思考過多の記録
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2003年02月28日(金) 海の向こうで戦争が始まる2003〜その2

 イラク情勢が日々動き、戦争へのカウントダウンも続いている。査察を継続させたいフランス・ドイツ等と、早く開戦したいアメリカ・イギリス等との溝は深まるばかりである。世界中で反戦デモが盛り上がる中、開戦支持派は国連でも少数派だということが明らかになりつつあり、苦しい立場に立たされているようだ。
 けれど、これはあくまでも表面上でのこと。裏を覗くと、ことはどうやらそんなに単純ではないらしい。



 そもそも米英と仏独、そしてロシア・中国との立場が何故こんなに開いたかといえば、ひとえに「戦争をするかしないか、するとすればいつか」ということでの見解の相違である。言ってみれば、アメリカの独走(暴走)を止めるか、それともそこに乗るか、という選択の違いでしかない。そして、どちらの選択肢を選ぶのかは、戦後のイラクでの権益がどれくらい確保されるのかという算盤勘定で決められているようなのだ。
 今日の新聞の報道によれば、今反戦平和のヒーローのように言われているフランスがここまで強硬にアメリカを押し止めようとしているのは、敗戦後のイラクにおけるフランスの権益についてアメリカから確約を得ていないからだという。裏を返せば、それについてアメリカと話が付けば、フランスはこの戦争について事実上のゴーサインを出すということである。ロシアや中国についても、そして勿論ドイツも、同様に政治的・経済的な思惑絡みで現在の立場を取っているのであり、札束で頬を引っぱたかれれば掌を返すのは目に見えている。



 要するに、国連の常任理事国という国際社会全体のことを考えて行動するべき立場にある大国は、すべからく自国のエゴで動いているわけだ。アメリカの場合、あまりにもそれが露骨であるが故に眼について叩かれるというだけのことで、他の国でも事情は一緒なのである。
 こうなると、平和を求めて世界各地で行動を起こし、そのことが国際政治に一定のインパクトを与えていると信じて疑わない各国の市民達こそいい面の皮だ。確かに何の影響力もないとはいわないが、結局は国際政治の冷徹な力学によって各国の政府は行動していたのだから。



 そして、何より惨めなのは当のイラク国民である。フセイン体制という、彼等にとっては決してベストとは言えない選択を「外圧」のおかげでしなければならない上に、彼等に「自由」ち「平和」を与えると大見得を切っている大国達が、実は「敗戦後」の処理を仕方や取り分を巡って、自分達の頭越しに駆け引きを続けているのだから。
 その様は、第2次大戦末期に大国がヤルタに集まって日本の敗戦処理を(勿論当事者である日本抜きで)話し合って取り決めていた時のようだ。その駆け引きの延長線上に、広島・長崎への原爆投下がある。昨年までアルカイダの支配から一般民衆を解放するためと称して戦争を仕掛けた大国・アメリカと、固唾をのんでそれを見守った国際社会は、もはやあの国に対する関心を失いかけている。アメリカはビンラディンの首取りに躍起となっている。そこでは、あの国の普通の人々の存在は忘れられている。これは、朝鮮半島やベトナムでの戦争でも見られたことだ。



 結局、小さな国の人々は、自分達の運命を自分達では決められない。その国が平和を手にするか、それとも戦場になるのかは、全て大国の胸三寸にかかっている。そして、殆どの場合、大国の本土はその小さな国から遠く離れていて、どんな戦火も直接及ばず、その国の普通の人々の暮らしが見えない場所にある。
 この構造が変わらない限り、人類はいつまでも「平和」を手に入れることはないだろう。


 そして僕は、アジアの果てのこの小さな国に生まれた。海の向こうの戦争をどうすることもできず、またすぐ近くの隣り合った小さな国同士の戦争の飛び火を逃れるために、かつてこの国を攻めた大きな国の強大な軍事力と核の傘の陰に逃げ込まなければならない、この小さな国の片隅に。


