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2004年05月02日(日) 判官(半眼)びいき



 イラクでの日本人人質の行為を擁護する人々や、マスコミの後ろ楯になっている、米国パウエル国務長官の発言

「イラクの人々のために、危険を冒して、現地入りする市民がいることを日本は誇りに思うべきだ」は、腑に落ちないでいた。

 ところがこれがマスコミがよく使う手で、自分達が都合の良い部分だけを引用していた事がわかった。実はこの後に続いて

「また、イラクに自衛隊を派遣したことも、誇りに思うべきである」
                      (04/28 産經新聞)
と言っているのである。これなら分かる 。どっちがどうと言う事は強調されていない。

◆ ボクシングの世界戦において、アメリカ人は、外国選手に自国チャンピオンがノックアウトされても拍手を送る.その光景を何度も見た。
一方日本での世界戦で、日本のチャンピオンが打ち倒されると、水を打ったようにシーンとしてしまう、拍手はない。

 
ボクシングは、主な戦いの場がラスベガスにある事で分かるように、賭けの対象になっている。そういうことも考えに入れないといけないが、やはり心からかどうか、大勢が拍手する。米国は人工国家で、多数の人種が集まって出来ている国家である所以である。

 太平洋方面での戦争の時に、体当たりして来た零戦が、艦上にひっかかった。搭乗員はすでに死亡していた。だが、ちゃんと敬意を表され、体当たり死した兵士は手厚く葬られている。

 米国は、フロンティア・スピリット(開拓者精神)が基本にある。このスピリットには、精神とか意気と言う意味がある。
このことからも、個人の「意気」は、思想信条を越えてまず褒め讃えるということがあるのだろう。

 二人の記者会見をみた。北海道の18歳で半眼の目、一晩で十数万の署名を集める謎の餓鬼と、恋人に収入が安定しているからといわれて自衛隊に入隊したらしい、自称ジャーナリストの元自衛官。

 おどされて、演技したのは結局、向こうのテロリストと一緒になって自国を批難した事になる。
「あの時、おどされて断れますか?」とこの元自衛官はいったが、果たして断れるのである。
確固たる信念で行ってるのであれば、即座に「私は一個人として来ている。君たちの言い分を伝える事は記事を通じて可能だが、自衛隊撤退の要求は自分とは関係ない」と。
 だいたいこんな事、イラク人と通訳を介して以外、喋られるわけがない。通訳を介しての取材で、「自分なりのイラクが伝え」られると思うのか。
(小泉首相が平壌を訪れた時、金正日は「よう来たなぁ、われ」とため口をきいたが、通訳は勿論伝えなかった)
ところがもともと、米国や日本よりイラクが好きな人である。これ幸いと同調したと言うわけである。

 半眼の少年の父親は、北海道の日教組(旧社会党系)だか、高教祖(共産党系)だかに所属している教師であるそうで、これで一夜にして十数万の署名が集まったのだと合点がいった。
 
 常に非難しているはずの米国に、自分にとって都合の良い意見があるとその部分だけ取り上げる。なりふり構わずとはこの事である。

    餓鬼の目に水見えず










2004年04月14日(水) 反日の日本人



 今朝の産經新聞の産経抄に、
「イラクで拉致事件に巻き込まれた国の中で、犯行グループでなく自国の政府を批判する家族や団体が際立つ国は日本だけ」。それがさらなる交渉条件を上乗せできるという誤解を拉致の犯人に与えているというのである。世界で最も反日的なのは一部の日本人だという見方がここでも成立している」
とあった。

周囲を見渡しても多い。反日で、国家解体論のような事を口走るのがいる。が、皮肉な事に、その同じ口が古くは英国、今フランスのボルドーのワインを愛でる。ワインは国そのものなのである。そこまで思い至らないのが悲しい。
なぜと言うのに、ワインはとても厳しい法律で、規制され管理されているものなのだ。作付け面積や、収穫量、糖度、添加物 等などにおいて。

 ドイツ国境近くのアルザスという地方がある。一時ドイツに占領された。
ここはフランス屈指の白ワインの産地だが、戦後に再びフランスが取り戻した時、そこに植えてあった全ての葡萄の木を引っこ抜いて、植え直した。

