思考過多の記録
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2003年01月27日(月) 保存できないもの

 パソコンのデータを移行しなければならなくなり、メーラーのデータをバックアップしていた。僕は何台かのパソコンを同時に使っているのだが、今回作業したのは2000年秋頃から去年の3月までの、主に週末に使用していたものだ。当然、メールもその時期のものである。
 その殆どは今でもメールのやり取りのある人達からのものだったが、その頃の方がメールの頻度が高かったことに気付いた。最近は時間と労力を消耗する度合いが高まっていることもあって、メールを書くにも気合いを入れなければならないという感じになっているのがその原因であろう。こうしてだんだんいろいろな人と疎遠になっていくのだろう。



 ほんの数年ではあるが、毎日の積み重ねの中で、僕自身と僕にメールをくれた人達の周囲は少しずつ、しかし確実に変化している。変化のただ中を生きている当事者という立場と、変化のゆっくりとしたスピード、そしてなだらかな連続性のために、僕達はそれと気付かないままに変化していく。だから、10年くらい連絡を取らなかった人間から見れば全く変わってしまったように見えるとしても、当事者である自分は殆ど変化していないように感じるということが起きるわけだ。
 今メールを読み返すと、この1,2年という僅かな時間の中で、僕達は驚く程変化した。そして、それが殆ど意識されていないことにもまた驚かされた。その一方で、あの頃と変わらずに、同じことを考え続けて堂々巡りになっていることもあった。そして、堂々巡りしているうちに、問題そのものを見失ってしまったこともあった。
 「人間はそう簡単に変われない」といわれる。しかし、よくよく見れば結構変わっているものだ。それが見るからに分かる大きな変化ではないから、根本が変化していないように見えるだけなのである。そして、関係を持つ片一方の側が変化しているとすれば、たとえもう一方に全く変化がなかったとしても、その2人の「関係性」は変化せざるを得ない。



 人は永久の愛や友情を求め、誓ったりもする。けれど、それが如何に困難であるかもまた知っている。死ぬまでこの愛は変わらないと確信して結婚した2人は、1年もしないうちにその愛の変化に気付くだろう。そして10年経てばその確信はお笑い種になり、20年も経てば確信していたこと自体を忘れ去る、という具合だ。あるアーティストの作品を熱烈に支持していた人が、数年後に同じアーティストの作品を悪し様に罵るというのは決して珍しいことではない。それは、そのアーティスト自身の作風の変化による場合もあれば、支持者側の態度の変化が原因の場合もある。いずれにせよ、そこには明確な「関係性」の変化が見て取れる。そして、これが重要なことなのだが、その変化を止めることは誰にもできないし、その変化は誰のせいでもない。



 愛や友情が変化していくのを見るのは、誰にとっても楽しいことではない。ましてや自分が当事者である場合はなおさらだ。それは悲しいことだし、時には身を切られるような痛みを伴うこともあるだろう。もしかすると、変化してしまったことにホッとするかも知れない。そして、ホッとした自分を嫌悪するかも知れない。
 勿論、転職や離婚など、自分の意思で「関係性」を変化させることもあるだろう。その場合でも、変化を望む自分がいたことは厳然たる事実だし、前の状態にとどまれなかったのは必ずしもその人や周りのせいというわけでもない。
 時間を止められないのと同じように、僕達は変化を止められない。そして、時間から自由になることができないのと同じように、僕達は変化から自由になることはできない。それは、この世に生を受けた者の宿命である。



 そして、だからこそ、僕達は変わらない愛や友情の物語を求め、それに憧れる。そして、方向性は少しずつ変化しながらも、あることを成し遂げようとする意思を貫いて行動する者に惹かれるのだ。
 変わらない愛など存在しない。けれど、形を変えながら存続する強い「関係性」の絆なら、辛うじて可能だろう。勿論、それを保ち続けることには相当な困難が伴うけれども。



 何故僕は、彼等にメールを書かなくなってしまったのだろう。彼等との「関係性」を変化させることを僕は望んではいなかった筈なのだ。変わってしまった「関係性」を目の当たりにして、僕は何だか悲しくなった。勿論、それは誰のせいにすることもできない。
 僕は全てのメールを保存した。けれど、それでメールをくれた人達とのかつての「関係性」までも保存できるわけではない。


2003年01月25日(土) 彼女の「反抗」

 僕の会社のある女性が、この3月に退職することになった。正確に言うと「転職」である。彼女はまだ30代も前半で、子育ての真っ最中である。言うまでもなく共働きである。しかも彼女の職場は殊の外忙しく、なおかつ彼女は組合活動も積極的に行っていた。入社以来、パワフルで豪快な彼女は、会社の内外から何かと注目されていたのである。
 そんな彼女の新しい職場は、何と公立の小学校。そう、彼女は東京都の教員試験を社会人枠で受験し、それに合格してこの4月から赴任という「内定」をもらったのである。



