平気でそういう仕事が出来るヤツもいるのだ」と言って、あっさりジョーを担当替えしてしまいます。傷ついたジョーはますます酒に溺れるようになる。

理想と現実のギャップに悩み、目の前の現実が動かし難いがゆえに、希望を失い、いろいろなことがイヤになってしまう。アルコホーリクの内面にはそんな話が多いように思います。

マット・スカダーも、優秀な警官としての自分に誇りを持っていたわけですが、少女を殺してしまったことの責任は問われず、むしろ犯人射殺を表彰する警察組織に幻滅してしまいます。幻滅するのは警察に対してだけでなく、自分の人生や世の中に対しても希望を失ってしまいます。

奇妙なほどの正義感と、「正しさ」を貫けない現実への苛立ちと幻滅。男性のアルコホーリクの中にはそんな傾向があるのじゃないかと考えています。

12ステップは、私たちが(アルコールに対してだけでなく)動かし難い目の前の現実に対して無力であると教えてくれます。自分の考えた奇妙な「正しさ」なんて貫けなくて当たり前なのです。それでも現実に幻滅せず、むしろ現実から逃げ出さずに向き合って、なお、なるべく心穏やかに生きていく方法を身につけさせてくれます。

「北の大地」の主人公は、動かし難い現実を信念の強さを使って打破していく強いヒーローとして描かれています。コミックらしく、現実には滅多にいない存在を理想として描いています。でも、それは12ステップとはむしろ対極の生き方でしょう。(だって、12ステップは理想ではなく現実ですから)。

12ステップに魅力を感じ、自ら12ステップに引き寄せられてくる人の中には、現実の壁にぶち当たって挫折し、怒り、恨みや哀しみを抱えている人が少なくありません。12ステップの解釈を間違えると、12ステップを「動かし難い現実を変えるための道具」として使い出します。無力を認めたはずなのに、現実を自分の信念に合せて変えるための力を求めるようになってしまいます。一生懸命12ステップに取り組んでいるはずなのに、傍から見ていてなんだか辛そうな人ができあがるのは、そんなカラクリなのではないしょうか。

映画「誘拐の掟」の中の一つのシーンを紹介します。マットが誘拐犯と交渉している中で、人質を無事帰してくれれば見逃してやる、だから犯人は「ロサンゼルスに行って同じ事を続ければ良い」と言い放ちます。マットは元警官ですから、犯人を逃がして良いとは決して思っていないはずです。むしろ犯人を許せないという強い正義感があるはずです。けれど、いま目の前の問題である人質を救出するために、迷いなく「見逃してやる」と言える。(・・もちろん、その通りに話は進まないのですが)。

「清濁併せ呑む」という言葉があります。広辞苑を引けば、「善・悪のわけへだてをせず、来るがままに受け容れること。度量の大きいことにいう」とあります。現実の壁にぶち当たって希望を失う人は、清い水だけ飲みたがっているように見受けられます。汚い水を避けることが善性だと言わんばかりに。

先日マインドフルネスの講座のためにインドから偉いお坊さんがやってきました。僕は忙しくて行けませんでしたが、行った人からカードをもらいました。そのカードには

no mud no lotus

と書かれていました。意味は「美しい蓮の花は泥土から咲く」とありました。汚い泥土がなければ、蓮の花は咲きません。泥を拒んで蓮の花だけ手に入れることは無理なのです。時には自分が悪役を引き受けねばならないときもある。評判を落としたり、誤解に耐えなければならない時もある。自己犠牲の域を超えて、理想から外れなくてはならないときもある。その時に、それを選び取れるようでありたい。

僕はよく回復を登山に例えます。登山道は登山口から山頂へまっすぐ向かってはいません。直登は大変ですから、たいていは、斜面を斜めに進んでいきます。すると山の起伏に沿って、上りへ向かうはずの登山道が、一時下るときもあります。それは、自分の理想とは反対方向に進まざるを得ない局面があるということです。動かし難い現実を、そのまま受け止めるしか方法はないのですから。

そう考えると、マット・スカダーは12ステップの価値観を体現したヒーローと呼べそうです。絶版にならないうちに、マット・スカダーシリーズは買いそろえておかなくちゃ。

12の掟


2015年06月13日(土) AAの回復率、まとめ

4ヶ月近く雑記を放置してしまいました(日々雑記どころか、もはや月々雑記ですらないという・・・)。

前回は「翻訳企画:AAの回復率」と名付けて、3人のAAメンバーによる論文?を翻訳して掲載しました。それが10回連載という長文でしたので、全部に目を通した方は少ないだろうと思います。そこで、今回はポイントになるところだけピックアップして、まとめてみようと思います。

まず始めに、「AAの回復率は5%であり、その数字はAA自身が発表したものだ」という主張について、その誤解の元と、正しい解釈についてです。

その元は、1990年にアメリカのAA内部で発行されたメンバー調査の報告書の中にある図です。



この図は、「AAにやってきて1年以内の人たち」が、現在何ヶ月目であるかという分布図になっています。つまり「AAメンバー1年目」の人を100人集めたとすると、その中に「1ヶ月目の人」が19人、「12ヶ月目の人」が5人いる、ということを示しています。

