メール|
Twitter

運命に導かれるという言葉が使われること、ありますが
運命って自分で変えることができると思うか、運命は自分ではどうにもならないことと思うか。人が歩んだ人生によって、その捉え方って変わってくると想います。
人は、誰しも、運命の人というのがいる。
出会っているか、出会っていないかの差だけのような気がするのです。
出会うためには、自分次第ともいえるかもしれません。
この人が好き、自分にとっての運命の人に違いないと想い、すごく頑張っても、気持ち伝えて、努力しても、相手が運命の人にならなかったとしたら、その時点で、運命の人ではなかったということに結果論としてなってしまう。そう、絶対的なもの。
運命の人との出会いというのは、自分が自分らしく、まっとうに生きていくなかで、自然に導かれていくもののように思えます。運命の人というのは、どんなことがあっても、離れることがない強いなにかしらの目に見えない結びつきがあるんでしょうから。
1日おつかれさまでした。
朝晩はめっきり空気が冷たくなりましたね。体調崩さないように、みなさん気をつけてください。きょうの夕景もそうだけれど、秋の空にだんだんシフトしているのがよーくわかります。
きょうも、ありがとうございました。
あしたも、よき1日になりますように
メール|
Twitter
みなさん、こんばんわ。
どんな1日でしたか?残暑厳しいというのは、きょうみたいな日を言うのでしょうね。
僕はゆっくり1日お休みとなる日が当分ないのですが、家に帰って、時間が出来たら、部屋の片付けをよくしてしまいます。
きょうは、積み上げられたMDの整理。MDボックスを手に入れたので、それに並べて整理しました。部屋には、書棚に入りきらない資料と本が積まれている。これがある一定の高さになったら、整理に着手する決まりとなってるんです。再び、図書館に寄付する本がたくさん出てきそうだわ。とにかく、物を極限まで捨てなくちゃ。部屋をシンプルに・・・私の大命題です。
県内の学校の児童・生徒が自ら編集した「学校紹介」の記事・・・
そんな全面の記事が、毎週、新聞に連載されています。
きのうかおとついの、その記事に、僕の母校の小学校が載っていたので、興味深く読ませてもらったのですが・・・
びっくりしたことがひとつ。
児童数が「180人?!」
えっ、そんなに児童がいないの??
僕が通っていたときは、500〜600人はいたもの。
生徒が増え過ぎたということで、校舎が増築されたくらいだから。
それが、いまは、当時の3分の1以下になっちゃったんですねぇ。
おそらく、1学年1クラスってことでしょう。(僕らのときは、3クラスある学年がほとんどだった)
僕が通っていたころは、学区内を7つの区に分けて、それぞれに子ども会が存在して、いろんな季節の行事も行われて、本当に活発だった。夏には七夕まつり、海水浴、春はお花見遠足、冬はクリスマス会。それを7つの区が独自に行ってた。
それぞれの区には、男子は「ソフトボール」女子は「バスケット」のチームがあって、ほぼ全員(4年生から)が強制参加だった。
年に1度の大会で、その7区参加して対戦した。もちろん、区ごとにカラフルなユニフォームがきちんとあって、それに身を包んで、優勝目指して戦ってたもの。僕も、毎週、ナイターで練習してました。6年生のときに、準優勝!ちなみに当時、私はレギュラーでキャッチャー。優勝したチームは、たしか町内の大会(町内4つの小学校の優勝チームが集まって)に進んでいった。
いまは、こういう大会もないんだろうな。
そもそも「区」も、成り立たなくなってるはずだから。
と、いうのも、この小学校の多くの児童が、いろんな種類の公務員の官舎や、ガス会社の工場の社宅に住む子供だった。でも、ここ10年の間に、その公務員のほとんどの官舎、ガス会社の社宅も、町外に移転してしまって、住人がいなくなってしまったのです。
きっと、そういう理由がとても大きいのでしょう。
単なる少子化だけじゃなくて。
だから、現在は、だーれも住人がいないっていう状態の区が4つも出来てしまった。(移転した官舎や社宅の跡は、空き地のままだったり、バイパスの高架の用地になったりのため、住人がいなくなった)残り3つの区だけじゃ、ソフトの大会も開けないし。
この小学校は街の中心部〜臨海工場地帯にある。
だから、田舎のように、街の過疎化が進んでいるっていうのではない。
だけれど、こうしたところでも、児童が減ってしまうことってあるんですね・・・
僕がこの小学校に通っていたときが、一番にぎやかで、いい時代だったのかもしれませんね。
メール|
Twitter



こんばんわ!
