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2004年08月21日(土) 武士道と騎士道



 映画「アーサー王」を見た。こういう英雄譚は昔から好きでよく見ている。
アメリカの西部劇など、小さい頃からよく見ていて、大人になってから、過去いろいろ見た西部劇がかなり史実に忠実で、悪漢、主人公も実在したと知ってびっくりしたことがあった。
 今回見た「アーサー王」はちょっと変わっていた。ありゃ、「七人の侍」です。
その「七人の侍」の監督 黒沢明は日本映画の代表視されてるが、黒沢映画はハリウッドスタイルの日本映画である。特に*ジョンフォードに影響を受けている。

 アーサー王と言えば「聖剣伝説(エクスカリバー)」と「トリスタンとイゾルデ」が話を膨らませ面白くする。ところがエクスカリバーもトリスタンとイゾルデの恋愛話もなし。期待していたエクスカリバーのシーンなんて、火事場の泥棒野郎見たいにささっと持ってってしまう。
 ローマがヨーロッパを席巻していた頃。今のイギリスも支配下にあった。帝国の運命でその力は徐々に弱まり、イギリスからも撤退をはじめる。撤退時のローマ人達を守り送り届ける仕事をアーサー達が引受ける…。詳しい物語は映画で見てもらうとして、で、アーサーを慕う円卓の騎士達、映画で見ると日本の武士と重なるが、実の所は、これはもう天と地ほどちがう。長々と違いを書き連ねるより一つの事でまったく異な物だと分かる、当時当たり前にあった挿話がある。

 ある日の午後、野試合があった。日本ならば粛々と事が進み、一つの統制された下、試合が進んでいく事はまちがいない。
では、西洋の騎士達はどうしたか。戦って負けた相手から馬、甲冑、金品を奪い取って自分の物にする。剛胆な騎士は、戦利品を金に換えるための計算をさせるため、僧侶を雇って供としたりした。殺し合いが目的ではなかったが、死傷者は出る。野試合の後は負傷者が血まみれで呻いている、死骸は放ったらかしであった。*2本当の所は、趣味と実益を兼ねた悲惨な遊びの延長でしかなかったようだ。

 円卓の騎士の一人トリスタン、ダンテの新曲にも出てくる、南フランスペリゴールの城主で騎士だったベルトラン・ド・ボルンという人も今に名を残しているが、ともに、トリスタンは、恋愛譚で、ベルトランは、文学に「吟遊詩人(トルバドール)」で名を残したからである。「騎士道」の士としてではなかった。
 
12世紀頃、「騎士道」としての儀式の肝心は、先輩騎士による「峰打ち」だった。その他、司祭の祝福、武具の通夜などあったようだか、「道」と呼べるような思想的のものはなかった。


*ジョンフォード
「西部劇の神様」職業:製作者、監督、俳優、脚本家、撮影監督、美術監督、編集者、スタントマン
代表作:『駅馬車』(39)『怒りの葡萄』(40) 他
太平洋戦線(海軍少佐)やヨーロッパ戦線で戦争ドキュメンタリー映画製作。ミッドウェイでは零(れい)戦の空爆を撮影中に負傷、野戦撮影班を率いて撮影したドキュメンタリー『ミッドウェイ海戦』(42)と『真珠湾攻撃』(43)はアカデミー短編ドキュメンタリー賞。戦後、戦争での敗者の美学を描いた『コレヒドール戦記』(45)、OK牧場の決闘を描いた『荒野の決闘』(46)を発表

*2「フランス中世史夜話」渡邊昌美











2004年07月27日(火) 萬麩食(まんぶく)



 先の日曜、京料理屋の主人の誘いで、お麩屋(麩屋町にはなぜかない)でやるという「水の會(「お」はつきません。)」というのに夕刻行ってきた。この會は、京都の有名な料理屋・老舗Bar・麩屋などが集まり開いている。
 
