I wanna Keep A-Rockin'
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2001年07月13日(金) 生まれて初めて便秘になった!

いや〜、今日も暑かった!
と言っても、冷房の効いた部屋でゴロゴロしてただけなんだけど。

それで、今日の鈴木君、生まれて初めて便秘なるものを経験しました。
昨夜から何となくその兆候があって、胃がもたれて、ちょっと気持ち悪かったのよ。

で、新三共胃腸薬を飲んで寝たんだけど、今日になっても、胃もたれ感というか、下腹部が重い。
便意はあるんだけど、出ない。
普段、快便だから、前にいつしたのかも覚えてない。

10分おき位にトイレに駆け込み、素っ裸になって汗だくで踏ん張って、なんとか少しづつひねり出しました。

いや〜、辛いもんだねえ。
カミサンに「コーラック」を買ってきてもらって、夕食も食べずに寝ちまいました。

以上、変な話題で失礼しました!
たまにはこんな日記でもいいでしょ? って言うか俺の日記なんだから俺の自由だ!

終わり。


2001年07月12日(木) 山谷崖っぷち日記 / 大山史朗

●本:大山史朗著「山谷崖っぷち日記」を読み終えた。
この本との出会いは、以前の日記に書いたので割愛。

自らを「人生に向いていない人間」と称し、建設作業員として山谷のドヤ街のベッドハウスの住人となった筆者が、そこで起こる「日常」と、それに対する見解を淡々と記している。

隣人との微妙なスタンス、仕事の奪い合い、健康管理、そして「山谷」という、世間の底辺に集まる様々な人間模様 … 好奇心を満たすには充分な内容だったが、俺が一番共感「してしまった」のは、筆者が山谷の世界に足を踏み入れた時の、諦めのような想いだった。

「私の生活破綻は、おおよそ次のような形をとってきていた。まず、職業生活(会社員生活)に対する過剰なほどの適応意欲から始まるのである。(中略) 集団生活に対する深刻な忌避感と恐怖感から逃れるべく、私はまず、何はともあれ、職業生活の発端において、過剰なまでの適応意欲を自らかきたててしまうのだ。しかし、無理が続くわけはない。(中略) 心身症とも言うべき身体の変調に見舞われるとともに、急速かつ徹底的に出社への意欲が失われてゆく。適応への最初の意欲が強すぎるからいけないのではないかと思うことはあるが、職業生活の開始にともなうこの最初の過剰な適応意欲を制禦することは、とても不可能なのだった。したがってまた、三ヶ月から二年ぐらいの周期で起きるこの意欲の断裂も、避けることができなかった。」

この、集団生活の発端における適応意欲と、その断裂こそ、俺の人生の流れそのものなのだ!
学生時代のサークル、バンド、会社員生活と、すべて俺は3〜4年を周期として、この適応と断裂を繰り返してきた。

そして今、俺は「うつ病」という殻に閉じこもって生きている。

筆者は「山谷」という、自分の生きる場所を見つけた。というか、観念したというか。
俺の生きる場所は何処だろう? 真っ暗な部屋に閉じ込められた俺には、何の道しるべも見当たらない …。

●暇つぶしに、ここ5回分の「ちゅらさん」をビデオで見返した。
本当に、よかったね〜、エリイ。(おばあ風に)
ついでに、にいにいとマリアさんもくっつくと面白いんだけどねえ。

●「うたばん」でモー娘。のシャッフル・ユニットを観た。
3人、7人はさておいて、10人祭を観て、絶句 …!

