思考過多の記録
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2001年01月27日(土) 競争と共生

 グローバル・スタンダードということが言われて久しい。「グローバル」とは実質的には「アメリカ」のことである。規制緩和とかいろいろなことが言われているが、要するに「競争原理」の導入であり、「自助努力」「自己責任」ということである。最初は純粋に経済の話であったが、非常にわかりやすく、いい考え方のように思われたため、これが教育をはじめ社会の様々な分野で声高に叫ばれ、そのためのシステムが構築されるようになった。そして今や年金にまでこの原理が取り入れられようとしている。確定拠出型年金、所謂日本版401Kというやつだ(この制度も、元々はアメリカのものだ)。詳しい解説は僕もできないが、早い話が、金融商品を使って自分が受け取る年金のための掛け金を運用し、その結果によって受給額に差が出るというものだ。うまくすれば掛け金よりも増えるが、運用に失敗すれば当然もらえる額は減る。この仕組みに対する関心が高いらしいが、バブル時の財テクで失敗した教訓を日本人は何も学んでいないようである。
 こういうものが出てくる背景には、現在の年金制度の将来に対する不安がある。それはおそらく正しい。このまま高齢化が進行すれば、近い将来現行の制度は破綻し、下手をすれば何も支給されないという事態になることは目に見えている。同じリスクを抱えるならば、自分の才覚によってはそのリスクを回避できる仕組みにした方がよい。そう考える人達がいて、方やそれをネタに商売(金儲け)をしようとする人達がでてくるのは自然の成り行きかもしれない。しかし、ここにはもはや「社会保障」という思想はない。これは紛れもなく、「自助努力」であり、「自己責任」による「競争」なのである。金儲けの才能のある人は豊かな老後を手にし、そうでない人は貧しく不安を抱えたまま老後を送る。この不平等は全て個人の責任で、社会(国)は関知しませんよ、ということなのだ。何ともジコチューなシステムではないか。
 そもそも社会保障とは、「みんなで助け合う」=「共生」という考え方である。そうやって社会を維持していこうという人類の歴史の中で生み出された知恵なのだ。確かに「競争」によって弱い者が淘汰され、強い者が勝ち残っていく社会的ダーウィニズムのシステムは、一見すると公正で公平であり、社会(国)の活性化につながりそうにも思える。だが、これは社会以前の状態、すなわち著名な社会学者の言葉を借りれば「万人の万人に対する戦争状態」に他ならない。結局はほんの一握りの勝者の他は全滅することになる。言うまでもなく、それはその社会の衰退を招くし、個人の立場からしても、より大きなリスクを背負うことになるのだ。となれば、より確実に生き残るためには、一人一人が相手を倒しながら力を付けることに汲々とするよりも、お互いに支え合う方が誰にとってもよいことになるのではないか。これは理想主義でも何でもない。
 北欧各国は社会保障制度が充実していることで有名だ。これは非常に高い消費税等の税金で維持されている。まさに「みんなで助け合う」=「共生」のシステムだ。国民の負担は大きいが、そのかわり子供の教育から介護・看護まで公的なケアが安心して受けられる。当然老後の不安も、我が国に比べて格段に小さい。だからかの国々の貯蓄率はきわめて低いそうである。どちらが国民一人一人にとって豊かで幸福な社会かは言うまでもあるまい。
 生物学でもダーウィニズムには根強い批判がある。自然淘汰の結果、環境に適応した個体だけが生き残っていくというシステムでは、環境が変化したときにその種は滅びるしかなくなるからだ。多様性を維持することが、結果的に種全体を永続させることになる。「競争」による敗者にも存在価値があるということだ。「競争原理」が支配する社会では確実に敗者になるであろう僕としては、その説の正しさを信じたい。