 麩屋(ふうや)は、屋号「麩嫁(ふうか、-仮名-」といい。府庁前畔にあって典型的な京町屋の佇まいである。ここの家前の15~6畳ほどの駐車場と、家の左右の空間を利用して、右側には子達のために金魚すくいが、左隣には、美山からの蕎麦の屋台、駐車場には、焼き鳥屋、お好み焼きでもちぢみでもない上等なクレープに似た具沢山焼き物。焼そば、肉の串焼きなどが出されている。
 
 家の中は玄関奥、厨房 工場 居間、すべて解放されて、好きなところを見つけて、落ち着き、調達してきた食べ物と一緒に、酒屋にあるような大きなガラス張りの冷蔵庫ふたつにある、ビール・酒・ワイン・焼酎・他を勝手に好きなだけ飲んでもいい。最奥は特設立ち飲みバーが開かれ。まるで小村祭だった。
 
 この食べ物を全て一流の料理屋の主人、店の板前が真剣に作っている。屋台の横には、「寸志」の箱があった。しかしこれは今回の會の主旨「ドイツ・トーデンドルフのシュロス(城)・ミツコに日本庭園を作る」のための寄付とされる。
 
 一流が作ると、似たようなものでも祇園祭にでる屋台の、茶髪の兄ちゃん姉ちゃんのつくるものとは違う。
 笹でくるんだ、こぶでしめた白身魚の寿司は、あまりの美味さにうなってしまった。大皿にてんこ盛りのてんぶら(薩摩揚げ)の中に入っていた、ごんぼのかりっとした歯触りにもうなった。美味い!!
お麩をからっと油であげた突き出しもてんこ盛り、俵の赤飯、お稲荷さん。京壬生菜をちらし、梅酢であえた田舎蕎麦。
 
 日本庭園を作ろうとしているのは、今日都外国語大学(きょうとがいこくごだいがく-仮名-)の、京都在住40年だかの独逸人教師(齢70超)で、画家でもある人。名前を裸出露麩(ラデロフ--仮名-)という。
 
 お腹一杯になる頃、競売(オークション、各人持ち寄りのもの)がはじまった。売り上げはすべて日本庭園造園のために寄付される。漫画「釣りバカ日誌」の北見けんいちさん、俳優のタク(TVによく出るらしいけれど見ないから知らない。  注* 渡る世間は鬼ばかりに出ている人で角野卓造と言う人だそうです)さん、陶芸家の辻村史郎さんもオークションに参加、出品していた。
 北見さんは骨董級の二眼のローライフレックスを出品していた。面白いもの、版画、絵画、肉筆チベット密教の曼陀羅画。銅の手打ち鍋、ワイン、鞄 などが出て、人気のないものには宝くじ10枚がつけられた。
 
 音頭をとって、ハンマーを振るったのは、大徳寺真珠庵のなまぐ、ぢゃなかった住職で、ユーモアがあり、和気あいあいの内に終了した。都合全部で100万円になった。
 
 一つ気になった事、アロハを来ている人が目立った。北見さん、タクさん、他、たん譚、全部同じ銘柄、波波寿(ぱぱす-仮名-)だった。おっさんの趣味は一緒らしい(そこいらの、同じブランドもの持って喜んでいるおねえちゃんと基本的に変わらん)。
 こういう集いにさりげなく*越後上布の薄物で現れたら、これ以上の伊達ぶり(ダンディズム)はないと思う。ま、これは夢物語だが。
*小千谷縮でなら出来そうだ。
 
 
*越後上布(重要無形文化財) …苧麻(ちょま)の茎の皮を剥ぎ、晒して、幾行程をへ、一本の繊維にして、さらに手で一本一本つないで糸にする。約1000万円(仕立代別)
小千谷縮 …新潟小千谷市で生産 しぼ'(皺状の凸凹)のある麻織物 高級スーツ一着分で買える。

 
 
 