「LOVE マシーン」を最初に観た時のインパクトも凄いものがあったが、今回のはそれ以上だ。
確かに、これからの夏祭りシーズンに向けて、需要は眠っているかも知れないけど、こりゃあんまりにも「いじり」過ぎだ、というのが第一印象だ。

けなげに、一所懸命歌い、踊る娘達をちょっと正視出来なかったもんね。

●で、その「うたばん」の裏(TV 東京)で、娘。のカルト・クイズ番組みたいなのをやっていたので、それも同時に観るべく、2画面にして観ていた。
そこで、解答者の中に圭織命の奴がいて、本物の圭織と対面する場面があったんだけど、自分の事のようにドキドキしてしまった。

俺だったら、この溢れんばかりの想いを、その一瞬にどう表わすだろう?
とりあえず、「『メル友』になってください!」って申し込んで繋ごうとするかな?(笑)

●倉敷の某と Chat して就寝。Thank You, KEITH!!

終わり。

BGM:奥田民生「股旅」


2001年07月11日(水) 荒馬のように / 甲斐よしひろ

●神経科「中川クリニック」受診。
先週、寝る前の薬が変わったと思ったら、今週は昼間の薬が変わった。
どうなることやら …。

●今日も相変わらず悶々とした一日だったけど、某友人から大切なメッセージをもらった。
俺達のバイブル、甲斐よしひろ著「荒馬のように」(1979 年)に書かれている文章だ。

「いま自殺する若者が増えている。しかし、俺は自殺するなとはいえない。みんな悩んで、必死で苦しんで死んでいくんだろうから。

ただ、自殺することは、なんの解決にもならないと思う。自殺するやつは、その瞬間、悩みや苦しみから解放されるかもしれないが、家族やそのまわりの人たちの苦しみは、そこからはじまる。

俺だって死にたいと思ったことはあるよ。でも、自分はひとりじゃないといつも思っていたね。

死んだあとで、ほかのやつが新たな悲しみに襲われるって考えたら、たかが生きるっていうことだって、人助けをしているのかもしれないんだよね。」

カミサンに言われた事と同じだ。
家族や友人達が「生き地獄」を味わわなければならないとしたら、俺一人が「生き地獄」を味わっていた方がマシだよな。

でも、これは俺の「日記」だから、正直な事を書く。
辛い。辛くてたまらん。
真っ暗な部屋の中に一人で居る感じだ。
体も鈍ってきて、何をするのも億劫だ。
希望の光も見当たらない。

でも、そんな俺でも死んだら困る人がいるんなら、生き続けてみるよ。

読者諸氏、どうか俺を励まさないでくれ。プレッシャーを与えないでくれ。
ただ傍観していてくれるだけでいい。
会った時は普通に接して欲しい。

そういうわけで … ヨロシク!(「ちゅらさん」の恵達風に)

終わり。


2001年07月10日(火) お休み

●うつ状態の為、お休みさせていただきます。


2001年07月09日(月) だんだん / サンハウス

●浜松の実家から帰宅。
行きと同じく、東名高速をぶっ飛ばして帰ってきた。

また、何もない日常の始まりだ。

●本:大山史朗著「山谷崖っぷち日記」購入。
甲斐先輩・トッパ氏が、自身の HP で紹介していたので知った。
トッパ氏曰く、
「自分の人生に行き詰まっている方々にも読んでほしいと思う。何も答は見つからないかもしれないが、ここに描かれた静かな怒りと諦め、謙虚さから学ぶべきものは多いような気がするのだ。」
とのこと。

最初、パラパラと立ち読みをしたのだが、なんか今の自分を妙に肯定してしまいそうなのが恐くて買わなかったのだが、トッパ氏の、柔らかくも強い薦めで、買って読むことにしたのだ。

感想はまた後日読み終えてから、ということで。

●それにしても、人間は一体どこまで落ちぶれる事が出来るのだろう、などと考えてしまう。
医者は今の俺の状態を「下げ止まり」と言い、カミサンは「まだまだ静養が必要なんだよ。焦らないで。」と言うが、どうも精神のベクトルはまだ下向きのままのような気がする。

サンハウスに「だんだん」という曲がある。鮎川さんが作詞・作曲した歌だ。
これを書いた時の鮎川さんの心境は、どんなだったのだろう?