2003年02月23日(日) 「思いやり」と「生き残り」

 「他人への思いやり」というのは、基本的には自分にある程度の余裕がなければ生まれないものなのだろう。けたたましいクラクションを鳴らしながら歩行者を蹴散らして猛スピードで走っていく中国の自動車の運転手には、車を停止させるか減速させて歩行者を横断させようという心の余裕はない。何故なら、そんな素振りを少しでも見せたら、その車は車の流れから取り残されるし、横断する歩行者の列に切れ目がなくなることは目に見えているからだ。つまり、誰もが自分のことで精一杯なのだ。そういう状況下では、他人を思いやるということは事実上不可能である。それは、自分自身の「取り分」の喪失を意味する。



 社会保障などの相互扶助の制度が生まれたのは、むしろこういう状況下においてであろう。誰もが他人を思いやらず、それどころか他人を押しのけて自分の「取り分」の獲得だけを目的に行動すれば、その生存競争の勝者はほんの一部である。けれど、その不公平を放置しておくことは、結果的にその社会自体の崩壊につながる。「善意」などという不確かなものをあてにしていたのでは、その危機を回避することは覚束ない。
 だから、かの国々の社会では、「思いやり」=「助け合い」を「契約」と規定して、「制度」として確立させた。誰もが他人を押し退けあうよりも、この「契約」に従う方が結果として1人1人の「取り分」を確実に確保できるという仕組みである。この「制度」が長い年月をかけて「規範」として内面化され、世代を超えて継承されていく。「思いやり」とは、様々な法律や決まり事が内面化された「規範」意識が形になって現れたものだといっていいと思う。



 少し前に、僕の会社の組合が、社員を対象に職場で感じていることを自由に記述してもらうアンケートを実施した。その中に、ある職場の1人の女性のこんな意見があった。
「子育てをしながら働く人への有給保証(産前産後休暇や、育児休暇、育児時短を指す。僕の会社では全額ではないが有給保証されている)はもういらない。子育てのために働いていない人にこれ以上お金を払う必要はない。子育てをしていない人とのバランスが崩れすぎている。」
 この意見を書いた人は組合員ではない。しかし、この人自身も働きながら育児をした経験を持っているのだ。これを読んだある子育て・仕事両立中の女性は「これを読んで傷付いた。」と言っていたという。



 ご多分に漏れず僕の会社も業績が悪化し、賃上げも定昇分にとどまり、ボーナスの支給額が減らされるということがここ数年続いている。また、定年や有期契約の人の契約終了に伴う退職者の人員補充が行われず、実質的に人員減となっているために、1人1人の労働密度は確実に上がっている。この結果、働いている人達に物理的・精神的に余裕がなくなり、職場がギスギスした雰囲気になっているのだ。
 こういう状況では、子育てをしている人達がそうでない人達に比べて条件面で優遇され、特別扱いを受けていると感じる人達が出てきても不思議ではない。子育てという「ハンディ」を周りがカバーしながら支えていくという「思いやり」よりも、そのことで自分たちが足を引っ張られているのに何故それが認められるのか、という「取り分」の発想が全面に出てくるというわけだ。
 子育てと仕事の両立の話がメインではないので、ここではこれ以上深入りしないけれど、そういう人達の存在を許容できるということは、その職場、もっと言ってしまえば社会全体にある種の「余裕」がなければなかなか難しい、というのが少なくともこれまでの主流の考え方である(僕自身は、それはもう古いと思っているが)。だから、社会や職場から急速に「余裕」が失われていくのと比例して、こうした「ハンディ」を持つ人達に対する風当たりが強くなってきたという一面があることは確かであろう。



