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委員長の日記 DiaryINDEX|past
<命を育むということ> 子猫殺しの理由として、坂東氏は避妊手術の決心がつかないことを挙げた。盛りのついた時に性交し、出産することが雌猫の「生」だとし「その本質的な『生』を人間の都合で奪いとっていいものだろうか」と説明。猫に避妊手術をすることと、子猫殺しをすることを「どっちがいいとか悪いとか、いえるものではない」とし、最後に「私は自分の育ててきた猫の『生』の充実を選び、社会に対する責任として子殺しを選択した」と述べている。 (2006年8月24日 日刊スポーツ) 私は、この記事を読んで愕然とし、彼女のコラムを調べて、より具体的な内容を調べてみた。 その中で彼女は、様々な理由を述べて、自分の行動を説明しようとしている。 全文を掲載することは、著作権上問題があるかと思われるので、知りたい方は、ご自分で読まれたら良いと思うが、以下はその文章の一部で、私が一番ひっかかった部分である 避妊手術を、まず考えた。しかし、どうも決心がつかない。獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。その本質的な生を、人間の都合で奪いとっていいものだろうか。・・・ 彼女の論理によれば、雌猫の生の充実とは、本能のままに盛りのついたときにセックスをして子どもを産み落とすことであって、その後の子育ては生の充実にはならないということになる。 私に言わせれば、明らかに詭弁だと思うのだが、彼女に対する批判が殺到している反面、彼女の言動を擁護する意見もあるという。 しかし、彼女の考え方は、仔猫だけにとどまるのだろうか… 彼女の説を置き換えて言うと、人間の生の充実とは、自分自身の欲求のままに、男女が結びつき、子どもを産み落とすということも認めるということになりはしないか? もっといえば、その結果生まれた子どもを育てることは、自分自身の生の充実にとっては邪魔な存在なので必要はないということになるのではないか? 以前、ある保育園の先生とお話をしたときに、夕方、子どもを迎えに来る若いお母さんが、スーパーの買い物袋に一杯お菓子を詰め込んで、聞くと、それが今晩の夕飯だと言うんですよ。と言われて、愕然としたことがある。 もちろん、それが一人や二人ではないのだということだった。 私自身も、買い忘れたものに気付いて、夜中にコンビニなどに行ったときに、乳幼児を連れて菓子パンなどを買っている若い家族連れを良く見かける。 少し前に、カラオケ店でバイトをしていたうちの息子が、「夜中に、小さい子どもを連れてガンガン歌ってる若い母親のグループとかがいるんよ・・・信じられん!」と憤慨していたこともある。 それらの母親達にとっての、生の充実とは何なのだろう? 言うまでも無く、すべての子ども達にとって、自分自身の生を守ってくれる存在は、本来は保護者であるべき親以外にはいないはずだ。 たとえ、どんな親でも、その子どもにとってはかけがえの無い存在で、自分自身の命を委ねて頼ることしか出来ない。 だからこそ、虐待を受けている子ども達のほとんどが、そのことを他の大人に訴えることが出来ずにいるのだ。 そのような子ども達を守るにはどうすれば良いのか… ●我が家のアイドル 話題は変わるが、今、我が家には可愛いアイドルがいる。 先月の中旬、夜中に友達とドライブをしていた長男が、トラックがビュンビュン走る国道を横切る小さな影に気付き、車をとめて30分以上探して、小さな仔猫を見つけて、連れて帰ってきたのだ。 片手のひらの上に乗るくらいの、生後1〜2週間と思われるその仔猫は、泣き続けたせいか、声も枯れ、身体はあばら骨が見えるほど痩せ細っていた。 我が家にはすでに昨年、次男坊が大学のキャンパスで拾って、内緒でマンションで育てていた猫を引き取っていたので、もう1匹飼うのは難しいかな・・と思っていたのだが、そのあまりにも悲惨な姿に、家族一同迷うことなく引き取ることになった。 しかし、問題は、先住のもう一匹の猫。 彼は、仔猫がくるまでは我が家のアイドルで、家族一同から甘やかされて育っているので、人一倍(いや・・猫一倍かな?)甘えん坊で、わがままで、なおかつ臆病ときている。 案の定、自分の10分の1ほどの大きさしかないチビ猫を見ると、チビのほうは、親猫だと思ったのか、大喜びで駆け寄っていくのだが、先住の猫のほうは、怖がって飛んで逃げてしまう。 怒って、噛み付いたりしないだけましなのだが、どうにかして仲良くなってくれないかな…と、家族みんなで説得工作が始まった。 猫に人間の言葉なんか通じない!と言われる方もいらっしゃるかもしれないが、私の経験上、猫には人間の言葉を理解する能力が必ずあると思う。 家族みんなで、先住の猫に「怖くないでしょ?可愛いでしょ?あなたはお兄ちゃんなんだから、仲良くしてあげてね!」と、数日間語り続けた。 すると・・最初はあれほど嫌がっていたのに、少しずつ側に来ても嫌がらなくなり、数日で二匹でじゃれあうようになったのです。 もちろん、仔猫とお兄ちゃん猫は身体の大きさも何倍も違うので、お兄ちゃんのほうが本気でひっかいたり、噛み付いたら、あっというまに仔猫は大怪我をしてしまいます。 