2004年07月24日(土) この数日



宵山の室町、*役行者山(えんのぎょうじゃ山)、を祭り公開している民家の奥深く、二つの蔵の後ろにそびえる無機質なマンションビル。京都を皆が持っているイメージ通り、これからも観光の都で売りたいなら、これではだめだろう。
外国コンプレックスのない、環境設計家が出ないとだめた。

昨日夕刻、庭で 日暮しが鳴いた。紫式部が小さな可憐な実をつけ、山ごぼうも花が咲いた。蝉は朝四時半頃に判で押したように鳴き始める。

部屋の中では、四季に全く関係のない、コンピュータの内部をいじる作業が続いている。ファンがない上に、新しいハードディスクに交換してから起動しているのが分からないくらい静かになった。深夜三時、柱時計のカチコチの音の方が大きく聞こえるくらい静かだ。


*役行者 えんのぎょうじゃ 生没年不詳。7世紀末から8世紀初めに実在した、修験道の祖とされる呪術(じゅじゅつ)師。役氏の出身で、名は小角(おづの、おづぬ)役君(えのきみ)などとも呼ばれ,後に修験道の開祖として尊崇される。多くの奇跡をおこしたとつたえられるため、架空の人物とする人もあるが、平安初期の「続日本紀」の記事に流罪になったとあることから実在した人物と考えられている。









2004年07月17日(土)



 2週間くらい前に、フードプロセッサの鋭い刃で、小指を切った。
去年だったか、大型のカッターナイフで段ボール箱を解体している時、勢いあまって、刃が折れて段ボールに突刺さったその上に、カッターを握っていた手の親指が激突した。血がどくどく出てとまらない。タクシーを呼んで救急病院に行った。
8針縫った。見ていてこれは局所麻酔なんてかけなくとも、我慢すれば自宅で自分で縫えるとその時思った。

 小指は、つめ下から、第二間接近くまでぱっくりと口が開いて、5~6針縫えばふさがる位の傷のように思えた。傷を縫う針はクエスチョンマークの「?」の点を取った部分、もしくは洋服ハンガーのかける部分のような特殊な形をしている。 自分で縫ってみたかったが、家にはそんな針は置いてない。

そこで、まず、横になって小指の両側をつまんだ状態で、上に伸ばして、5.6分小刻みに中風のように震わせ、出血をある程度止める。そうしておいて、70%アルコールで消毒して、バンドエイドでパックリ開いた傷口を閉じるように巻き付け、包帯で補強した。

 自分でやったら変な痕が残るかも知れないと思ったが、かまわずほっておいた。でどうなったか。まだ現在皮膚が完全には出来てないようで、ちょっとものに触れると飛び上がるが、なんと、病院で8針だかぬった縫い痕は、いまだに痛々しく親指の先から根元まではっきり痕跡があるが、小指の方は、パックリ割れていた所さえ分からない。

 10針くらいなら、わざわざ縫う事はないかも知れない。その方が傷跡がめだたない。もっとも、変な折れ方した刃で切ったのと、鋭利な刃で切ったのとは違うかも知れないが‥。

 次回は麻酔なしで、自分で縫ってみたいと思う。









2004年07月12日(月) サマワ自衛隊宿営地へのデモから見えてくるもの



 サマワ住民約七十人の自衛隊宿営地へのデモがあったと言う。左翼系の新聞ならそれ見た事かと書立てそうだが、しんとして書かない。それも道理、デモ隊は日の丸の旗を振り「サマワ市民と自衛隊で安全な街を再建しよう」と書かれた垂れ幕を掲げて、おまけに、佐藤隊長に花束まで贈った。
 
 この様子を米CNNが五月六日に放映した。デモの直前まで、宿営地周辺では迫撃砲弾が相次いで撃ち込まれていた。なんでイラク市民が、自衛隊を守ろうとするのか。米軍が反応して、陸上幕僚監部などに問い合わせしたらしい。そこにひげの佐藤正久一佐(四三)がいたからと言う事になったが、多分なぜなのか西洋人には分からない。
 