2001年01月26日(金) アマチュアの表現について

 アマチュアの出版が増えているそうだ。自費出版に近いものだが、制作費のいくらか(もしくは殆ど)を「著者」側が負担し、出版社と共同という形で出版する。出版社側は自社の販売ルートで売る。だから、まがりなりにも書店に並ぶわけだ。そして、売り上げ(利益)の何割かを出版社が取り、残りを「著者」が受け取るという仕組みだ。こうして出版される本の中から、ごくたまに何万分という単位で売れるベストセラーが出る。この現象を取り上げたテレビ番組で言われていたのは、「書きたいこと」があるのに、それを表現する手段がなかったり、表現の仕方が分からなかったりする市井の人が結構いるらしいということだ。
 アマチュアの書いた本でベストセラーになるものは、大抵「感動的な」内容である。生まれつき、もしくは不慮の事故によって重い障害を持った人が、周囲の支援を受けながら様々なことにチャレンジしてひたむきに生きていくとか、事故で幼い我が子を失ってしまった母親の手記、あるいはその子供の遺した日記や手紙をまとめたものなどである。番組に出演していた初老の大学教授は「プロの人の書いたものに比べて、一般の人が書いた素直な言葉が、読者の心に届きやすかったのではないか」と分析していた。確かにそういう面はあろう。また、所謂プロの著述業の人(作家等)の書いた‘作り物’の言葉の世界ではいかにもと思われてしまう内容でも、実際にそれを体験した人が生の言葉で書くと ‘真実’っぽく見え、その分説得力があるように感じられるだろう。だが、それでは‘作り物’には価値がないのかというと、そうではあるまい。
 僕はアマチュアの表現を否定しない。自分もそれをする人間の一人であるからだ。だが、それをどんな形であれ世に問うということになると話は別だ。例えば、不治の病に冒され、幼くして命を落としたある少女の日記には、家族の大切さを彼女が感じていたことが素直な言葉で綴られているという。彼女が亡くなってしまっているために、その言葉は胸を打つだろう。だが、「家族の大切さ」を感じているのは、何も彼女だけではない。また、それを彼女レベルの言葉で表現できる人は、おそらくかなりの数に上る。もしも、日々普通に生活している、本当に一般の人が同じ言葉を書いて世間に発表しようとしても、おそらくその場はないし、見向きもされない。理由は2つ。書き手が全く注目されない、そして、書かれている内容の陳腐さだ。「家族の大切さ」という手垢の付いた内容を、何処にでもいる人が書けば何の価値もないのに、不治の病に冒された人間が書くと注目され、共感を呼ぶ。まるで、人生の真実でも書かれているかのように扱われ、賞賛されもする。考えてみるとおかしな話だ。もっとも、似たようなことはプロの作品にもあって、こちらはもっぱら作家のネームバリューで売れたり売れなかったりするという、まさに「人気商売」といったところだ。
 金が取れる表現というのは、本来は技術と内容が勝負の筈である。その昔、「いか天」から始まるバンドブームというのがあった。アマチュアがバンドを作り、自作の曲を演奏するというもので一世を風靡したが、現在残っているバンドは皆無である。自分達の思いをストレートに表現するのは、実はそんなに難しいことではない。問題はそれをエンターテインメント、すなわち金が取れる表現のレベルにまで高め、なおかつそれを持続することである。それができる人間はそう多くない。だからこそ、それをやりおおせる人間は凄いと思うし、その表現に対してはお金を払ってもよいと思えるのだ。そういうわけで、僕はアマチュアよりも、プロの作家の書くもの(作り物)に興味があるし、期待している(期待はずれのことも少なくないが)。
 ところで、この日記は僕の自己表現であるが、これで金が取れるとは到底思えない。だから内容が独断と偏見に満ちていて、なおかついい加減だということでは決してないつもりなのだが。勿論、僕も劇作家の卵を名乗る以上、いつかは内容で売れる文章を書けるくらいにはなりたいと思っている。ちょっとストレートすぎる締めではあるが、アマチュアなので勘弁してもらおう。