 僕は彼女とそれ程親交が深いわけではないので、彼女がもともと教員志望だったかどうかはよく分からない。けれど、もともと彼女は教員養成過程の出身ではなく、したがって教員免許も持っていなかった。つまり、彼女のチャレンジは、まず教員免許の取得から始まったのである。仕事と子育て、そして家事の合間に通信教育で教免を取得。それと平行して教員採用試験の勉強。1次試験は面接のみだが、2次は学科(水泳やピアノを含む)と模擬授業だったというから、大学生の受験者と基本的にやることは同じだったと言っていいだろう。
 彼女が凄いのは、学生は試験の準備に専念できる環境にある人間が大多数だろうが、彼女はそうではなかったということである。しかし彼女は、見事合格を果たした。これは言葉では言い表せない程の「偉業」だと僕は思う。仕事や家事・育児という日常生活の営みにどれ程の時間と体力と精神力を吸い取られるかについては、多くを語る必要はないだろう。それをこなした上での「合格」である。勿論、その陰には彼女の夫の理解と物心両面での支えがあったことは想像に難くない。



 彼女をここまで導いた原動力は一体何なのだろう。教育に対する情熱だろうか。もっと大きく、今の社会を変えようとする何らかのアクションだろうか。はたまた、母親の立場から、自分の子供達の世代に対する責任感のようなものだろうか。いずれにしても、彼女が元々持っている内からのパワーが、のしかかる日常の重みの中でそのモチベーションを保つことに一役買ったのだと思う。では、そのパワーの源は何なのか?そればかりは僕にもさっぱり分からない。ごく一般論を言えば、それは彼女の育った環境であっただろうし、彼女の親御さんの教育方針であったのだろう。
 まさに人は教育によって作られるということである。



 そういえば、僕もかつては何か「夢」とか「目標」を持っていたような気がする。会社の自分は仮の存在、本当の自分はやりたいことに向かって少しずつでも進んでいく、人からは見えない存在。そう思っていた。
 けれど、気が付けば日常の繰り返しに時間も労力も吸い取られ、いつしか自分が最も忌み嫌っていたその日常に居心地のいい場所を探すような存在に成り下がってしまっていた。僕も最初からモチベーションが低かったわけではないと思う。けれど、彼女を見ていると、生きていく上での「気迫」という点で全く負けているなと思わざるを得ない。
 人間は、歳をとるにしたがって現状に安住しようとする傾向が強くなってくる。だから、当然それに抗うために必要な力も年々強くしていかなくてはならない。けれど、やっかいなことに、現状に抗う力は年齢に反比例して低下していくようにできている。それはおそらく、生命力の低下そのものだと思う。「理由なき反抗」は若さの特権だ。大人達は理由があっても反抗などしないだろう。彼等は現状維持の理由を見つけるのに忙しい。



 4月から、子育てをしながら彼女は教壇に立つ。そして僕は、相変わらずこの会社の埃っぽい澱んだ空気を呼吸しながら、1日を何とかやり過ごすために労力を使い続けるのだろう。それで終わってはいけない。このままでは、彼女との年齢差よりもずっと早く、僕は墓場に到達することになるだろう。


2003年01月21日(火) 「優しさ」は武器にはならない

 この日記でも以前触れたことのあるフジテレビの「あいのり」という番組を偶然目にした。前後関係は全く分からないのだが、ある男が女に告白していた。ドキュメント仕立てとはいえ、バラエティ番組だということを本人達も自覚していることと思う。男はやけにクサイ台詞をはく。
「僕と一緒に、ずっと夢を見続けてください。僕と一緒に日本に帰ろう。」
 女は答える。まるで中学生の告白タイムのようだ。
「やっとあなたの優しさが分かった。ずっと見守ってくれていたんだね。でも、今私は恋心が芽生えていて、今まで経験したことのない感情なの。だから、私日本には帰れない。」
 昔のねるとん流にいえば「お願いします」「ごめんなさい」という展開である。



 このシーンを見ながら、僕はこれまで自分の身に訪れた恋愛物語の数々の結末を思い出していた。大抵の場合、僕は相手の女性から「優しい人」と思われていた。勿論、それにはそれなりの根拠があっただろう。僕にとって、自分の好きな人を喜ばせ、幸せを感じてもらうには、相手に対して「優しく」なるしか方法がなかったのだ。
 大抵の場合、それは相手に評価された。「ありがとう」と言われたことさえあったと思う。けれど、それと恋愛の成就とは全く別問題だった。僕の「優しさ」は確かに相手に伝わったけれど、それが相手に僕に対する恋愛感情を起こさせることはなかったのだ。
 つまり、「優しさ」は恋愛を成立させる一つのファクターではあっても、絶対条件ではないのである。少しも優しくない男に平気で惚れる女もいる。また、同じ「優しい」なら、相手がイケメンであるにこしたことはないだろう。