 有力部族長が出した布告「日本軍を攻撃したら一族郎党を征伐する」
ここまで言ってくれるのはなぜだろうか。向こうではひげを蓄えている事が、大人の男としての証である。ひげならアメリカ人もたくわえているのもいるだろう。日本は何でも金で解決する、財布の紐がゆるい事は、以前にも、ODAのことで書いたが、そういうことを知っているイラクの部族長達は、遠路 自衛隊に面会を求めやってくる。

 この時である。この時に、日本人隊長は満面の笑顔で持って迎へたに違いない。西洋人がうす気味悪がるあの意味不明の「笑い」である。ようきたなぁ! ニコニコニコ。終始笑顔を絶やさなかったに違いない。無心をしにきているのに、この笑みはどうだ、と思ったろう。

 こういう 西洋人に理解できない日本の美徳は他にも多くあり、その大半は滅びた。「裸を人に見られたらはずかしい」と今は普通に思われているが、そうではなく「ラスト・サムライ」の映画に、ワンショットではあるが、沐浴シーンを見られても、恥ずかしがる事無く普通にふるまって対話する場面がある。よくぞ、ここまで昔の日本人の事を調べたものだと驚いた。

「裸がはずかしい」というのはキリスト教の思想なのである。アダムとイブが、禁断の果実を食ってから、羞恥心が芽生えて、局部を葉っぱで隠しはじめる。「知」すなわち「羞恥」という考え方。
 
 ところが、江戸時代前後に日本に来た西洋人は、日本人の性意識に異様に驚く。禁欲的でなく、野放図に見えた。なのに道徳・規律が守られている。
 キリスト教の司祭など、「世界で一番みだらな国民だ」とまで書いている。想像に絶したのだろう。
 だが。日本に何年も住むうちに、「性」を肯定した生き方が西洋人にも理解出来はじめる。
 西洋の価値体系とまったくちがった文明圏との遭遇であった。
 
 庭先で、行水していて、外国人が通りかかると、彼等を見るために平気で、素裸で外に飛び出していく。町の銭湯は、老若男女混浴で、若い女が体を洗っている横で、家族が洗っている。この事が信じられない西洋人達は、着衣土足のままで、銭湯に押し入り、見物した(体中毛むくじゃらの無礼なお方達を見て、日本人は彼等の事を、南蛮夷狄とよんだのである)。当の日本人は皆笑っている。
 
「性」を忌諱したわりには、サディズム・マゾヒズムを生み出し、胸元まで深く切れ込んだ服を着た西洋の女を見て、侍達は、紅毛の夷狄(野蛮人)と一笑した。
こういう観点から日本人を見ると、日本人はすでに滅びて久しい。
 
陸自幹部は「*戦わずして勝つことが大事です」と米軍担当者に語った、そうだ。(7/11 産経新聞朝刊)
 
 
*孫子の兵法「百戦百勝は最善ならず、戦わずして勝つことが最善」
 









2004年06月25日(金) 樽掃除



 そろそろ暑い夏が来るので、昨年に仕込んだワインを醸造用瓶から木樽に移しかえた。
 樽は、ソーダ灰を水に溶かしたものを満たし、栓をして、絵を描いている足下において時折蹴ってやる。
こうすることで、樽内に付着した葡萄滓などの除去促進になる。十二時間位続けたら捨てて水ですすぎ、次は殺菌、相当する重亜硫酸塩ナトリウムを適量溶かすのだが、これが強烈な刺激臭があり、むせながらの作業。ここからは、筋力トレーニングのつもりで、十二リットル入りの樽を持ち上げ、ひきつけ振り回す。真上に持ち上げた樽を、頭の後ろに、肘を固定した状態であげおろし。
ふらふらになりかけた頃、完了。