2001年01月21日(日) 性的コミュニケーション

 以前、まだ僕が実際に女性と寝る経験をする前(どの位前の話かは、ことの性質上伏せておく)、ある女の後輩との酒の席で「セックスっていうのも、重要なコミュニケーションの手段の一つだよね」と発言したところ、「そうかも知れないけれど、そんな身も蓋もない言い方はしないで欲しいな」と言われたことがある。その時は意味がよく分からなかったのだが、実際にそういう経験をしてみると、成る程彼女の言いたかったことのニュアンスは理解できる気がする。ただ、それでも僕は、先の自分の発言は間違ってないと思っている。いや、むしろその正しさを再認識した。セックスこそ、ある意味で人と人とのコミュニケーションの縮図であるといえる。
 一例を挙げよう。よく取り上げられる女性側のセックスに対する不満として「感じさせてくれない」というのがある。男の側が一方的に高まり、終わってしまうということなのだが、これはしばしば、所謂‘テクニック’の問題と混同される。勿論そういう側面もあるのだが、それだけでは片付けられない。セックスはもっとメンタルなものだ。これは、要するに男が相手の状態を考えていない、ディスコミニュケーションの状態なのだ。男と女とでは、性的な快感に関しての特性がそれぞれ違う。勿論、個人差もある。それを無視して、一方的に自分の快楽のみを追求しようとしてしまう。そして、自分がそれを満たしてしまえば、それで満足してしまう。これは、相手の気持ちを考慮せず、その主張に耳を傾けることもせず、一方的に自分の主張をまくし立てているのと同じだ。当然、こちら側の言いたいことも相手には伝わらない。しかし、自分が言いたいだけ言ったからそれで伝わったと思い込んでしまう。これはとりもなおさず、その相手を対等なコミュニケーションのパートナーとして扱っていないということなのだ。「男性」の持つ「攻撃性」という性的な性質上、また長らく続いた男性優位社会の反映(=ジェンダー)という側面もあり、男の側がかなり自覚的にならないとこういう状態は防げない。勿論、女性側に全く問題がないということではない。大切なことは、お互いが対等なパートナーであるということを認識することである。どちらかが常に我慢を強いられていたり、一方がもう一方の欲望を充足させるための手段にされていたりするのは、関係のあり方としていいとは言えないだろう。
 相手に性的な満足を与えるというと、どうしてもテクニック的な話になってしまう傾向がある。確かに、テクニックはないよりあった方がいいだろう。言葉によるコミュニケーションの場合でも、‘話術’というテクニックがある。しかし、上辺だけのテクニックに頼った言葉が人の心をつかまないのと同じように、テクニックだけのセックスでは思うような快感が得られない場合が多い。テクニックは、あくまでも「自分の気持ちを表現する手段」として存在するのだ。気持ちが通じ合っていれば、たとえありふれた愛撫の仕方でもお互いに大きな満足を得られるところは、まさしくコミュニケーションの真骨頂である。
 この手の話は「下ネタ」という扱いからも分かるように、ともすると隠されるべき問題とされ、また興味本位で表面的な部分だけ誇張されて語られることが多い。「気持ちよければいいじゃん」というもっともな意見もあろう。しかし、問題はその気持ちよさの中身である。考えてみるとセックスというのは、男と女が生まれたままの姿を見せ合い、一番無防備な状態をさらけ出す営みだ。セックスが軽くなって久しく、別に好きもでない相手とでも寝てしまう人も多い。とはいえ、ある程度以上の信頼を相手に対して持っていないと、そこまではできないと感じる人間がまだまだ多数であろう。それはおそらく、自分にとって全てをさらけ出すことができる、心から信頼できる相手というのはそんなに多くはないということを意味する。であればなおのこと、ベッドの中では相手ときちんと向き合いたい。そして、お互いの愛情を確認したいものである。
 セックスというテーマは非常に奥が深く、僕ごときがこんな短い文章で語り尽くせるものではない。今の僕にベッドの中で愛を語り合う相手がいれば、もう少しまともな考察ができるのかも知れないが、まだまだ「身も蓋もない」内容しか書けないのが寂しい限りだ。