 ことは何も恋愛だけの問題ではない。「人に優しく」などというけれど、「優しさ」で全てが解決するわけではない。どんな場面であれ、人は「優しさ」を発動することで自分や自分の所属する集団が不利になるのなら、敢えて「優しく」なろうとはしないものだ。勿論、そういうときこそ「優しく」なることが本当の「優しさ」なのだと思うが、それが如何に困難なことかを証明するための例には枚挙に暇がないだろう。自分の子供に「優しさ」を説く親が、自分の子供の利益を守るために他人の子供を押し退けたりするのはよくあることだ。
 この世の中、というよりもこの世界は、そうして成り立っているというのがむしろ実態に近いだろう。「優しさ」は戦争を止めることができないし、飢餓や差別を消し去ることもできない。


 ポップスは「優しさ」に万能の地位を与え、「優しく」なろうと歌いかける。
 けれど、「優しさ」はこの世を生き抜くための武器にはならない。特に、誰もが自分を守ることに精一杯のこの世界では。「優しく」なったからといってご褒美がもらえるわけではないからである。そして、それは誰のせいでもない。
 僕の「優しさ」を受け入れながら、決して僕を恋人として受け入れなかったあの女性達を責めることはできない。何故なら、恋愛とはそういうものだからである。そして、それを僕はどうすることもできない。
 「優しさ」は、恋愛に対して無力だ。まるで、世界に対してそうであるように。


2003年01月05日(日) 離れてしまった人生

 今年もいろいろな人から年賀状をいただいた。僕の場合、主に高校時代くらいからの友人や恩師などが中心である。普段は会う機会は殆どなく、年賀状のみで消息を確認し合う人達が多い。
 僕が高校に入学してから早いもので20年以上が経過した。その後OBとして出入りしているときに知り合った部活動の後輩達とも、もはや10数年来の付き合いということになった。結婚をするなどして連絡先が分からなくなってしまった人達も多いが、それでも名字が変わった何人かとは今年も年賀状をやりとりした。



 時の移ろいとともに、相手の状況も変化してきている。学校卒業後の進路の報告から始まり、結婚式の写真。生まれたての赤ちゃんの写真、その子供の七五三、入学式と、その時々の写真を添えて年賀状の報告は続いていく。
 今年は、高校時代の友人が大学卒業以来ずっと勤めていた会社を辞めて転職したことや、高校の部活動の顧問だった先生が遠い第3世界の国でNGO活動をしていたことを初めて知った。子育てをしながらパートを始めた後輩や、やはり子育ての傍ら事務の仕事をやっているという大学時代の知人の年賀状もあった。



 僕に年賀状をくれる人達の多くは、過去に教室や部活動、演劇活動等を通して僕と多くの時間を共有し、また共通の目的や方向性をもって一緒に活動した時期があった。その時期が終わり、それぞれ別々の場所でそれぞれの日常を生き始めてからも既にそれなりの年月が経過し、さらに変化の時期を迎えているのだろう。いや、それぞれの日々の生活の中にも少しずつ変化の兆候はあり、その積み重ねが年賀状の短い文章に凝縮されているという方がおそらく正しい。
 あの頃すぐ近くにいた人達が、物理的にも隔てられ、これだけ違った方向で人生を歩んでいるというのは、何だか不思議な感じがする。けれど、考えてみれば、これだけ違う方向に人生が進んでいく人達が、日々の時間かなりの部分をともに過ごし、同じ悩みや喜びを分かち合いながら日常を共有している「学校」のような場所こそ不思議な空間なのだ。それはある活動を複数の人間が共同で行うある種の集団についても言えるだろう。会社にしても、定年後や途中退職後の人生は、人によって驚く程違ってくることは言うまでもない。



 そしてこれは、逆の立場、すなわち相手から見た僕についても言えるだろう。「季節が君だけを変える」という歌があった気がするが、そうではない。季節は自分も変えているのだ。ただそれが自分には見えにくいだけである。だから、「あの頃」の自分がもし今の自分を見たならば、きっと同じように不思議な気持ちになるのではないかと思う。



 人と人が出会うこと、そしてその人達が同じ場所で同じ時間を共有することの不思議さ。そして、その場所を離れたときにその人達が選択する新しい日常の多様性の不思議さ。それを考えるとき、今この場所で、時間と活動の方向性を共有する人達、またこれからそうなるであろう人達の存在の大切さ、その時間と場所のかけがえのなさが逆に実感されてくる。
 そして、出会い、時間の共有、そして別れを繰り返す人の一生という営みの重さと深さを思うと、ある種の感慨が湧いてくる。



 僕は今年、年賀状をくれた人達の何人かと実際に会ってみるつもりである。もしかするとその時、全く違ってしまった人生の方向性の中に、あの頃共有していた時間の痕跡を発見できるかも知れない。その人と自分、またあの頃と今の違いと共通性。それを僕は一つ一つ確認したい。それこそが人が生きていくということそのものなのである。



そして、明日から僕の慌ただしい日常がまた始まる。


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