 しかし、自分に余裕のある時の「思いやり」というのは、本当に「思いやり」といえるのだろうか。
 ある国が難民や移民に対してオープンであり、また少数者や弱者に対しても寛容であるのは、その国に(多くの場合、経済的な)「余裕」がある場合だ。ひとたび経済危機が襲えば、たちまち社会の有り様は変わる。難民達は追い返され、移民達は排斥され、少数者・弱者は閉め出される。限られたパイの奪い合いの中で、彼等は真っ先に押し退けられる。人々の関心は、ただ自分の「取り分」を確保することだけに注がれる。「金持ち喧嘩せず」という言葉があるが、彼等が喧嘩をしないのは「金持ち」だからである、というわけだ。



 けれど、こうした局面においてこそ、「思いやり」が必要なのではないか。自分たちの「取り分」が確保できるかどうかという瀬戸際だからこそ、その貧しい「取り分」を他へ分配できないかと気を配る。また、声を出す力のない人がいたら、自分のことはさておいても敢えてその人の権利を代弁する。「思いやり」とはそういうものだ。自分の取り分を確保してから正義面して他人の立場に目を向けるのは、「思いやり」でも何でもない。それはただの偽善だ。



 「他人を思いやる」とはそういうことである。それが如何に困難なことであるかは、ちょっと身の回りのことを考えてみればすぐに分かる。
 僕は会社の正社員の組合に属しているけれど、こういう時にアルバイトさんやパートさん、派遣さんの労働条件の改善を全面的に押し出していく。また、僕達の業界を支える関連業種の人達の待遇改善を求めて行動する。そういう姿勢を見せることこそが、まさに労働組合の存在意義なのであるが、現実には自分の会社の正社員の「取り分」のみを確保することに汲々としてしまいがちだ。
 人はなかなか他人を本当の意味で思いやれない。けれど、僕は倫理や道徳を説いているつもりはない。「他人を思いやる」ことは、自分が確実に生き残る上でかなり現実的な選択肢である。目の前の自分だけの利益に人は飛びつきがちだが、結果としてそれで身を滅ぼすことが多い。



 ポイントは、「自分だけが生き残ろう」と思わないこと。みんながお互いの立場を理解し合い、目を配りあうこと。すなわち、「みんなで生き残ろう」とすることだ。繰り返すが、これは道徳や倫理、宗教の類ではない。最も現実的なサバイバルの方法である。
 そして、長い人間の歴史の中には、本当に自分の生き残りとは関係なく、他人を思いやった人達もいた。その人達の困難は計り知れない。また、彼等の「善意」の深さ・強さも僕達の想像を超える。僕達の誰もがその域に到達できるわけではない。だから、今の僕に言えることは、せいぜい「みんなで生き残ろう」ということくらいである。これとて、実現にはかなりの困難が伴うであろうけれども。


2003年02月15日(土) 海の向こうで戦争が始まる2003

 アメリカのイラク攻撃を巡って世界が緊迫している。「悪の枢軸」と決めつけられたイラクが、大量破壊兵器の所持と国際テロ組織との関係という2つの疑惑をかけられ、国連の査察が入っているわけだが、未だそれらに関する決定的な証拠は発見されていない。しかし、アメリカにとっては端から査察の結果はどうでもいいことのようだ。



 多くの人が指摘している通り、アメリカは初めに結論ありきなのである。すなわち、何が何でも「戦争」、そしてフセイン政権の打倒というわけだ。だから、国連の査察を「ゲーム」だと言って憚らないのである。彼等の目的は、あの国の膨大な埋蔵量の石油資源であることは周知の事実だ。その場所にサウジのような親米的な政権を樹立し、安定的な石油の供給を確保するとともに、あの政権の閣僚達が持っている石油関連資本の利権を獲得したいというわけだ。
 子供でも分かるようなこの戦争に、しかし彼等はまたしても「正義」や「テロとの戦い」という名目を持ち出し、国際社会の先頭に立ってその大儀を実行すると力んでいる。その姿は最早滑稽だ。しかも、言っている本人達と、それを支持するアメリカ国民が結構それを本気で信じているらしいのが驚きだ。