仔猫のほうは、全然おかまいなしで、思い切り飛びついたり、爪も目一杯出して引っかいたり、噛み付いたりするのですが、お兄ちゃんのほうは、くんずほぐれつしながらも、決して爪を出しません。 もちろん、餌の取り合いもありません。 これも、本能なのでしょうか? 自分自身の楽しみのために、我が子を省みない人間の親達。 突然目の前に現れた見も知らない仔猫の面倒を見ているお兄ちゃん猫。 私の目には、お兄ちゃん猫のほうがよほど人間らしく映るのです。 かくして、我が家の新しいアイドルは、あっというまに丸々と太り、毎日家の中をお兄ちゃんと駆け回り、遊びつかれたら、家族の誰彼と無く膝の上に乗って、すやすや眠っています。 そうです、仔猫は、お兄ちゃんの庇護のもと、彼の生をしっかり充実させているのです。 猫に出来ることが、どうして人間にできないのかなぁ・・・・ ●結論は出ない 私たちは、これまでも、子ども達が安心して育っていけるようにと言う願いをもって、CAP(子どもの虐待防止プログラム)や、様々な子育て講演会、「抱っこ法」などの取り組みを実施してきた。 その取り組みの一つ一つは、確実に反響もあり、参加された方々からは、必ずと言って良いほど感謝の言葉を寄せていただいている。 そのような企画に参加してくるお母さん達は、そのほとんどが自分の子育てに悩み、あるいは、より良い子育てを求め、我が子の生の充実を望んでいる人だと思う。 そして、私たちの企画に参加し、活動の意味を理解してくれた人たちが、少しずつではあるが、会員として入会し、活動に参加しようとしてくれている。 そのことは、私たちの活動の成果でもあり、今後も、活動を継続していくための自信にも繋がっている。 でも、私たちが本当に伝えたいことが、本当に伝えたい人達に伝わっているのだろうか? これまでも、NPO法人として、事業を進めていくうえで、その活動のクライアント(対象者)を明確にしていくことが必要だということは折に触れて説明してきた。 「すべての子ども達を・・・」とミッションに謳うのであれば、私たちのやるべきことはまだまだあるのではないだろうか? いまどきの若い人たちは…と、批判することは誰にでもできる あの人たちは、私たちと価値観が違うのよ…と切り捨てることも簡単だ でも、その後ろにいる子ども達には何の違いも無いはずだ。 どの子にも、安心して安全に自由に生きる権利があるのだから。 同じ価値観を共有している人たちだけが集まって活動を行うのなら、ただの仲良しグループの延長に過ぎない。 かといって、私たちの活動に初めから全く興味も関心も示さない人たちを無理やり参加させることもできない。 どうしたら良いのだろうか? 今の私には、その答えは出せない。 しかし、だからと言ってあきらめるわけにはいかない。 その答えを一緒に活動しているスタッフと 探していくことしかできない。 でも、今の私たちに出来ることは、やはり日々の活動の中で出会う人たちに、語り続けていくことしかないのだと思う。 そして、私たちが心をこめて語ることによって、その思いを次の世代の人達がまた、他の誰かに語っていってくれることを願うしかないのだろう。 そして、粘り強く、活動を継続し、たくさんの人たちに出会うチャンスを作っていくことしかないのだと思う。 今年度予定している企画の一つに、『らくだの涙』という映画の上映会がある。 この映画は、脚本のあるドキュメンタリーという不思議な映画なのだが。 モンゴルの平原の遊牧民が育てているらくだが子どもを産み落とし。 しかし、そのお産がとても難産だったために、母親のらくだが、自分をこんなに苦しめたのは子らくだのせいだ・・・と、育児を放棄してしまう。 授乳はもちろん、一切の世話をしない。子らくだが側にきたら怒って蹴る。 子らくだは、日に日に弱っていく。 そこで、遊牧民の家族は、昔からの伝統的な方法で解決しようとする。 それは、母らくだに馬頭琴の演奏と、歌を聞かせるというものなのだが。 映画の終盤で、飼い主の遊牧民の母親が歌を歌い始めたと単に、私の目から何故か涙があふれてきた…と、画面に大きくアップになった母親らくだの目からも大粒の涙がまさに溢れ出たのだ。 らくだが泣き始めたのを見た、遊牧民達は「これでもう大丈夫だ…」とその場を離れていく。 すると、それまであんなに嫌がっていた母親らくだが子らくだに乳を飲ませ始めたのだ。 ラストシーンのらくだの親子のシルエットを見ながら、私は涙が止まらなかった。 映画自体は、遊牧民の日常を淡々と描き、バックに流れる音楽も全く無い、聞こえてくるのはモンゴルの平原を吹く風の音と、動物の鳴き声だけ…本当に静かな、地味な映画なのだ。 しかし、この映画に、私は私たちの活動の原点があるような気がする。 遊牧民達は、決して母らくだを責めない。 ひたすら、彼女の心の傷を癒そうとする。 そう、我が子を虐待しているお母さんも、可愛いと思えない…と悩んでいるお母さんも、きっと彼女達の心を癒す方法があるはずだ。 その方法を探し続けていくことが、答えを見つける唯一の道なのかもしれないな。
委員長
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