2001年01月20日(土) 「成人」について

 些か旧聞に属するが、今年の成人式では各地で新成人の傍若無人ぶりが目立ったようだ(別に今年が初めてというわけでもないのだが)。特に、新成人が集団で酒盛りしたあげく、挨拶中の市長にクラッカーをぶつけた高松市と、県知事の挨拶中に新成人が「帰れ」コールをして知事に「うるさい!出ていけ!」と一喝され、「お前が出ていけ!」と言い返した高知県の成人式はつとに有名となり、そのシーンはしつこいくらいに何回もテレビで放映された。そしてこの2つの成人式、とりわけ高松の‘事件’をマスメディアは「マナーが悪い新成人」の象徴的な例として好んで取り上げ、スタジオではコメンテーターやキャスターがセオリー通りに眉をひそめてみせたものである。僕はこれについてこの日記でふれようと思っていた矢先に、例のインフルエンザにやられてしまった。時はたったが、それでも敢えて書かせてもらう。
 僕は前々から成人式自体を廃止すればいいと思っている。大体、「大人」(成人)というのは誰かに認定されてなるようなものなのだろうか。しかも、よりにもよって何故地方自治体などにされなければならないのか? 百歩譲って「社会」が祝うということだとしても、その代表が地方公共団体やその長のわけがない。もし彼等が本気でそう考えているのだとしたら、相当な厚顔無恥である。その上、祝辞を述べる地方自治体の長達には「君達は成人になったんだよ。つまり、選挙権を持ったということなんだ。ついては、次の知事(市長・町長・村長)選挙をよろしく。僕の顔を覚えてね」という下心が見え隠れする。そういうことは一切問題にされず、大人達は皆‘厳粛な’成人式にこだわり、「人の話を黙って聞くというモラル」なるものを持ち出す。挙げ句の果てに「こんなマナーの悪い新成人達のために、税金を使って成人式などやってやることはない」などと言い出す始末だ。僕に言わせれば、話は全く逆である。初めからこんな空虚なセレモニーは不必要なのである。それは大人の都合とは関係ない。
 そもそも、20歳を境に子供から大人に変わるという考え方そのものに無理があるのだ。何故なら、もともと「子供」なる存在はそれ程遠くない昔に「作られた」存在だからである。未熟であるが故に、保護され、「大人」の監督の下で教育されるべき「半人前」の存在。そういうものとしての「子供」時代を創造(捏造?)したのはルソーである。それ以前には「子供」「大人」という区別はなく、年齢の比較的低い人間でもみんな役割を与えられていたし、それに伴う責任だって負っていたのだ。当然、「子供」向けの遊びや「子供」向けの情報(童話や児童文学等)といったものもなかった。みんなが「一人前」として扱われていたのである。日本でも、「子供」という思想が輸入され、一般に普及したのはそんなに昔の話ではない。要するに、「子供」は自明の存在ではなく、歴史性を持ったものなのだ。元々ありもしない「子供」=幼年期・青年期という存在として自分達が勝手に規定しておいて、「さあ、もう保護された時代は終わりだ。これからは晴れて我々の仲間入りだぞ」などと「大人」が恩着せがましく言っているのが成人式の正体なのである。先に大人になっていた自分達が「偉い」という状態を見せつけ、それを維持したいがためにやっているだけとも言える。何とも滑稽な話ではないか。
 そんな「大人」の魂胆など、今の新成人達はハナからお見通しなのである。クラッカーを投げつけないまでも、私語や携帯で式を全く無視しているという態度に対して「マナーがなっていない」と目くじらをたてた大人達がいたが、無意味なことに対する素直な反応と考えれば、むしろ当然のことである。「大人」が「大人」なだけで偉い時代は終わったのだ。ついでに言えば、「子供」を「子供」に閉じこめ、「大人」と切り離して扱うのも、いい加減にやめよう(法律を適用すれば「大人」扱いしたということではない)。問題は人間としての中身である。中身が空虚でない、聞く価値があることを話せば、若者だってちゃんと耳を傾ける筈だ。社会の変化についていけていないのは「大人」達の方なのである。
 という具合に新成人達の行動に溜飲を下げていたところ、なんと騒ぎを起こした高松の若者達が自ら名乗り出て逮捕されるという最悪の‘オチ’がついた。「大変なことをしてしまった」と反省していると、これを伝えるニュースは得意げだ。いやはや。彼等も所詮は「子供」だったということか。ともあれ、これでまた暫くの間「大人」達は増長するだろう。その姿の醜さに気付かないのは、他ならぬ「大人」達だけである。