 よしんばイラクが国連決議に反して大量破壊兵器を所持していたとしよう。そのことをもって、武力による武装解除、すなわち戦争が正当化されるということが前提になっているようだが、それ自体が僕には理解できない。そういう場合こそ、国連外交の出番なのではないかと思うのだ。具体的な武装解除のプロセスについて、当事者も含めて話し合えばよいだろう。
 大体、大量破壊兵器の遺棄を求めているのは「国連」=国際社会であって、アメリカ(やイギリス)ではない。第一、自らが大量破壊兵器を「大量」に所持していて、あまつさえその削減の努力すらしていないアメリカに、他国の兵器の削減を声高に求める権利はないと僕は考える。どうやら、「民主的」な国家が持てば安全な兵器で、「独裁国家」が持てば同じ兵器が「大量破壊兵器」になるというのがアメリカの基本的な考え方のようであるが、お笑い種である。国際社会は西部劇の世界ではないのだ。



 このような歪んだ正義感のもと、戦争への準備は着々と進められている。それどころか、アメリカは得々としてイラクの「敗戦後」の統治プランまで発表した。こんな傲慢な振る舞いが(少なくとも表向きは)許されるのはあの国くらいだろう。そこには、圧倒的な軍事力を背景にした「奢り」が垣間見える。
 そのためか、フランス・ドイツ等がアメリカの戦争に異を唱えると、アメリカは色をなして反論した。そして、慌てて「証拠」を公開してみたり、単独行動も辞さずとの姿勢を見せたりしている。けれど、フランス等の査察続行の主張の方が理に適っているのは衆目の一致するところだ。「これ以上続けても無駄」というアメリカの態度は、先に書いた通りアメリカの関心がイラクの大量破壊兵器所持の真相解明にはないことの証明である。



 ブッシュは、「フセインは世界のガンだ」という趣旨の発言をしていた。けれど、世界各国の反戦・反米デモを見ても分かる通り、今や世界から孤立し、密かに、あるいはあからさまに嫌われているのは誰かと考えれば、ブッシュの言葉はそのまま彼の国に跳ね返ってくることは明らかだ。そう、ABM制限条約からの脱退をほのめかし、京都議定書の枠組みも無視すると言い、好き勝手に振る舞うことで世界を振り回すアメリカこそ、世界のガンである。警察官などである筈はない。国際社会から退場すべきは、フセインではなくブッシュの方なのだ(その時はブレアも連れて行って欲しい)。



 そして、そのアメリカに尻尾を振ることしかできない僕達の国にも怒りと情けなさを感じる。何も戦争につながる新たな国連決議に向けてのお膳立てを、自ら買って出ることはなかろう。きっとアメリカ以外の世界の国々は、内心日本の動きを嘲笑っているだろう。
 もしこれで戦争に突入すれば、自衛隊の派遣と相まって、アラブの人々には「アメリカの戦争に荷担した日本」という図式がはっきりと印象付けられることになる。そうなったら、たとえアメリカが戦争に勝ったとしても、これまで築き上げてきた中東での日本に対する信頼感は一気に崩れ去る。そのことが将来的にどんな影響を及ぼすのか、きっと政府の役人達は考えていまい。「取り敢えず、アメリカに味方しておけばいいか」という安易な姿勢が見え見えだ。外務官僚達は本当にモノを考えているのだろうか。
 勿論、先が見えていないことではアメリカも同じである。



 おそらく、戦争は始まる。そして、アメリカは軍事的には勝利を収めるだろう。ブッシュは高らかに「自由と民主主義、そして強国アメリカの勝利」を宣言する筈だ。けれど、それはおそらく、長い長い戦いの始まりである。そして、アメリカが今のアメリカである限り、その戦いに終わりはなく、彼等は決して本当の勝利を収めることはできない。


2003年02月10日(月) 芸術作品の値札

 絵画のオークションで、最初は1万そこそこの値で競り落とされると見られていたある絵画が実はゴッホの作品だったと分かった途端に300万円から競りを開始することが決まり、結局6600万円で落とされたという。
 してみると、その絵の価値はもともと1万円の価値しかなかったのではないかと思える。もしもその絵自体に落札価格に見合う価値があったなら、最初からその値がついた筈なのだから。