きょうも1日おつかれさまでした。
夕暮れ時、帰宅して、すぐ、となり街まで出かけた。
ちょっとしたお買物(こまごましたものを)
このショッピングセンターってね、広い駐車場の周りにグルッと、家電量販店、温泉、ツタヤ、ライトオンとかユニクロ、たくさんの飲食店、道路挟んで大きなホームセンター・・・この街は、ウォーキングの町を目指しているだけあって、この付近もきちんとしたウォーキングコースとして整備されている。


イルミネーションもピカピカ。
たくさんの人たちが、想い想い、買物を楽しんでいる。
私も、あちこち覗いてみて、ショッピング。けっこう時間がかかってしまった。家電量販店と、ツタヤと、ホームセンターだけ寄ったのだけれどな。いつもは、都心のネオンや灯りを見慣れているから、
こうした、のんびりした空気で、ほどよい灯りが点在しているのって、ちょっぴり落ち着くし、ちょっぴり寂しさも感じる。秋の訪れだからこその寂しさかもしれないけれど。
秋の寂しさか・・・日が暮れるのが早くなればなるほど
せつなくなってしまう。
時計を見て、「まだこんな時間なのに・・・」って
だいぶ、日が落ちると涼しくなってきました・・・
もう少し涼しくなったら、またカメラもって、ひとりどこか出かけてみよう
メール|
Twitter
こころが「楽しい」を忘れていませんか?/やさしい地元散歩
|



最近ね、仕事とか、身近にやらなくちゃならないこととかわんさかあって、
どうも、日常的に、自分が「好き」と思えることを、していないって部分が多々あって。
ほら、この日記にしても、写真を載せてる日記が少なめでしょ?
写真を、また「楽しく」撮りたいなって、思えるようになって。
いつも、「記録的」な写真だけしか撮っていないから。
記録的じゃない写真・・・
花、空、部屋の片隅、会社付近の街のスナップ、
スイーツ、美しい夜景、ポートレート、雑貨、光と影、
ラテアート、色が鮮やかな光景、しゃぼん玉
そして・・・セルフポートレート。
こころが詰め込みすぎなときは、
「カメラ日和」のようなカメラ雑誌をパラパラめくって、そのやさしい写真を撮るというこころを忘れてないか、確認するようにしている。
写真って、その時その時の、撮る人の内面の状況が、色濃く作品として写しだされる、すごい道具だと想います。余裕のないときの写真は、やっぱり余裕のない写真になっているもの。
それといっしょで、
最近、音楽を聴いていないな・・・って。
大好きなアーティストのニューアルバムが出てるのに、いまだ聞けてないことに気がつく。ゆっくり部屋のオーディオで、音楽を聴いてない。聴くのは車の中くらい。
新しいカフェとか、雑貨店とか、イベントとかとか
そういうの、タウン情報誌などで、チェックして、資料を集めて、出かけるってことも、最近久しくなかったなぁ。と想い、タウン情報誌を買ってみると、まぁ、こんなにいろんなカフェが出来てるんだとか、このカフェがこう変わったのだとか、あぁ、こういうイベントしてたんだぁとか、つくづく想わされるものです。
何もかもわすれて、「楽しい」と思えることを、忘れているのはよくない。
最近の、この日記の文体にも、いまの自分の状態が、顕著に現れるだろうと想います。僕が日常、人と接していて、会話していても、相手はなにか感じ取るだろうと想うんです。
人間、「遊び」の部分を持っておかないと、ギスギスキシんでしまいます。
「潤滑油」を差してあげないと、歯車もスムーズに回らない。
もうちょっと、こころから笑ったり、夢中になったり、感性趣くまま、行動してみたりしなくちゃいかんな・・・なんて反省しています。(まぁ、夏の暑さで、気力が失われてたのもあるんだけれどね。秋になったら、夏の何倍も行動的になるんですが)