2001年01月16日(火) 高熱について

 ほぼ5日間、インフルエンザで寝込んでいた。微熱が出た初日、近所の医者に行ったところ、お年寄りばかりの待合室で結構待たされたあげく、まさに‘3分医療’を地でいく短さで「軽い風邪ですね」と診断され「2日くらいで治ります」と薬を渡された。ところがその次の日の午後から高熱が出始め、薬を飲み続けてもそれを無視するかのように熱は下がらなくなってしまった。おまけに腰は痛くなるし食欲はなくなる。たまらず週末に同じ病院に行ったところ、前回と全く同じ3分医療を行った同じ医者は「ああ、これはこの病院で確認された、インフルエンザ第1号ですね」と明るく言い放った。結局自然に熱が下がっていくのをただ待つしか手がないという時期になっていたので、同じ薬をもらってきて、ひたすら寝ていた。何のための医者なのか、よく分からない。
 高熱が出ると、さしもの思考過多な僕もまともに考えることなどできない。僕の場合は、大体38°くらいが境目になる。それに、同じ部屋の風景を見続けているのだが、平熱の時と見え方が違うのだ。どう違うと言われると説明に困るのだが、熱が冷めてみるとそのことが逆に分かる。医者に向かう道も、確かに歩き慣れたいつもの道なのだが、やはり少し違って見える。第一、自分の足が地面を蹴る感触からして違うのだ。そして、平熱に戻ってしまうと、決してそれを再現できない。
 「熱病」「熱狂」「熱を上げる」などの言葉からも分かるが、平熱より高い熱を帯びているとき、人は普段とは違う世界を見ている。そして、まともな思考ができない状態になっている。何も考えられず、視野が極度に狭まった状態。それが熱に冒された人間の姿だ。しかし、その時見えている世界が、全くの幻覚だというわけでもないだろう。ただ、熱に冒されたた視神経が、網膜に投影された像を若干歪めて認識することはあるかも知れないけれど。
 熱に冒された人々を批判するのは容易い。しかし問題は、人々をヒートアップさせているのは何なのかということである。それは単なる風邪なのか、はたまたインフルエンザなのか、そうだとすればどんな型のウイルスか、あるいはもっと別の病気の前触れか。それを知ることなしに適切な処方箋を示すことはできない。
 ただ一ついえることは、一時的な熱狂はいいとして、基本的には平熱で生きる方がよいということだ。熱病・熱狂の何も考えない、視野狭窄の中の世界だけを見続けていると、いざ平熱に戻ったときの世界とのギャップに耐えられないからだ(国中がそういう状態に陥ってしまった光景を、僕達はあのバブルの崩壊直後に見ている)。平熱に戻ることを拒否して、高い熱を維持したまま全ての器官がいかれるまで突っ走るというのも、勿論ひとつの生き方ではある。高熱の幻覚が見せる病的にして美的な世界と、全ての熱が失われた永遠の静寂が支配する世界。一方から一方へと一気に駆け抜ける精神力と体力、そして勇気に覚えのある人は挑戦してみる価値はある。そのままあちら側の世界に行ってしまうのは、決まって「狂人」か「天才」、すなわち芸術家である
 そして、凡人である僕は、今日から「会社」という厳しい平熱の世界に復帰しなければならなかった。できることなら高熱の世界でトリップしていたいが、その勇気も体力もないというのが正直なところである。