樽の外側には亜麻仁油を塗っておく。ワインを移しかえ、専用の冷蔵庫に入れて、これから一年寝かせて、、瓶詰めコルク打ち。
 快汁葡萄鏡(日本三大名鏡のひとつ海獣葡萄鏡(国宝) のもじり)頁を作ったのだけれど、作業途中を記録しながらの作業は難しく、途中の行程を幾度も記録し忘れてしまう。で、今に至るも更新されていない。

 今ワインは、AOC(原産地管理呼称・フランス)ワインが六百円位で買えるようになった。もう自家醸造ワインには、実益は無く、閑人の趣味となってしまった。ビールと違って、手間ひまかけて作っても美味いものが出来るとは限らない。樽熟成させたからと言って、味がよくなる保障もない。

ようするにひとりよがりの、手間のかかる趣味ということだ。
わざわざ作り方を発表しても、きっと、手打ち蕎麦の蕎麦打ち風景を見せるようなもので、誰も見やしない。だから、更新はどうなるかわからない。

 途中のワインを味見をする度に、フランスの昔からのワイン作りの文化伝統に、敬意をはらってしまう事になる。
他方、日本の清酒に至っては、難しすぎ、素人には到底できないレベルで、西洋がパスチャライザシオン(火入れ)を発見する二百年前に、すでに日本酒の世界ではそれが行われていた。他国の酒を造って、わが国の酒のすごさを知る。

  









2004年06月15日(火) 小六事件と大人の軟弱



 佐世保の惨殺事件が起こって、その後、他の子供の心的禍負担はともかく、救急の消防隊員達が、凄惨な現場を目撃したことによる心的禍負担を覚え、苦痛を訴えたりしている。
 最近しばしば言われている、日本国が瓦解し初めている予兆がここにも見て取れる。あまりにも軟弱な感受性をもったその道のプロ達がいて、井上惇(あつし)市消防局次長は「隊員の惨事ストレスは初めて。マニュアルはあっても、心の問題には個人差があり、特効薬は見あたらない 」(読売新聞)なんて言う発言をしたりしている。
 
◆ 毎日美味しいものを食って、ほぼ無菌の中で暮らす中で、戦争のない平和な世界を声高に叫ぶ、すると腹がへる。その日の夕飯は、焼き肉。が、一度でも自分達で生きた豚の喉をかっ切り、ほとばしる血を一滴も無駄にしまいとバケツに受け、腸の汚物をしごきとり保存し、生きて行く糧とした事があるだろうか。美味いとり肉を食べるため、自分で潰して(屠殺して)、食べる人がどれだけいるだろう。あらゆる残虐行為は他人まかせにしておいて、戦争(殺しあい)のない平和な世界を叫ぶ。

 もともと日本には、こういうほ乳類をたたき殺して食うという習慣は、鯨(くじら)以外なかった。
これは世界共通の事と思うが、獲物は血の一滴まで無駄にしない。鯨なんて、ひげまでぜんまいの代用にして使った。ところが明治からこっち、食肉の文化がぽんと入ってきて、以後急速に、加工され、商品化された「肉」が、味噌・醤油・どぶろくなどのように、本来の自家製造過程を経る事なしに出回り今日に至った。

 フランスの田舎の農家で、飼っているうさぎを料理するために潰す時、どうするか知っているだろうか。まず血を飛び散らさずに抜くためと、一瞬にして致命傷を与えるために、先の鋭い、たこ焼き返しのようなもので目を深く突き、殺す。その後、後ろ足を縛り木にぶら下げておくのだ。
こういうことに、食肉を歴史としてきた連中は抵抗がない。日本人なら気絶してしまうかもしれない。

*「アーロン収容所」と言う本の中にでて来る目撃譚。略奪する原住民が、死んだ兵隊の遺骸の歯から金を取り出す時どうするか。躊躇なく石で頭蓋骨をぐしゃっとたたき潰す。それを見た著者は震え上がる。が、著者はやがて食肉文化の中では、そういうものだと悟る。