◎だんだん
だんだん だんだん 馬鹿になってゆくみたい
だんだん だんだん 駄目になってゆくみたい
ね〜 可愛娘ちゃん こうなったらとことんまで
俺と一緒に つきあわないかい

だんだん だんだん みんな離れてゆくみたい
だんだん だんだん おちてゆくみたい
ね〜 可愛娘ちゃん こうなったらとことんまで
俺と一緒に おちてみようじゃないか

だんだん だんだん 息ができなくなるみたい
だんだん だんだん 力がぬけてゆくみたい
ね〜 可愛娘ちゃん ここまできたのに
俺にあいそをつかすなんて ひどすぎるよ

だんだん だんだん だんだん ……

終わり。


2001年07月08日(日) 爆睡 in 浜松

いや〜、朝・昼・晩とよく寝た! 寝まくった!

2階のすだれからちょうどい〜い風が入ってきて、気持ち良かったのよ。
枕もいい固さでさ。

あ〜、実家は落ち着くわ!

な〜んも考えないで、ひたすら眠りほうけました。

東京へ帰るのは明日にしよう。

以上!


2001年07月07日(土) 本郷町の一夜

●車で単身、浜松へ帰省。
親父が、ここのところ体の具合が悪そうなので、見舞いに行った。

魁の夏風邪の治りが今一つなので、カミサンと魁は留守番。

6:30 に家を出て、いつものように東名高速を時速 150km で飛ばし、10時前には実家に着いた。

親父は、そう具合が悪くもなさそうで、食事もきちんと採っていたので、一安心。
しゃべり方が、日に日に「爺様」っぽくなってきてはいるけどね。(笑)

俺は帰っても別にする事もなく、する気もなく、ただひたすらゴロゴロしていた。

●夕方、親戚の「レンガの家」氏のお宅に「お呼ばれ」した。
食事を御馳走になり、CATV で映画を観ながら、のんびりと過ごした。

別にお互い気を遣うこともなく、話に花が咲くわけでもなく、静かにゆったりと時間が流れていった。
年の差こそあるものの、お互いを認め合っているような、何だか不思議な「連帯感」とでも呼べばいいのだろうか?
上手く言い表わせない「関係」が成立しているのだ。

映画「エンド・オブ・デイズ」のエンディングと共に、氏の家を後にした。

終わり。


2001年07月06日(金) 何もしなかった日。(安泰ガバメンツ篇(下))

●'95.12.17、2回目のワンマンを下北沢 SHELTER で行った。
動員は 200 人。
「入り」はまずまずだったが、今回は経費がかさみすぎた。
チラシ、ポスターに加え、先着 200 名に「おみや」の CD シングルを付けた為だ。
そうでもしないと集客出来ないと思っていたんだね。
これが「あだ」になって、Live 自体が大赤字になってしまった。
お客さんには大受けだったんだけどね。

でも、ワンマンで実績を作っても、レコード会社からの「お声」はかからなかった。

明けて '96 年1月、Bass の KAMIJI が辞めると言い出した。
以前から内外で Bass の弱さが指摘されていて、その重圧に耐えられなくなったのだろう。

代わりの Bass はすぐに決まって、Live にも穴を空けられずに済んだんだけど、新しい Bassist に、安泰流の「一致団結精神」を求めるのは無理だった。

この辺からだな、狂い出したのは。

新曲が出来ない。
Recording も、必要以上に音を重ねすぎて、収拾が付かない。
Live の動員も伸び悩んでいる。
Studio では、指揮をとる者が誰もいなくなり、練習にならない。

限界だと思った俺は、バンドの無期限活動休止を提案した。
勘がいい SHOW は、俺の気持ちを察して、「ありがとう。」と言った。

こうして '96.6.30、渋谷 ON AIR NEST での Live を最後に、バンドは実質上、解散した。

俺はあくまでも「活動休止」のつもりだったのだが、SHOW と Chris は、「PAGE が辞めたいと、泣き言を言い出した。」と陰口を吐き、すぐさま新しいバンドを結成し、俺は裏切られた気分になった。