たかが葡萄の木ではないのだ。ワインは法律である、他国の管理下におかれていた葡萄の木は、他国の法で規定されている。そのまんま使い回しはできない。だから植え替えてしまうのだ。

国なくして、銘酒は作りえない。 国家解体のような事を口走るのは、日本が環海であり他国に接していない事もあって、危機感が薄いせいだろう。
戦後7年間、アメリカが行った、国内にいるソ連(当時)シンパ(同調者)を使って、日本国内の、言論や教育を分裂させた成果が見事なまでに花開いている。

もし「左」という言葉に、何か知的なものを感じる人がいたとしたら、かなり「痴的な左巻き(向き)」である。









2004年04月13日(火) 証文を書け!



 イラクで人質にされた者の家族達、ありゃなんだ!  無事帰って来て、息子が再び危険地帯に行くと行ったらまたいかせるそうだ。行くのは勝手だ、行けば良い。しかし今度、行くなと言う所へ行く時は、日本政府に対して「私は、殺されても、レイブされてもかまいません、一切の助け不要」と書いて、家族に印をついてもらい、届けを出してから、それから行きたきゃ行け。

 この家族は、普段、人権や個人の権利、プライバシーが何のとすぐ声高に言う種類の人達だろうと見ていたら、やっばりでました。なんたらかんたら人権委員会?? んなものイラクにあるの会。

自分は清く正しく思っているのだろう、個人の正義で動いているはずが、窮地に陥ると、子供を助けるために、自衛隊をひっこめろと、自国を相手に居丈高になる。自分の子供のわがままのあげくの結果を、自衛隊の撤退に結び付ける神経は、厚顔無恥と言う他ない。
 
 北朝鮮に子供を拉致されている家族とくらべて、この家族達は何なんだろう。「さーよくわかんねぇ」と横にいた爺さんは言った。


 
 









2004年04月12日(月) 都をどり



 
先日、祇園に都をどりを見にいった。庭園の桜が池に舞い散っている。

     はるの日の うららにさして 観る舞は 

 観劇前の点茶の、點前は小喜美。一服頂いてから、着席。満席の大盛況。地方からも観光バスで来ている。横浜からの観光バスはベンツであった。なぁにベンツといって驚くな。向こうじゃベンツのトラックも走ってらい。日本のトヨタ・日産と同じ車の会社じゃないか。
 
 それぞれに歳を重ねて、以前にも増してまんまるな顔の芸(舞)妓、あごのしゃくれた芸(舞)妓、どうしたらそんなおでこにと思ってしまう芸(舞)妓、さまざまが舞い踊る。よくもこんなに個性的の顔が集まるもんだと踊りそっちのけで鑑賞。
 その中でも、アイドル歌手と浮き名を流した佳つ乃はやっばり際立って目立つ。
 神戸の知人推薦の小亜希もなかなかよろしいな。
 「二条城大広間の雪見」にそろって出ておりました。その襖繪には、(豹のまちがい。訂正04/06/10)と虎が描かれている。京都における江戸幕府の本拠地としてあった二条城の大広間の控えの襖繪は、ここに登城する*大名達を威嚇するためのものだったという。
 
 都をどりを通して、各時代のさまざまが見て取れる。それは色彩にもおよんで、「紫」ひとつとっても、紺桔梗・藤鼠・紅掛花色・藤色・二藍・藤紫・桔梗色・紫音色・滅紫・紫紺・深紫(こきむらさき)・浅紫・薄色・半色(はしたいろ)・菫色(すみれいろ) 杜若(かきつばた、別名 江戸紫(桃屋のあれではありません))。まだまだある…。芸妓の着物はさておいて、日本人の色彩感は、総じて各時代を通じて、けばけばしくなくシックであった。

 嘉永六年(1853)、プーチャーチン使節団の一員として長崎に渡航したゴンチャロフも、「その中(接待の役人達に)に、どぎつい鮮明な色がない事」「赤も黄も緑も原色のままのは一つもなくて全てがその二色、三色の混和色の穏やかな軟らかい色調である…正装の色調はヨーロッパ人のそれと同じである。私は老人が花模様緞子(どんす)の袴をはいているのを5人ばかり見たが、これもくすんだ色であった」
 