2001年01月06日(土) 選択肢

 去年僕の舞台に出演してもらった女優の卵の人に久しぶりに会った。今日から自分が所属する劇団(学生が中心)の春の公演に向けての稽古が始まるそうだが、彼女はそのさらに次の芝居の劇場を押さえようしていた。彼女は美術系の大学生で、今年3年になる。学生やフリーターをしながら劇団活動をしている人間は、僕の周りにも、彼女やその仲間意外にも結構存在している。ただ、彼女(と彼女の劇団のメンバーの多く)は劇団を旗揚げした一昨年あたりから、はっきりと「職業」=「食べること」を意識しているのだ。これは凄いことだと思う。
 若いということは、あらゆる可能性に溢れているということだとよく言われる。それは決して間違ってはいない。だが、それが全て実現可能であるということとは別問題だ。ましてや「食べる」ための手段にするためには、ある程度以上の力が必要とされる。それが所謂‘虚業’(芸術)系のことであればなおのことだ。彼女はそのあたりのことを実に冷静に見極めていた。自分の役者としての実力がどれだけのものであるかを知るために、幾つかの事務所(劇団や芸能プロダクション等)や舞台のオーディションを受けていたのだ。一番最近受けたプロダクションでは、最終選考まで残ったそうである。彼女はそういう経験を通して、自分の実力や売り込めるポイント等をかなりの程度まで把握していたのである。それだけではなく、そうすることで少しでも多くの方面に繋がりを作り、声をかけられるチャンスを増やしたいという狙いもあってのことなのだ。自分が所属する学生劇団はさておき、自分自身がいかに役者として「食べて」いけるようになるかを追求する彼女。一見仲間に冷たい女性とも思える。しかし、それが本気で役者を自分の「職業」にしようという彼女の意思の強さを表しているとも言えるのではないか。
 その上、僕が「若さの特権」と思えてならなかったのは、彼女が役者の他にも幾つか進みたい方向(=「職業」)を持っていて、どれを選ぶのかについて悩んでいるということだ。写真・美術関係・旅行雑誌の編集者…。成る程、僕の目から見ると、彼女はそのいずれにもある種の才能がある。今からでも本腰を入れて力を伸ばしていければ、ある程度ものにはなりそうだ。まだ彼女自身、役者程にはそれらについて自分の力を客観的に知るための試みを行っていない。結論を出すのは、それをやってからでも遅くはないのではないかと、僕は彼女に言った。若いということは、時間があるということなのだ。「僕も昔はいろいろやりたいことがあったんだよな」と言う僕に、彼女は「そういうのって、だんだん捨ててきてしまうものなんですかね」と少しだけ寂しそうに言った。
 幾つもあった筈の選択肢から、人は意識的に、もしくは無意識のうちに一つ一つ外していく作業をする。その全てを極めるのは、余程の才能の持ち主でない限り不可能だからだ。しかし、残ったものが最良である保証はない。場合によっては、選択の結果が正しかったかどうか死ぬまで分からない。だが、僕の失敗は、試すことなく捨ててしまった選択肢が幾つもあったということだ。それは、おそらく僕が自分の進みたい方向を、本気で追求しようと思っていなかったからである。越えられそうもない「現実」という壁の前で、選択肢を持っているということだけで満足するという、一番安易な選択をしていたのだ。そして今の僕は、何も選んでこなかったことの結果である。
 現在の僕の持っている選択肢は、最早殆どない。だが、いつの日か僕も彼女のように、地に足をつけて自分の力を試す機会を作ろうと思う。僕は彼女と違って若くはないので、時間はないのだけれど。