 中学生の頃の事、山麓の石切り場に住む、今思うと、うぐいすとめじろの密猟をしていたと思われる(六畳間位の所一杯に天井まで鳥かごがあって、鳥屋に売っていた)、友達のお父さんに、鶏を食うかとすすめられ、生まれて初めて鶏を潰す現場を見た、目の前で、鶏に袋をかぶせ、あっと言う間もなく、喉をかっ切った。
瞬間、血しぶきとともに鶏は4.5m飛んだ。、鶏が飛ぶのをこのとき初めて見た。可愛そうもくそもない。ただ現実があった。が、事はそよとすすめられ、庭には、いこった炭が入った七輪が用意され、友人の父親とその友人を交えて宴が始まった。お相伴にあずかった。とても美味かった。先の悲惨な屠殺現場があってこの幸福があるのだとこの時諒解した。
 以後、近くの裏山で、メジロを捕り(今は禁止されている)に入った山で、かすみ網(これも禁止)で獲っていると、つむぎ・あおじなどがかかった。この鳥は美味いので、その場で首をちょんぎり、羽をむしり、腹を割いて塩と醤油をかけ、携帯燃料に火をつけて、焼いてよく食った。

 以前、教徒(きょうと・仮名)大学医学部の解剖図のイラストの仕事をした事があって、実際の人間を解体した写真を見ながら、要所を描き出す作業で、吐き気をもよおす米・独製写真集であったが、やがて客観的に見られるようになり、それらのすべての遺骸が、なぜか東洋人であることも発見した。
 これは、江戸時代の外国人の記録を見ても、日本人の事を「有機体」と表現しているように、白人以外は人間ではないと言うのが、当時の目で、その習慣が残って解剖のサンプルは人間によくにた?、東洋人としたのかもしれない。
 
 ずいぶん前に、京都-大阪を結ぶ京阪沿線の踏切で、飛び込み自殺事故直後、偶然そこに居合わせた。ばらばらの遺体は線路脇にまとめられ、白い覆いをかぶせてあったが、踏切のそこここには肉片がまだ落ちていた。が、以外に冷静でいられた。
 少年期に経験した事やこういう経験のおかげ?で、佐世保小のような事件に遭遇したとしても、心的禍負担になるような過剰反応には至らないと思っている。
 
 それはさておき、このような経験や、凶悪犯罪で血を見てきた人、検死官、交通事故処理経験者、外科医経験者などを、そう言う現場におくのだ。
 先の消防局次長の「隊員の惨事ストレスは初めて。マニュアルはあっても、心の問題には個人差があり、特効薬は見あたらない 」(読売新聞) は、打つ手はあるのである。

参考文献:
*「アーロン収容所」‥‥著者が敗戦後、イギリス軍に捕虜となっていた2年間の記録。イギリス将校の妻は、日本人が部屋に掃除に入った時も、平然と裸でいる。人として見ていない、猿や犬と同じに見ていた。虐待のすごさ。何日も飢えさせて、川の中州においておく。取り残された日本兵達は、寄生虫を持っているカニを食べて死んで行く。それまでほったらかしにしておくなど。白人種(アングロサクソン)の東洋人を見る目がよく書かれている。会田雄次著
 

 









2004年05月25日(火) 牛に惹かれて神宮詣で



 先日、伊勢神宮に参拝した。京都からは二時間で行ける。題のように、伊勢に行く手前、途中下車し、牛肉に惹かれて、肉を食いに松阪市の目的の店に向かった。
 一つの誤解がある。二十年くらい前に小説家がエッセイにここの事を書いて以来、松阪肉が有名になったが、実はこの店「渡多金(わだきん 仮名)」の独自の肉が美味いんであって、松阪の牛肉がうまいとは、最初から言ってないにも関わらず、松阪牛がうまいと言う事になってしまった。

 ここの牛は、但馬の牛でこれを、渡多金(わだきん 仮名)の初代が松阪に持ってきて、牧場にて育て以後、これが有名になった。だから但馬(兵庫県)の牛であって、松阪出自の牛君達とは何の関係もない。
 すき焼きは、たった一枚のぺらぺらロース肉。
網焼き肉は、八十g位のヒレ肉一枚、このセットが売りなのでこれを頼んだ。