メンバーとは、その後まる4年、一度も会わなかった。

安泰ガバメンツ篇.完

●今日の鈴木君。
CD:Keith Jarrett "The Koln Concert" 購入。
1975.1.24、ケルンで録音された Piano Solo。
Title もない即興演奏が4曲。時に優しく、時に力強く、正に Piano Solo Art の頂点。
時間がゆっくりと流れていく感じが好きだ。

終わり。


2001年07月05日(木) 何もしなかった日。(安泰ガバメンツ篇(中))

●昨日のつづき。
1994 年の暮れ、俺はメンバーに提案をした。

「ワンマン(ライヴ)をやろう!」

結成して5年。知名度はある。動員もまずまず。
機は熟した。ここらで一発でかい事をやって、バンドに喝を入れたかった。
でかい事が好きな SHOW は即 OK。Chris はマイ・ペースだけど納得。ひねくれ者の KAMIJI もなんとか説得した。

やるとなったら一致団結するのが、安泰ガバメンツのいいところ。
ハコは当時一番世話になっていた、下北沢の Club Que で、日にちは '95.3.5 に決定。

100 人位は集められないと格好つかないね、という感じで、Live も月1本に絞って、ワンマンに集中させるようにした。
宣伝に関しては、言わずもがな。草の根作戦、大得意のバンドですから。
メディアにもちゃんとアピールした。「ぴあ」や「Tokyo Walker」に取り上げてもらってね。

で、どうせワンマンやるんだったら、今までこつこつ録り溜めていた音源で CD を作っちゃおうという事になった。
それがこれ(↓)
http://plaza9.mbn.or.jp/~kohari/antai_governments.html
Special Thanks to Mrs. KOHA.

だから、普通は「CD 発売記念 Live」なんだけど、俺達の場合は「ワンマン記念 CD」。(笑)
1,000 枚プレスして、最終的には 900 枚は売れたんじゃないかな? しかもほとんど Live 会場での手売り。(爆)
ディスク・ユニオンや、タワー等のインディーズ・コーナーにも、一応卸してもらったんだけどね。

まだ俺んちに在庫がありますので、もしこれを読んで聴きたくなった人はメールください。1枚 \2,000(消費税・送料込み)です。
時代に流されず、好きな事をやっていたバンドだったんで、今聴いても、聴き応えありますよ。

さて、ワンマン Live 当日、蓋を開けてみたら、動員はなんと 250 人! 酸欠状態。CD もその日だけで 100 枚は売れた。
あれは何だったんだろう? て今だに思う。
草の根的な宣伝活動と、入魂の Live Performance の積み重ねの結果としか言いようがない。

ワンマンの成功のお陰で、Live の誘いがまたぐんと増えた。
Kenzi & The Trips、エレファント・カシマシ、ミッシェル・ガン・エレファント … それからスマイリー原島さんや、The Jumps の島さんの "Just A Beat Show" なんかにも随分お世話になった。

そんなこんなで、Live のギャラや、CD の売上げで、バンド活動の費用が賄えるようになり、バンド自体もワン・ランク・アップ出来た。

でも、俺達の目標は、あくまでもメジャー・デビューだった。

まだつづく。

●今日の鈴木君。
久しぶりに Guitar を弾いた。焦らず、自分のペースで。
BGM:Freddie King "The Texas Cannonball"〜Free "Songs Of Yesterday"

終わり。

BGM:甲斐バンド「シングルズ」


2001年07月04日(水) 何もしなかった日。(安泰ガバメンツ篇(上))

●OK、今日は安泰ガバメンツの話をしよう。
出会うまでの経緯については 7/2 の日記参照。

1990 年2月、当時の超人気番組「イカ天」に出演。
SHOW と Chris が、前のバンドで応募していたのが、ようやく出演依頼が来て、バンド結成2ヶ月での出演となった。