※彼女が所属する劇団α.C.m.e(アクメ)のHP
http://www1.interq.or.jp/~mikazuki/


2001年01月04日(木) 有機的無機体

 新年の挨拶に訪れた従兄弟が、ロボット犬・アイボを持って(連れて?)来た。発表と同時にかなり話題になり、ネットでメーカが行った初回の販売予約受付時にはあっという間に完売したという、話題のあれである(厳密にいうと、彼の持ってきたものはその後発売された量産モデルである)。従兄弟の説明によれば、買ってきた当初はまだ「生まれて間もない」という設定で、立ち上がることもできないのだそうだ。その状態から、いろいろな動きや言葉、芸等を覚えさせていくということだった。アイボは持ち主(飼い主?)の言うことを学習し(飼い主の付けた名前を覚えるあたりから始まるそうだ)、徐々にできることも増え、知能的には青年期の状態まで成長するそうである。
 また、「シーマン」などのゲームでもそうだが、アイボも飼い主の飼い方によって成長の仕方も性格も変わってくるらしい。例えば、飼い主があまりかまってあげないと、アイボはふてくされた性格になる。この辺は結構リアルにできていて、ご主人様が何か命令しても、機嫌が悪ければ実行してくれない。何かしたことに対して褒めてあげれば喜ぶ。あらかじめインプットされているプログラムに乗っ取って幾つかのパターンを組み合わせているだけだと分かっていても、それがいつどんな組み合わせで出てくるか全く分からないので、恰もアイボ自身が意思を持って動いているかのように見えるのである。
 生命体かと見紛うアイボであるが、本当の生物と大きく異なる点が幾つかある。臭いはなく、排泄もしない(排泄の真似はする)。サイボーグチックな外観と併せて、そのあたりは(おそらく意図的に)無機的に作られている。そして、何よりも大きな違いは、彼(?)機嫌が目にあたる部分の表示の色によってすぐ分かる仕組みになっているということだ。機嫌のいい時、彼の目は緑色に点滅し、電子音が鳴る。逆に不機嫌の時は、目は赤色に点滅し、いかにもご機嫌斜めという感じの電子音が鳴る、といった具合だ。本当の生物の場合、我々人間も含めてこうはいかない。犬が吠えている時、それは機嫌がいいからなのか、それとも侵入者への警戒の意味なのか、それだけでは判別がつかない。尻尾を振っているか等々、その他の要素を考え会わせて、犬の機嫌や意思を推し量る以外に僕達には方法はない。そして、しばしばその判断は間違っている。これは実は結構難しい作業である。猫に至っては、何を考えているのか皆目分からない。この基本的に分からない生物同士(人間と人間、人間と動物、動物と動物)が何とかお互いの意志を伝え合おうとする営み、それこそがコミュニケーションというものである。自分の意思が相手にできるだけ正確に伝わるようにと、人間を含む動物は知恵を絞ってあらゆるコミュニケーションの方法を編み出してきた。どんな精神状態なのかが一目瞭然のアイボは、コミュニケーションの一番困難な部分を回避することを可能にしているといえる。勿論、これは玩具だから許されることだ。逆に言えば、現実世界で生身の人間や生物相手のコミュニケーションがいかにしんどい状態になっているかが、アイボの設計思想に現れているのではないかと思われる。
 アイボに関してもう一つ興味深かったのは、僕の両親や叔父達といった比較的年齢の高い世代は、アイボを「可愛い」とは思わなかったのに対して、パソコン店で販売員をしていて、ゲームにもネットにもどっぷり漬かっている僕の従兄弟は、他ならぬ飼い主としてアイボを可愛がっているという事実だ。義理の叔母が「本物みたいに毛が生えていて、暖かそうな方がいい」と言っていたのが象徴的である。今の若い世代の男は、例えば藤原紀香のような女性的な肉体美(有機的)を強調するタレントよりも、浜崎あゆみのようなサイボーグ的(無機的)な細身の女性を好む傾向があるという話を聞いた。生物という有機体に過剰な生命力を見出して、それを疎ましく思う感覚があるのかも知れない。本物の犬よりも、テクノロジーで精巧に作られたロボット犬により可愛さを感じる、そんな人間が多数を占める時代が遠からずやってくるだろう。ロボットと人間が共存する世界は、もはやSFの話ではない。
 ところで僕はといえば、アイボに面白さを感じ、もし自分がこれを手に入れたら日がな一日かまって遊んでいるだろうなと思う反面、このテクノロジーをもってしても完全には再現できないほど巧妙に、かつ精緻に造形されている本物の犬のことを考えるにつけ、改めて生命の神秘的な力に畏れを抱くという、誠にアンビバレントな精神状態になってしまったのだった。