 また 安政5年(1858)、日英修好通商条約提携のため来日した、エルギン卿使節団を乗せて来た船の船長オズボーンの訪日記にこんな事が書いてある。
 
 「日本の役人や、ジェントリは、大抵着飾っていたし彼等自身の流儀に従って、服装によってかなりのダンディズムを発揮していた。だが日本では、衣服の点では家屋と同様、地味な色合いが一般的て、中国でありふれている、けばけばしい色や安ぴかものが存在しない事に我々は気がついた。ここでは上流婦人の外出着も、茶屋の気の毒な少女達や、商人の妻のそれも生地はどんなに上等であっても、色は落ち着いていた。
そして役人の公式の装いにおいても、黒、ダークブルー、それに黒と白の柄が最も一般的であった。
 彼等の家屋や寺院は同様に、東洋のどこと比べてみてもけばけばしく塗られていないし、黄金で塗られているのはずっと少ない。この日本人の趣味の特性は、われわれが日本を訪れた際の第一印象のひとつで、多くの第一印象がそうであるように、結局正しいと言う事が解った」。
 「一口に言うと最新の流行色が全部揃っていた」と書いている。
 
 今あげた二人の他に、多くの訪日した異邦人の認識は、この世界でも奇跡と思われる類い稀な独自の発達をとげた文明が、我々が来た事で壊れてしまわないかと言う危惧だった。そうして、それは見事に適中し、今日 あらゆるものが西洋化されてしまい、日本人としての矜持を持たない人々であふれている。
 
 昔日本人と今日本人のわずかな共通項は、「言葉」である。冒頭にあげた句、
 
 はるの日の うららにさして 観る舞は 
 
 はある有名な句をもじって作ったものだが、日本人なら、この大和言葉だけの句を読んで即座に理解できる事だろう。だが今後、タレントや流行作家の詩や文章を載せ、万葉集を教えない教科書でそだった日本人もどきは、ついに毛唐にも日本人にもなれないだろう。

 

 参考文献:
 *美と宗教の発見 梅原 猛 
 逝きし世の面影 渡辺 京一 葦書房
 日本の伝統色彩 長島 盛輝  京都書院

 









2004年04月03日(土) 超(鳥)人



 子供の頃から超人に憧れていた。とはいっても、テレビや映画に出てくる安っぽいヒーロー(昔エイトマン月光仮面、今仮面ライダースバイダーマンなど)なんて一切興味も無かったし、ましてやなりたいなどとは思いもしなかった。

 以前、フルコンタクト(実際に打ち、蹴る)系空手の有名な選手が、この手のヒーローに憧れて今日があると言うような事を行っていた。
ちょっと信じられなかった。現実と架空・絵空事の区別がつかないのだろうか。こういう人がやがて道場を開いたとして、門下に集まってくる人たちは何のもとに集まってくるのだろうか。師範の頭がマンガなのにである。

ここで門下生達は何を学ぶのだろう。多分、対敵に対しての強さだけを学びにくる。だから当然のように、体は大きい方が良く、筋肉を膨らませる方へ向かう。大きくて筋骨隆々は小さくて普通の人を教えられない。が、20年経っても象には勝てない。

 それはさておき、小さい頃から憧れた人たちは、上の種類のヒーロー達では無かった。全部実際にこの世に生きた人たちであった。その一人、小学生の頃、*零戦乗りの坂井三郎を知って、子供雑誌や「丸」という雑誌でよく読んだが、もう頭の片隅に残っているだけだった。
映画、ラストサムライをきっかけに、「武士道」をもう一度調べて行く内に偶然坂井三郎が「葉隠」で知られている佐賀県(佐賀藩 鍋島 直茂公)の出身であった事から、著作をまとめて読んでみた。

 戦後、坂井三郎の本は「SAMURAI」の題名で、米国・カナダ・フィリピン・フランス・フィンランド他で、訳され出版されベストセラーになっている。
零戦(れいせんと読むのが正しい)の圧倒的な強さに興味をひかれた事もさることながら、小学生の時になんでそれほど興味を持ったか再度読んで解った。
多分、著者の超人性に憧れたのだろう。読み返すまでまったく忘れていた数々の信じられない逸話があった。