一応「完奏」したんだけど「キング」にはなれなかった。多分「できレース」だったんだろう。
審査委員長の萩原健太が「安泰ガバメンツも候補に上がったんですが …」と言っていたし、後日某雑誌で、当時ご健在だった竹中労氏が、「安泰ガバメンツがキングにならなかったのは、おかしい。」と批判していた。

でもそんな、イカ天出演の効果もなく、Live の動員はさっぱりだった。
40〜50人がいいとこ。2〜3人って事もあった。(笑)

でも俺達は Live House に出続けた。
屋根裏、アンティノック、LOFT、Club Que、SHELTER …。
赤字になっても、月4回とかね。今考えると、よく生活出来ていたなあと思うよ。

宣伝活動も必死だった。
都内の殆どすべての Live House にステッカーを貼りまくり、動員のあるバンドの Live でチラシを配ったり、対バンと仲良くなって、そいつらに来てもらったり …。
とにかく「演奏出来るところがあれば何処にでも出る」って感じで、ホコ天もやったし、アマチュアのコンテストにも出まくったし、本当に何でもやった。
しまいには、蒲田の場末のスナックで、Oldies の「ハコバン」までやったよ。
だから、当時の Live House Scene で、動員はないけど、知らない奴はいないっていう奇妙な存在だった。

レコード会社からは、2社から話しがあった。
1社目は、今はなきハミングバード。某コンテストで優勝したのがきっかけだった。
仮契約までして、Demo Tape を作ったりしたんだけど、ハミングバード自体に力がなく、結局「タイアップが付かないと売り出せない。」という理由で話しは流れた。

もう1社は SME (Sony Music Entertainment)。
X JAPAN のプロデューサーが偶然俺達の Live を観て、新人発掘部門に紹介したのがきっかけだった。
そこで担当になったディレクターが、これまた倉敷の某と同じ位、Rock について「熱い」奴で、随分頑張ってくれた。
最終的に、尾崎豊のプロデューサーだった奴(名前忘れた)が Live を観に来て、「(デビューさせても)いいけど、苦労するぞ。」という意味深な発言をしたんで、ディレクターもちょっとビビっちゃって、話しは尻すぼみになってしまった。

知名度があって、玄人受けがいい。動員も常に30〜40は確保出来るようになった。
あちこちの企画に呼ばれて、Live の誘いは後を断たなかった。

でも、肝心のメジャー・デビューの光が見えない。

そこで俺はメンバーにある提案をした。
1994 年の暮れの事だった。

つづく。

●今日の鈴木君。
神経科「中川クリニック」受診。
状況は相変わらずだと訴えると、「頭が働かないように思えるのは、実は体がまず働いていないのだ。それは「症状」だから治る。」という事で、寝る前の薬を替えて「テコ入れ」する事になった。

終わり。

BGM:Rod Stewart "Lead Vocalist"


2001年07月03日(火) The Greatest Hits / Nat King Cole

●俺の日記の投票ランキングが、ダントツ1位! 読者諸氏、ありがとう!
http://www.enpitu.ne.jp/sort/di_genre_rank_19.html

●しかし、何もしない日々は、とにかく退屈だ。
でも、少しづつではあるが、「自分のペースで生きればいいんだ。」という肯定的な気持ちが芽生え始めている。

●CD:Nat King Cole "The Greatest Hits" 購入。
甲斐ファンで、まだ Live を観てない人には、ねたばれになって申し訳ないが、今回の Tour の Opening SE "Those Lazy-Hazy-Crazy Days Of Summer" が聴きたくて買った。
でも微妙に Version が違っていたので、ちょっと残念だった。

しかしこの Nat King Cole、CD を買うのは初めてなのだが、'50 年代の Rock 'n' Roll 誕生以前の、古き良き American Pops って感じで、とても Sweet で良い。