 つまり、人はその絵画自体の美的価値にではなく、‘ゴッホ’という名前に6599万円の価値を認めたということである。所謂「ブランド」、ネームバリューというやつだ。言い換えれば、その絵が「ゴッホ作」だということにこそ価値があるのであり、その絵自体に価値があるのではないということになる。すなわち、絵はどんなものでもいいというわけだ。バブル時代に同じゴッホの「ひまわり」という絵に法外な値がつき、その値をつけた企業が絵を公開したことがある。人々は絵に押し寄せた。けれど、その時人々が見たかったのは「ひまわり」という絵そのものではなく、「法外な値がついた絵」だったのである。煎じ詰めれば、人々は「法外な値」を見に行ったことになるのだ。
 そして、ゴッホとは「法外な値のつく画家」だと人々は理解したことだろう。そして、法外な値がつくからこそ、芸術的な価値が高いのだと納得して、家路についたに違いない。



 まだ僕が学生の頃、ある放送作家の人からこんなことを言われた。
「もしもあなたが倉本想と全く同じ完成度の作品を書いたとしても、放送局が採用するのは倉本想の脚本だ。理由は、『倉本想脚本』の方が視聴率がとれるからだ。」
 勿論、僕如きが倉本想と同じ脚本など書ける筈もないけれど、人々は往々にして「名前」というオーラに幻惑されるのは事実だろう。「おいしい生活」というキャッチコピーだって、糸井重里が作ったから何かしら意味があるように感じていただけなのかもしれない。ここでも問題は内容ではなく、その作品を作ったのが誰なのかということなのである。
 勿論、そう人々に思わせるだけの物を作ることができた人間だけが、名前で値段をつけさせることができるというのもまた事実だ。それだけの地位を確立したということだけでも尊敬に値する。そう思わせられるからなおのこと、人々はその人に競って高い値札をつけたがる。



 土台芸術作品に値をつけようということ自体が無理なのだろう。しかし、芸術家だって霞を食って生きるわけにはいかない。そして、芸術作品に値札をつけることを生業とする人達もいる。そして、僕達の多くは、値札を見て初めて芸術家の存在を知り、その芸術性の高さを理解する。
 値札をつけなければ芸術は流通しない。ただ、その値札の中身は往々にして作品の価値と関係がない。
 値札を隠しても芸術とつながれるようになるにはどうすればいいのか。ゴッホ自身は、その答えのヒントくらいは知っていたのだろうか。


2003年02月03日(月) 綱渡りする「宿命」

 この週末、ショッキングなニュースが世界を駆けめぐった。しかも、またしてもアメリカ絡みである。
 スペースシャトルの空中分解。さすがハリウッドの国だけあって、あの9.11といい、まさに映画を地でいく出来事である。大空を走る一筋の閃光。やがてそれはキラキラと光るいくつもの細かい固まりに分かれて散ってゆく。まさに現実とは思えない映像だ。映画では、主人公達はこの危機一髪の状況から辛くも抜けだし、めでたしめでたしとなる。観客は手に汗を握っても、最後には安心できると知っているから、スリルを楽しんでいられるのだ。
 けれど、現実は勿論違う。



 事故原因については、いくつかの可能性が取りざたされている。僕自身は科学者でも専門家でもないので、その当否について論じる資格はない。ただ、一連の論議を見ていて僕が思ったのは、これはある種の「警告」であろうということだ。平たくいえば、「調子に乗るなよ」というメッセージである。では、誰に対してなのか?勿論、アメリカに対して、そして、人類全体に対してである。