 空中戦に圧勝するためには、先手を取る事、先手とは索敵(さくてき)をいち早く行うと言う事につきる。そのためには目が良くないといけない。
雲一つない空、 何万メートル先の、針の穴に等しい敵機を見つけるためだ。
発見される前に発見する。
誰にでも目が良い事が前提だとは理解できる。目の性能は多く先天的なもので、普通、維持は出来ても今以上にはならない。ところが坂井三郎はそうは考へない。
なんと目を鍛えはじめる。まず目に良いと、機会あらば緑の木々を凝視し、夜更かし、深酒を避けた。電車内から瞬時に看板を読み取る、群れ飛ぶ鳥をすばやく数える。ここまではなーんだで済ませられるが、ここからが常人離れしてくる。
坂井三郎は、目が良ければ、昼間でも星が見えるはずだ ?!と考へ訓練をはじめるのである。

 まず簡単な星図の知識を得て、昼間、天頂(頭の真上)に来る星の中でどの星が一番明るいかを調べ、夕暮れ時には、いち早く一番星を見つける、明け方には最後まで消え残る星を探した。
 
 真昼に飛行場の芝生に寝転がり、ひたすら天を凝視し続ける。そうしてついに星を見つける。回を重ねる毎に、発見は早くなりそのうち立ったままでも見られるようになったと言う。空が澄み切った日には、見つけた星の回りに無数の星が見えた時もあったと言う。(8000m級の山では、昼間星が見える)
視力はこの時2.5になっていた。

 反射神経の鍛錬も驚くべきものがある。止まっているトンボ、飛んでいるトンボを素手でつかむ練習をしてついに出来るようになる。これだけで終わらない。剣豪宮本武蔵がやったと言われる、飛んでるハエを箸で掴むという逸話を地で行く。初めとまっているハエをつかむ練習からはじめ、ついには、飛んでいるハエの軌道予測をし、そこを掴む事でつかめるようになったと言う。
 
 まだある、持久力を養うために、水泳をやり潜水をやった。100m!を潜って泳げるようになった。息を止めて2分30秒の記録を持っていると言う。
 飛行機乗りは、急激な荷重を受けるため、内臓が垂下してくる。それを防ぐために逆立ちをする。その逆立ちは、普通は4.5分が限度だが、15分以上できた。
 また、大型テントの鉄のポール(手では握り込めない位の)の上によじ登り、腕力だけで30分いて訓練生達を驚かせた。などなど…。
 
 坂井三郎は生まれつきの天才ではなかった。学業に失敗して、田舎に帰って、畑仕事の時に、空を舞う飛行機を見て飛行機乗りになろうと海軍に志願する。
 飛行訓練でも、最初はそう優秀な成績ではなかった。
目的に向かってすべての事を、それに関連づけて訓練した。それがおのずと「道」を作って行ったのだろう。 
 ラバウル空戦での圧倒的な強さ(200回以上の空戦で64機撃墜)は、「道」に裏づけされているといっても良い。
 
 最近、現在、米国に残る最後の一機、零戦21型(坂井三郎が主に乗っていた)が実際に空を飛んでいる所を収めた、米国製のDVDを手に入れた。このDVDは、最初にFBIの警告がある貴重なものだ。
 独特のエンジン音を持つ、栄十二型エンジンも心地いいが、何よりも驚いたのが、飛んでいる時の羽のような軽快さである。例えて言うとUFOみたいだと言えば良いのか、重力にひっばられている感じがしない。本当に軽い。これに鍛え抜いた坂井三郎が乗っていたのなら、敵機15.6機に追い回され撃たれても、ラダーフットペダルを左、と同時に操縦桿を右に、といった激しい動作で巧みによけて無傷で帰還したというのもうなづける。とにかくふわふわ浮いている感じがある。
 昭和17.8年当時、830リットル(増槽含)で台湾の台南からフィリピンのルソン島まで480海里(1海里約850m)往復出来た。
 戦後9年を経ても、マッカーサーは航空母艦を使ったのだと信じていた。そのくらい信じがたい無給油での飛行距離で、現在でも坂井三郎がだした記録は抜かれていないはずである。現在の新鋭機と言えども、バケツ単位で湯水の如く燃料を消費する。