俺の大好きな日本映画「青春デンデケデケデケ」でも、彼の話題が出て来る。
主人公の相棒のお姉さんが、American Pops のファンで、「なんちゅうてもええのんがナット・キング・コールで、特に彼の "Lonely One" は聞いとって涙が出てくるし、"Nature Boy" は、体がふわふわしてきて、知らんまにどっか遠いところへ連れていかれそうな気になる。」と言っている。
当時の日本での人気が窺える一場面だ。

●魁が夏風邪で、体温が38度以上あり、おまけに口の中が痛いらしく、食べ物が喉を通らない。
時々「いた〜い、いた〜い!」と言って、胸が締め付けられる想いだ。
3〜4日で治ると医者は言っているらしいが …。
今週末は、浜松へ里帰りする予定なので、その時までには善くなって欲しいと思う。

●21時、今日も家族3人で早めの就寝。

終わり。


2001年07月02日(月) 新・何もしなかった日。

今日も自宅で静養中。

大学4年の時からの話をしよう。

時代はバブルの真最中。就職活動も空前の売り手市場。
毎日毎日、一部上場企業から何通もパンフレットが送られてきて、何となく捨てずにいたら、押入れが、それだけで一杯になってしまった。マジな話。

同じゼミの連中なんかは、やれ証券会社だの、やれメーカーだのと、情報交換を盛んにしていた。

でも俺はと言えば、全然興味を持てなかった。
「まだまだバンドがやりたらんぜ!」って感じだったんだな。10年、20年ていうスパンで物事を考えられなかった。

サークルは世代交代で、4年生はほとんど隠居状態になるから、もう居てもしょうがない。
で、ここで初めて「外の世界」へ出ていかねば、という事を思った。

雑誌「Player」でメンバー募集したり、音楽スタジオに貼ってある「メン募」見て応募したりね。

とりあえず俺としては、鮎川さんみたいに、ギター1本持って、何処に行っても通用するギタリストになりたかった。
野球で言えば、優勝請負人、江夏豊みたいな感じかな。

とにかくいろんな人と会って、音合わせをしたよ。オーディションも色々受けたし。いちいち書いてたらキリがない位ね。

そんな中で、あちこちで人脈を作っていった結果出来たのが「安泰ガバメンツ」。大学5年、1989 年の暮れの事だ。

Vocal の SHOW と Drums の Chris は「ホコ天バンド」をやっていて、「Player」にメンバー募集の広告を出していて知り合った。
SHOW は、「Beatles のメロディーを Stones のサウンドに乗せたようなバンドがしたい。」って書いてた。

Bass の KAMIJI とは、ルースターズの大江慎也のバック・バンドのオーディションで知り合った。
奴とは、出会いからして「めんたい系」だから、趣味はバッチリだったね。

そんなこんなでスタジオに入り始めて …。

明けて 1990 年2月、大学の卒論を提出した次の日、新聞の折り込み求人広告で、データ入力のバイトを見つけた。
いよいよ、フリーター生活、バンド生活の本格的なスタートだ。

つづく。

BGM:甲斐バンド「夏の轍」


2001年07月01日(日) 完全自殺マニュアル / 鶴見済著

二日酔いとうつ状態で、どんよりした気分。

●インターネット古書店で、「完全自殺マニュアル」という本を購入。
1993 年発刊。1994 年第31版発行だから、当時かなり売れたのだろう。

頭がボーっとしているので、パラパラとめくってみただけだが、この本には1冊まるごと、自殺の方法だけが細かく書かれている。
何の「諭し」もない。徹底している。

少し読んで、嫌になってしまった。
自殺する為の準備が、あまりに緻密で面倒臭い事が解ったからだ。

俺は元来、面倒臭い事は嫌いなのだ。

という訳で、非常に単純な理由で、この本を放り出してしまった。

終わり。


鈴木 泰裕=国分寺の大森信和 |MAILHomePage

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