なにより「人は人を癒す」と想うので、
気心しれてる、たくさんの友達と、また逢ったりできることは、
これから楽しみにしていきたい。
きょうは、土曜日ということで、めずらしく土曜らしく仕事も早めに終えて、夕暮れ時、地元を散策してみた。閉館前の図書館で、本を3冊ほど借りて(もう閉まる寸前までいました。20分程度じゃ、すべての書棚をチェックできない)とりあえず、いつもよむ雑誌のバックナンバーと小説と、写真の本をゲット。
九十九橋からの瀬野川の夕景は、好きな景色の一つ。
いつも見慣れすぎて、気にもとめない瀬野川を、すごく意識する瞬間。

地元のスーパー(サティ)で、おなじみのソフトクリームをいただいた。
この大きさで105円。もう、小学生のころから、同じおじさんが、クレープを焼いたりしている。変わらない味。夏は、ふとここの「ミックス」ソフトクリームが食べたくなってしまうんです。ごちそうさま
今週も、みなさんおつかれさまでした
いい週末を過ごしてくださいね。
あしたも、よい1日になりますように・・・
きょうも、ありがとうございました。
メール|
Twitter
人は、ひとりじゃ生きられない。
その大前提を、日々、忘れがちになることもあったりしますが・・・
僕の周りでかかわりのある人で、とくに女性に関しては、
「わたしはひとりがいい」
というタイプの方が非常に多い。
人に干渉されるのはいやで、人付き合いも上手じゃなく、
自分ひとりの時間を大切にして、好きな趣味とかをやって
逆に、人、特に異性に関しては、第一印象で「ダメだ」と想ったら、まったくだめで。深く付き合うことを避けて、人に興味を持ったりすることを、避けているというか。冷めているというか。周りへの配慮がなくって、わが道をいくみたいな。
俗に言う、「協調性がない」といえるかもしれないし。
合わない人と付き合うのはごめん、一人でいる時間、本当に気が合う限られた人だけいればいいというか。
それはその人の考え方だから、いいと想います。
たた、そういう人は、往々にして、自分に合わないと想った人をけっこう批判したりしがちではある。もうちょっと理解しようとすればいいのに、はなしてみればいいのに・・・人に対して興味持てばいいのに・・・って思えるときもある。そういう人に対してね。
僕は、別に特別な社交性を持って、たくさん友達を作れ!みたいなこと、いうのは好きじゃない。
ただ、きっと、人には、人との接し方、関わり方の最低限のルールってあると想うんです。
たとえばね、僕に彼女がいたとしてね、
その彼女を、僕の友達や仲間たちに紹介するとするでしょ?
そんなとき、ちゃんとその中に入っていって、ひとりひとり、みんなと仲良くできるか、できなくてもね、最低限なルールというか、最低限、好意的に接していけるか・・・それってすごーく気になるんですよ。やっぱり自分の彼女は、僕の友達みんなと仲良くなってほしいし。
合わないからって、まったくしゃべらないとか、挨拶しないとかって、寂しい。
そういうのが気になってしまうと、「これからこの人と付き合っていって、ダイジョウブなんだろうか?」不安になると想うんです。
最低限の「接し方」「関わり方」ってあると想って。
僕が逆にね、本当に相手のことを好きな彼女がいたら、その彼女の友達とも、フランクに接していきたいものですし。
最低限の社交性は持っておきたいなって。
ひとりがいい、ひとりが楽だからって、
周りへの配慮を欠く接し方ってやっぱりよくないですよね!