AAミーティングへの参加を続けることができず、途中で来なくなってしまう人はたくさんいます。この図は、100人をAAに送り込むと、1年後にAAを続けているのは5人だけ・・と言っているのではなく、19人中の5人が残っているということです。ですから、1年後の残存率は(元のデータから計算して)26%というわけです。

さらに、「3ヶ月AAを続けられた人」を分母にすると、そのうち56%が1年後もAAを続けている、という数字も出ています。AAに限らず、3ヶ月何かの行動を続けられた人は、その後もそれを継続できることが多い、それは経験的に知られています。

「90日間AAミーティングに出続けよう」というスローガンは、このデータが裏付けと言えるかも知れませんね。

さて僕は、昨冬にインフルエンザに罹患してしまい「イミビル」という治療薬を処方されました。この薬はインフルエンザ・ウィルスの増殖を抑える薬で、たった1回服用すれば十分なのだそうです。しかし、このような1回だけ服用すれば十分という薬は少なく、多くの薬は効果が出るまで継続して服用する必要があります。全治しない病気の場合には、ずっと薬の服用が必要だったりします。

AAのミーティングも1回参加しただけで来なくなってしまう人はたくさんいます。その人たちは、効果が出るまでAAの「服用」を続けられなかった、と考えることもできます。僕は薬の治験には詳しくありませんが、薬の効果を計るとき、期間の途中で服用を止めてしまった人も分母に入れるものでしょうか・・・。

さて、話を変えて、初期のアメリカのAAでは、「50%の人はAAですぐに酒をやめられ、25%の人は再飲酒があってもやがては酒をやめた」という主張をするAAメンバーがいます(僕も以前この数字を使ったことがあります)。これは実はビッグブックのp.xxv(25)の記述が元になっています。その文章はAAの創始者の一人であるビル・Wが書いたものです。

ビル自身が、AAの回復率は50%+25%=75%だと主張しているわけですが、残念なことにその根拠となるデータは示されていません。先の論文?では、AAの記録をあたって、初期のAAで実際に高い回復率を実現できていたことを調べ上げています。アクロン、ニューヨークに次いで3番目にAAグループが誕生した場所、クリーブランドでは実に93%が酒をやめて再飲酒しなかった・・と『ドクター・ボブと素敵な仲間たち』の中でクラレンス・Sが述べています。

けれど、この高い回復率をそのまま鵜呑みにするわけにはいきません。AAメンバー候補者の酔っ払いは、まず入院して酒を切らねばなりませんでしたが、健康保険制度のない当時のアメリカで入院費を払える飲んだくれは多くありませんでした。そこで、AAのメンバーが保証人となり、本人に代わって入院費を負担しました。(文字通り経済的なスポンサーだったわけです)。そしてその金は、本人の回復後に返してもらうという算段でした。

もしあなたが、保証人を引き受ける立場になったら、どうするでしょう? なるべく、ちゃんと酒をやめて、金を返してくれそうな人を選んで助けようとしたのではないでしょうか。酒をやめる気がなさそうなヤツは放っておいたほうが良い。なぜなら退院後すぐに再飲酒してしまい、結局金を返してもらえない、ということが起こりうるからです。

そんなわけで、事前選択(プリスクリーニング)が行われたことは確かでしょう。選び抜いた人を分母におけば、回復率の数字は高く維持できます。今日のAAでは、そのようなプリスクリーニングは行われていません。参加を希望するアルコホーリックは誰でもAAに参加できます。分母が違えば、回復率の数字も変わるのは当然と言えます。

初期の75%という数字と、現在の(誤解に基づくとは言え)5%という数字を比べると、その違いがあまりにも激しい。その大きな違いのせいで、AAがすっかり「役立たず」になってしまったような残念な気持ちになります。しかし、75%という初期の数字は、強力なプリスクリーニングの結果であることがわかりました。また、現在の5%という数字も誤解に寄るものであることが分りました。

つまり回復率というのは、分母に何を置き、分子に何を置くかで、大きく変わってきます。それを無視して回復率の数字を比較してみても意味はありません。

さて最後に、現在のAAはどれほど有用なのでしょうか。

AAによるメンバー調査は、メンバーシップのプロフィールを明らかにするためのもので、回復率を計るためのものではありません。しかし、参考になるデータはあります。先に示したように、

・4ヶ月目にもAAミーティングへの出席を続けている人たちは、その56%が1年経過した後にも出席を続けている。

3ヶ月間AAに出続けた人は、その半数以上が1年後もAAに残っている、というわけです。1年後にAAに残った人が酒をやめているか、飲み続けているかはデータから読み取ることはできません。けれど、「AAミーティングに出続ける人たちは、やがて酒をやめていく(いつまでも飲み続けながらAAに通う人は滅多にいない)」ということを、私たちには経験的に知っています。

そうしたことを踏まえると、「AAに3ヶ月間出席を続けた人の、およそ半数は、1年後にAAで酒をやめている」という予想を立てたとしても、それほど現実から離れていないでしょう。そう考えると、AAは強力な回復ツールに思えてきませんか?

まあ、ダイエットであれ、トレーニングであれ、勉強であれ、何であれ3ヶ月間続けるのが難しいのは確かですけれど・・・。

前回取り上げた、AAメンバー3人による論文?は、こちらに掲載してあります。

アルコホーリクス・アノニマス(AA)の回復率
〜現代における神話と誤解〜
http://wiki.ieji.org/doc:aa_recovery_outcome_rates


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