 日本人は、何かを追求する所に、自ずと「道」をつくってしまうのかもしれない。
 
 *零式艦上戦闘機二十一型(れいしき・かんじょうせんとうき・にいち) 
総数一万四百二十五機作られた。終戦までに十四回の改良がなされたが、二十一型がパイロットにもっとも信頼された。
どれだけ強かったかと言うと、どこの国でも、敵前逃亡は軍法会議ものである。が、戦争初期、米国では、零戦にもし遭遇したら、ただちに逃げ帰ってもよい事になっていた。そのくらい、他を圧倒していた。
空の要塞、死角ゼロと言われた、大型爆撃機B-17も落とされている。体格差はねずみと蟻くらいだろうか。
 これほど強かった零戦も、格闘戦でどうしても勝てない戦闘機があった。九六艦戦(九六式艦上戦闘機)である。この戦闘機は、零戦に全て(格闘戦)において勝ったが、航続力と貧弱な武装、固定脚などの問題で主戦闘機には採用されなかった。


*参考文献:
大空のサムライ(正・続) 光人社
坂井三郎空戦記録 講談社
ゼロ戦の栄光と悲劇 "
坂井三郎の零戦操縦 並木書房
大空の決戦 鱒書房
撃墜王との対話 坂井三郎・高城肇 著 光人社
昭和研究会 ある知識人集団の軌跡 TBSブリタニカ
零戦の運命 講談社
零戦の真実 "
DVD A6M5 ZERO -Navarre corp-



     









2004年03月24日(水) にわか映像作家



 この「日々たん譚」が滞っているのは、映像を切ったり張ったりして、作品化していくのが面白く、それに没頭しているためである。ビデオが発明される前は、個人が映像を撮ろうとした場合、8mmで撮るのが一般的で、その昔、某映像作家の家で゛世界の多くのマイナー映画を見せてもらっていた時に、その作家の部屋中にはり巡らされた洗濯綱には、8mmの長・短フィルムが所狭しとかけられているのが常だった。

 聞けばこれを編集し、繋あわせたり張り合わせたりして一本のフィルムにすると聞いて、なんとまぁ面倒な作業だろうと思った事がある。映像作家でなくてよかったとその時思った。ところが月日は流れ、ビデオが普及し、パーソナル・コンピュータが出来ると、映像処理が存外簡単になった。おまけに特定の処理をすると、インターネット上にも公開できる。
 誰が言ったのか忘れたが、インターネット普及で得る所あれども、同時にその弊害大なることに「バカが意見を言うようになった」と。
してみると、にわか映像作家のネット配信は、へっぽこにわか作家が発表するようになったことと置き換えられる。救いは、自分のコンピュータにデータはあり、自分からつながない限り見られないと言う事だろうか。少なくとも垂れ流しではない。
それにしても面白い。









2004年02月23日(月) サーバーを置く。



 ようやく、どうにかサーバーを自分のコンピュータ上において、ためしにライブ中継、自作filmのストリーミング実験をやってみた。ライブは画像の圧縮のせいか、画像が汚く見るに耐えないので当面あきらめた。映像のストリーミングは上々の出来。相手のコンピュータに負担をかけないのが良い。

 この映像習作は、まだ作品となっていず、一部の友人達にモニターになってもらって試しています。よってまだ未公開ですが、一般にADSL・光ファイバーが当たり前に普及したら見てもらおうと思っています。(普通の回線では、負担がかかり、イライラするため)

これからは、プロバイダのメモリの不足からくる追加料金などを気にしなくて良くなった。150GB、家にあり、一本の映像が25MBくらぃなのでまったく心配なし。

遅れていた、ホームページ近く更新します。









2004年02月17日(火) 再び日本はどこにも行かない



 新しい歴史教科書をつくる会の西尾幹二さんが、「日本の歴史」(講談社)全二十六巻の編者で著者でもある網野善彦を批判している。 西尾幹二のインターネット日録→「今月のi日録」をクリック「学者とイデオロギー(三)」

たん譚の友人も執筆している。これによると友人は「おとり」かも知れない。
いま繪の更新もままならないので、もうすでに過去のたん譚 2003年01月25日(土) 日本はどこにも行かない。 にまた違った方向から委曲をつくして書いているのであわせて読んで下さい。









2004年02月03日(火) 映画「タイムライン」に見える米国の言い分?