 折しも、あのニュースが入った日の前日、僕はある人と「普通の人が宇宙旅行に行けるようになるのが早いか、それともクローン人間が一般化する方が早いか」について話していた。僕はクローン人間の方が早いといい、相手は宇宙旅行が先だといった。確かにクローン人間の方は怪しげな発表があったばかりなのに対して、宇宙旅行の方はスペースシャトルが最早実現しているし、宇宙ステーションの建設も始まりつつあるというわけだ。宇宙開発の技術の方が歴史は長く、成熟しているという印象なのに対して、クローン技術はまだまだ歴史は浅く、ましてや人クローンに関してはその是非が論議の的になっているくらいだ。そんなこんなを考え合わせれば、人がもっと気軽に宇宙を旅することができるようになることのほうが、ずっと近道であるかのように思われてくるのも無理はない。「2001年宇宙の旅」をはじめ、宇宙をテーマにした映画や漫画・アニメの類(その多くはSFである)は数多くある。僕達は、もはや宇宙旅行をイメージの世界で「体験」した気にすらなっていた節もある。技術は着実に進歩している。後は時を待つだけだ。少なくとも先進国と呼ばれる国々に住む多くの人々は、漠然とそう考えていたとしても不思議ではない。
 そして、世界に先駆けて人間を宇宙に送り込んだアメリカという国は、自らの技術力の高さとその確かさを疑っていなかった。それは、とりもなおさず自分達が世界の、いや人類の「リーダー」であることの証だったのだ。



 今回のコロンビアの事故は、そうした人類の技術に対する考え方が、「思い上がり」に等しいものだということをまざまざと見せつけたものだ。事故についての解説を聞くにつけ、スペースシャトルという乗り物は、揺るぎない技術力の上に作られたもので、いわば当然のように宇宙へいって帰ってきているということでは全くなかったということがはっきりしてくる。
 この20年というもの、当たり前のようにシャトルは飛び続けたのだが、それは決して当たり前のことではなく、いわば綱渡りだったのだ。それも、綱というにはおこがましいほどの、まさに糸のようにいつ切れてもおかしくない程の心許ない綱の上を渡っていたのである。いや、ことによったら、それは綱渡りですらなく、マルクス流にいえば「命がけの飛躍」だったのかも知れない。はなから足下には何もなかった。それを「科学技術」という細い細い「綱」で何とか支えているように見せかけていたのだ。そのことにもっと早く気付くべきだったのだ。しかし、「飛躍」が回を重ねるうちに、人類は恰も自分達がうまく綱を渡っているかのような錯覚に陥り、終いにはそれが「橋」ででもあるかのように思うようになってしまった。アメリカ政府がNASAの予算を削ったり、打ち上げ時のアクシデントを過小評価して飛行を続けさせたりしたことは、このことの証左であるように思われる。



 勿論人クローンでも同じことなのだが、人類の「技術力」とはその程度のものだ。人が「神」の領域の征服を目指してこれまで様々な発見や発明を行い、それが科学や技術を発達させてきた。それを僕達は「進歩」と呼んで歓迎してきた。それ自体を否定することはできないし、またどれ程危険が伴おうと、そこに未知の領域があればそこに踏み込んでいかずにはいられないのが人間の宿命だ。
 考えてみれば、人類が「直立歩行」という動物としては不自然きわまりない姿勢を選んだこと自体が「命がけの飛躍」の始まりだった。そのことが人類の「脳」の発達を促した。今述べた人類の宿命は、まさにそのことによって生まれてきたのだ。つまり、平たくいうと、僕達はいつでも「調子に乗る」運命を背負っている。そして、今回のように実際に犠牲者が出るまで、「頭に乗りすぎた」ということに気付かない。
 テキサス・ルイジアナの上空で、コロンビアはいくつもの光の固まりとなった。それが夜明け直後の青い空に尾を引いていくのを、地上のカメラが映し出す。そう、人間は元々空を見上げる存在なのだ。そして、空を見上げ、「飛躍」を夢見てしまうのもまた人間である。



 人クローンの誕生は間近だといわれる。今度は一体どんな予期せぬ出来事が起こり、誰がどんな形で犠牲になるのだろう。


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