 以前他所で、霜降りの中に赤みがあるような、体にいいとは思えないステーキを食った事があるが、只只、柔らかく、噛みごたえなく、口中で溶ける。確かにとても旨いが、ばーさん、じーさん向けであった。

 ところがここのは他にはない、箸で切れるのだけれども、適度な噛みごたえがあって、なを溶ける。結構な料金も、たん譚は相応だと了解した。
 
 伊勢市駅近くの宿は、玄関正面 の「翠光入玉簾」を揮毫している伊藤博文をはじめ 、広田 弘毅(外交官・政治家) 東条 英機 (陸軍軍人・政治家) 岸 信介(政治家) 佐藤 栄作(政治家) 福田 赳夫(政治家) 重光 葵(外交官・政治家) 松岡 洋右(外交官・政治家) 西園寺 公一 (政治家) 小林 一三(実業家・政治家) 正力 松太郎(政治家・実業家)
 
三遊亭 金馬 (落語家) 春風亭 柳昇 (落語家) 板東 三津五郎 (歌舞伎俳優) 吉井 勇(歌人) 今 日出海(小説家・評論家) 久保田 万太郎(小説家・劇作家) 川端 龍子(日本画家) 杉本 健吉(画家) 辰野 隆 (フランス文学者) 伊東 深水(日本画家)福田 平八郎(日本画家) 川島 芳子(男装の麗人) 金森 徳次郎 (憲法学者)たん潭(画家、フランス愛好家 だれや??)

錚々(そうそう)たる人々が投宿している老舗料理旅館で、頭拿屋・利用庵(とだや・りょうあん 仮名)という。皆、神宮詣での宿としたのだろう。泊まれる客数は十人くらいで、部屋は二つ。改築後は昔とは違うようだが、窓から、人工だが池に滝が落ちている庭園が眼下に見える。

 歴史ある宿で、歴史上の人物がここにいた事を思いながらの静かな夜は、また格別であった
 
 伊勢神宮の外宮(げくう)は、天皇の食事(御饌・ミケ )所で、稲を、水を祭り、食べ物をまつる。内宮(ないくう)は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が祭られており、古来毎朝、外宮に食事にこられるらしい。
 御饌 (みけ)は神の食事だと聞いて 家の三毛猫のえさは大丈夫だろうかと、おもわず思ってしまった。

宮内の、欧州にはない、巨木がそそり立つ森、流れる沢(五十鈴川源流)。ここには確かに人ではない何者かがいる。昼飯に、宿で作ってもらった、おむすびを食べ、正式な参拝をし、伊勢を後にした。

*この旅を実行する数日前、まったく同じ店に産經新聞の産経抄が訪ね、エッセイに書いてましたが、偶然です。
 









2004年05月20日(木) 真珠の耳飾りの女



 17世紀オランダに生きた画家ヨハネス・フェルメールの作品「真珠の耳飾りの女(青いターバンの少女)」をテーマにした小説が映画化された。 何年か前にもカラバジオを描いた映画を見て、これは別の意味で意表をつく映画で、アトリエのモデルの光の当て方(映像作品としての)に感心してしまい、今回も、物語はさておき、監督があのフェルメールの光をどう再現するのか、それを見に行った。
 
 映画人にとって、今や画家の画室の採光再現などなんて事はないのかもしれない。金があればだれか一人、スタッフを自分が思うような光再現のために雇いたいと思ったくらいだ。本当に感心した。
 
 映画は「真珠の耳飾りの女」のモデルをめぐっての地味と言えば地味な話。
画家とモデルが共有する時間を過ごす時、不思議な親和感を持つ。これは、ヌードモデルを描いている時に、何にも触れていないのに描き終わる頃、関係を持ってしまったかのような感じになるのにもにて、そういう感情を経験した事がある。
着衣していても同じことである。