 またまた、でた、米国のプロパガンダ映画(と見える)。粗筋はニューメキシコに、不審な状態の人間が病院に担ぎ込まれ死んだ。それのレントゲン写真が臓器、血管、骨格など、あらゆる組織が断層のようにずれ、欠損していた。

 
 同じ頃、フランスの南西部ドルトーニュにある、修道院の発掘現場。14世紀の地層から、現代の製品としか思えない眼鏡のレンズ、そして“HelpMe”と書かれたメモが出土した。それは、発掘プロジェクトのスポンサーを訪ねるため現場を離れた後、行方不明になったジョンストン教授のものだった。
近くには、寄り添って横になり、王妃は王の手をしっかりにぎっているめづらしい石棺が発見された。

 プロジェクトのメンバーはスポンサーを訪ねる。そのスポンサーは物質転送の技術、(あのスタートレックに出てくる、人間を宇宙船から地上に転送するというあれ。)を荷物・物資をアメリカヨーロッパに運ぶ手段に研究していて、それが、偶然時代を超えて、それも毎回同じ時代、同じ場所(フランス、アキテーヌ地方)にいってしまう。
教授もどうやら行って帰って来れないらしい。そして、先のレンズなどを遺跡となるところに埋めて助けをこうたらしい…。
何度か行き来する内に、個人差はあるが、先に書いたようなずれが生じ、事故が起きるようだった。

映画の解説は一般の評論家にまかせて、ちがう見方を書いてみる。

 プロジェクトの連中がみんなで、量子テクノロジーによって開発したタイムマシンを使って、過去にとんでいく。行くところは固定されていて、1357年のフランスアキテーヌ地方(当時は英國領、現在のボルドー)。
そのジロンド河の支流ドルトーニュ。時代は英仏百年戦争”の真っ只中である。実際の歴史はポワティエの戦い(1356):英エドワード黒太子の活躍、14Cの両国混乱:仏ジャクリーの乱・英ワット=タイラーの乱などが起こって、この後、あのジャンヌダルクが登場して、はれて、英國を追い出して、現在のボルドーの辺りはフランスの物となる。

 さて、映画。この時、教授救出作戦に参加したプロジェクトのメンバーの中に、フランス語が出来る男がいる。彼等は転送されてすぐに、イギリス軍に捕まり、先のフランス語が出来る男がスパイと疑われ、みんなの目の前で、あっという間に刺し殺される。男の名前は「フランソワ」であった。

 いろいろどんぱちあって、助けに来たプロジェクトの一員の男は現代に帰らず残りフランスと共に戦う。やがてフランス側の王女と結婚し、それが後の現在に遺跡として、仲良く寄り添って手をにぎり合い眠る、石棺の当人達だとわかる。

映画制作時の世界情勢に重ねて解釈すると、アメリカとイギリスがイラクに共同戦線を張っているときに反対しやがって!と言う思いをこめてだろうか、フランス語が出来るフランソワが殺されることで警告がなされる。また、仲良く手を沿え寄り添った石棺の意味は、フランス(王女)はアメリカ(現代から来たアメリカ人、王)に寄り添わなければ、やっていけないよという、メッセージだととれた。
かどうか、現在フランスは協力表明している。

それにしても、最初にフランソワという名前の人物が、あっという間にイギリス人に刺し殺される場面にはびっくりした。名前がフランスそのものの「フランソワ」なんだから露骨すぎる。

 ところで、この手の映画や小説には必ず問題となる、タイムパラドクスは一応横に置いておくらしい。


ボルドー(Bordeaux)
ボール・ドゥ・オー、つまりBor-de-aux「水のほとり」という言葉がもとになって出来た地名。古くは、アキテーヌ(水の真ん中)と呼ばれていた。