2001年01月02日(火) 男と女の戦い

 今世紀初の日記である。とはいえ、そんな実感は全くない。年末(といっても数日前だが)の日記にも書いたが、20世紀の終わりも21世紀の初めも、特に意識しなければ時間はいつもと同じように過ぎてゆく。ただ、僕は1年のうちでこの年末・年始の数日間が最も好きだ。何故かは分からないけれど、とにかくできることは今年のうちに片付けておこうと国民挙って気忙しくばたばたと走り回る年の瀬は活気がある。それが除夜の鐘を境に、そんなことは全く忘れたかのように街全体が静かになる正月の、どことなく静謐な、そしてその中にも華やぎが感じられる雰囲気。まるで新しい年の日常の喧噪が始まるのをじっと待つような、一種期待に満ちた静けさ。2つの異なる雰囲気がわずか1日で入れ替わるこの時期は、僕達も心をリセットする機会を与えられる。
 そんなわけで、その2つの雰囲気がちょうど混じり合う大晦日の夜、僕は紅白歌合戦を見ていた。「大晦日に紅白」というのは一昔前の日本人の年越しスタイルで、最近はこれにとらわれない人達も多い。また、歌手の方でも昔はステータスであった「紅白」の出場を辞退するのが、逆にステータスであった一時期があった程である。最近ではNHKの努力もあってか、若手のかなりメジャーな歌手が出場するようになった。そんなわけで僕としては、ショーウインドウを見るような感覚で毎年あの番組を見ている。出場歌手の顔ぶれを見ていて気付いたのだが、白組(男性)のポップス歌手は、その殆どがグループやバンドだった(ダ・パンプ、スマップ、野猿、TOKIO、ラルク・アン・シエル、ポルノグラフィー等)のに対して、紅組(女性)ポップスの方は浜崎あゆみ、鈴木あみ、小柳ゆき、hitomi、aiko、安室奈美恵等、ソロボーカリストがずらりと並んだのだ。男のソロは、平井賢あたりを除けば、演歌か郷ひろみ、西条秀樹といった‘往年のスター’ばかりという有様だ。紅白の外側を考えても、宇多田ヒカル、倉木麻衣、ミーシャ、ココといった女性R&Bのボーカリストや、椎名林檎のような個性派等、ソロでの活躍が目立つのは女性陣である。
 ここ数年、どの世界でもリードしているのは女性という状況が続いているように思われる(シドニー五輪でも、活躍が目立ったのは女子の方だった)。男性中心社会が続くこの国でも、今や恐いもの知らずの元気があるのは女性の方だ。かつて強かった男社会側からの重圧は弱まり、彼女たちは伸び伸びと意見を述べ、自己表現をしたり、そのための技術を磨くことができるようになったのだ。かくして、実力と華の両方を備えた魅力的な人材が女性の中から多く出てくるようになる。それを同世代の女性達が支持し、そのことが時代の空気となってますますその女性アーティスト達を輝かせるというわけだ。だから女性は、1人でも堂々と勝負できる。
 それに対して男性は、かつての「男らしさ」という価値観や男性中心の考え方はもはやアナクロニズムになり、それに変わる拠って立つべきものも見いだせずにいる。このような状況なので、元気が出せるはずもない。それで、バンドやグループという‘チームワーク’で対抗するくらいしかなくなってしまった。アナクロニズムから抜け出せない男性が1人で歌うと、どうしても演歌になってしまうのだ。当然、それは時代の追い風を受けることはできない。‘往年のスター’達の健在ぶりは、その後を受けてたった1人でも観客を魅了し、時代と寝ることができる男性アーティストの不在を浮き彫りにしている。
 男が、これまでとは全く違った価値観を見出し、それを纏って世の中で活躍し始めた時、初めて紅白(男と女)は互角の戦いができるのではないかと、自分が男であることを棚に上げて僕は思ったのだった。
 以上が、かなり独断と偏見に満ちた2000年の紅白の概観である。日本のミュージックシーンをちゃんと語ろうとすれば、こんなことでは済まされないだろう。しかし、今はまだ正月。リセットから復帰したばかりのまだ醒め切らない頭での思考ということで、大目に見てやっていただきたい。
 今年もこんな調子である。昨年と変わらずご愛顧を賜り、引き続きお付き合いをいただければ幸いである。


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