映画でも、互いに精神的の中では成就してしまっている。
これを見ていたら、ふいに「*日本霊異記」だったかに、修行中の坊主が、弥勒菩薩像を眺めているうちに、ついに達してしまう話があったのを思い出した。精神的昇華に於いては、この坊様のほうがすごいなぁなどと、余計な事を思った。

フェルメールの画法をめぐって、カメラ・オブスキュラ(素朴なスライド映写機と思って下さい)を使って描いたのだ(根拠の一つに一枚のエスキース-下絵-も、残されていない)とか、「いや、消失点の位置にピンをさした後があるので、当時の建築学に基づいて描かれたのだ」などの説か゜今でも飛び交っている。
 カメラ・オブスキュラのようなものは、それ以前からあった。遮光された部屋の壁の一方に穴をあける、すると外の景色が反対側の壁に映し出しだされる。簡単なカメラの原理で(コダックが世界で初めてこの原理で写真を撮った。)、これを写し取って絵を描く。
 
 絵描きの立場から言えば、天才的絵描きと言えども、下絵なしで描くためには、それに至るまで、おびただしいデッサンをしてきて初めて可能だといえる。避けて通れない。だから、一枚の下描きもない、デッサン帖も残さないフェルメールはやはり使っただろう。
 
 絵と言えども、当時の絵画技法に、精神はまったき自由ではあり得ないわけで、光学的な光の解釈(光っている部分が玉のように解釈されて描かれている)は、目で見て描くには無理がある。
 どちらも使ったと見るべきだろう、目と機器と。
 
 '90年頃、この絵ではなく、ウィーン美術史美術館 (Kunsthistorisches Museum Wien)に、「画家のアトリエ(絵画芸術) 」を見に行った。本来なら強く印象に残ったはずのこの絵が、あまり印象に残っていず、同展示室にあった、まったく有名ではない、一枚の絵が強烈に印象に残っている。
  
 絵には貴夫人が描かれていた。去年だったか、日本人画家で初めてフランス政府から、シュバリエ芸術文化勲章をもらった、松井守男さんを紹介された神戸の画廊の、そこに勤めていた女の子に、その貴婦人が、まぁ、瓜二つだった。
 
 つんとして、気高い感じなどそっくりで、一緒に行っていた絵描きと笑い転げた。そういうわけで、「画家のアトリエ」よりも、近くの、他人のそら似絵画の方が、印象深かったのであった。
 
 西洋の絵画が、まだリアリズムに汲々とし離れられずいる17世紀の同時期、すでに、わが京都には、光悦・宗達に影響を受け、装飾性に富んだ琳派様式を確立した、*尾形光琳(おがた・こうりん)がいた。
 

 題を再び見返して見ると、あれれ!「首飾り」となっていました。「真珠の首飾りの女」という作品もありますが、ここで書かれているものではありません。「首飾り→耳飾り」訂正しておきます。(04/06/24)

*日本霊異記
九世紀のはじめ、奈良薬師寺の僧景戒が編集した仏教説話集。因果応報の理を説く話が多いが、幹となったのは当時民間に伝承せられていた説話で、人獣交婚譚や怪力譚もあれば、妖怪変化譚として神々の零落してゆく過程を窺わせる話も多い。説話文学の先駆として、後の『今昔物語』『宇治拾遺物語』などに材料を提供 している。

*尾形光琳(おがた・こうりん)
画家。工芸家。乾山の兄。京都呉服商の家に生まれる。
装飾性に富む琳派様式を確立。晩年は京都に戻り、絵画の大作を次々と制作する一方、弟・乾山の焼き物に絵付けするなど工芸デザインにも大きな影響を及ぼした。代表作は『燕子花図屏風』『紅白梅図屏風』など。蒔絵では、『八橋蒔絵硯箱』などの傑作を残す。

 









2004年05月03日(月) 憲法記念日



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