ドルトーニュ
ワインの産地ボルドーを流れるジロンド河の南西の支流ドルトーニュ河辺。(ここの東岸沿いには、優れ たワイン産地であるサン・テミリオン地区(St-Emilion)やポムロル地区(Pomerol)、などがある)

タイムパラドクス
「時間を遡って結婚前の親を殺したらどうなるか」といった“タイムパラドクス”と呼ばれる奇妙な問題。









2004年02月01日(日) 日曜はだめよ



 本日、新大阪のメルパルクホールで、中西輝政「国民の文明史」発刊記念の講演があった。同討論参加者に、つくる会の西尾幹二、他に加地伸行、松浦光修、西村真吾。前売り券も手に入れてあり、準備万端、京都駅にタクシーで向かった。

 ところが、途中非常に、いやな建築を見てしまった。それは、京都七条大橋の西たもと北側、橋すぐ横の川に面した三階建ての建物。これが全体山吹色!!(正確には川の対岸からは見えにくいが下の方は真っ白)している。イエロー!なのである、イエロー!

京都は駅前のコカコーラの看板でさえ、京都という特殊な環境を企業が考慮?して、ロゴの赤の使用をひかえておとなしい色にしている。
七条大橋のその、ばか建物の対角線上にある、すなわち南東たもとのマクドナルドでさえ、マクドナルドの赤い色の地を控えめにおさえている。本来は目立たなければ意味のない、広告も観光都市、古都京都ということを考えて控えめにしているのにである。

 橋を渡って見たら、正面に「近畿ホーム・テナント募集」の看板。
建築家よ!そこまでして利益を得たいか!町並みを一つの色彩でもって台無しにしたいか!注文を受けたとき、断れなかったのか。 ここで一つ目の癪の虫が興った。

 二つ目は午後二時からの講演まであと二時間弱であったので、どこか適当なところでなにか腹の足しになる物をと思って、ふと、京都の駅ビルに新横浜のラーメン博物館を模した、拉麺小路というのが出来ているのを思いだして、行ってみた。どこの店も行列が出来て、とてもすぐには入れない。あきらめた。

 時間は刻々迫ってくる。仕方ないから新幹線で行こうと思い、当日券売り場に行って料金を見たら、在来の5倍くらいする。いくら何でもあんまりだ。二人だと、往復で京都-大阪間一万円位する。これだけあれば、良い酒が買える。馬鹿らしいのでこれもあきらめて、腹ごしらえはやっぱり必要だからと、先ほどから気をつけて駅ビルのレストラン街などをそれとなく見たけれど、どこも人、人、人。

ところが、新幹線と烏丸中央口を結ぶ通路の新幹線側階段下に、カレー屋があり、なんと、一組くらいしか人がいない。これ幸いとのれんをくぐり、入って注文した。が、一口食べて、この店が、日曜日にもかかわらず、他の店は結構な人出で、すぐに入れないくらい繁盛しているのに、ここだけ閑散としているわけを、たちどころに了解した。
不味い…!!水も変な臭いがし、米は欠け米を使っていて、とにかく酸っぱい味がするのである。 山吹色の家と、どこも人だらけ(日曜だから当たり前)な事、この不味い、普通たいていのカレーは、そうまずいものにはお目にかかる方がめづらしい位なのに、その稀有な例に遭遇した事で、もう完全に気分が壊れすぐ店を出た。
講演に行く気も失せて、タクシーでそのまま家に帰ってきてしまった。

 考えてみれば、日曜・祭日に町中に出向くことはほとんどない。イノダ珈琲店も常連は土日祝日は避ける。

 講演の券二枚無駄にした。この前の、東京講演の方にはフーバー元研究員の片岡哲哉さんが討論参加していた。そちらの方はビデオを販売するようなので、それを買って見ることにした。西尾幹二さんの国民の歴史は主に近現代史で、網野善彦に江戸(02/02訂正 鎌倉-室町)が書けないのだろうと悪態つかれていたのだけれど、この国民の文明史はそれを補う内容になっている。










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