愛嬌っていうか、老若男女、みんな「かわいさ」はもっていないと、味気ないですから。
メール|
Twitter
ルビコンの決断(女優の木村佳乃さんと、テレ東の大浜さんがキャスターをしている、テレ東の経済ドキュメント番組・NHKでかつて放送してた「プロジェクトX」に似ている)を見ていて・・・
ポカリスエットがきょうのテーマでした。
開発のドラマを描いていたのだが。
当初、苦労の末開発された、まったく新しい飲料(スポーツドリンク)なかなか消費者には浸透しなかった。とにかく「まずい」。商店には置いてもらえず、街頭で1杯100円で試飲会を行っても、人々は「こんなもの飲ませやがって」と、怒られ、返金求められるし、果てにポカリを大塚の社員にぶっかけてしまう人もでてくるは・・・まったく売れない。
しかし、大塚のトップは、ある大きな決断をする。
無制限で、無料サンプリングするというもの。
我々はポカリスエットに自信をもっている。だから、どんなに赤字が出ようと、まず飲んでもらって知ってもらうこと。
「いまの利益ではなく、将来だ」
そう、言い放って、大塚の社員に、とにかくサンプリングさせる決断をした。
すると、暑い街頭でのどがからからに乾いている人、少年野球、サウナ風呂の客・・・そうした人から「おいしい」と感想が・・・そこからどんどん広まっていく。それでも、無料サンプリングはやめず、その金額はなんと40億円に・・・
でも、地道な努力の末、口コミから、買い求める人が殺到、商店から発注も増えていく。ずばり、トップの決断が正しかった。90億円だったポカリの売り上げが、翌年には260億円に。7年目には、1000億円。スポーツドリンクという画期的な飲料の礎を築いた。
現在でも、世界16カ国で売られ、いまだに「もっとポカリスエットのよさを知ってもらいたい」と、無料サンプリングも続けられている。インドネシアでは、ラマダンの後にサンプリングすることで、ポカリが広まったそうです。
そういう内容でしたが、なかなか興味深かった。
企業のトップは、いまの利益だけでなく、将来を見据える先見性が必要で、ときにそれを基にした大きな決断をしなくてはいけない。トップってその力量の差って大きいのでしょう。
ところでね、
私、ポカリスエットを生まれて初めて飲んだときのこと、よーく覚えている。まさに、ポカリがまったく売れていない時代、でも、CMがとても印象的で、なんだか近未来の、SF映画の世界の飲み物・・・宇宙食のようなイメージで。とても飲んでみたくなったので、親にお願いして買ってきてもらった。(その後、おなじ大塚から発売されたカロリーメイトも、おなじイメージでした。大塚ってボンカレーのような庶民的なものと対照的な未来的・科学的なものと両極端ですよね)
いままで、カルピスとか、ファンタとか、プラッシーくらいしか飲んだことない少年にとって、ポカリスエットの味は・・・やっぱりまずかった(笑)親や友達に「レモンの絞り汁」って評してたのを覚えてる。250ミリリットルの缶、すべて飲めなかったもの。
でも、その後、ソフトボールのチームに入ったりして、やはりスポーツドリンクを飲む機会が増えて、だいぶその味に慣れてきた・・・というか、ポカリスエットって、運動の後とかで、のどがからからのときじゃないと、美味しさってわからないでしょうね。
昔は、ポカリスエットの粉末タイプを買って、ボトルに溶かしてた。妙に、そちらのほうが味が濃くて、好きだったけれどね。いまは、まったく作ることないけれど
中学の時の英語の先生が
「ポカリスエット」は、「豚の汗」という意味になるから、海外では絶対その言葉を使わないように」と授業中釘を刺していたなぁ。そういえば。