思い、願い。。
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中学受験日記。 (上の子(娘)の受験は2004年2月まで)

中学受験日記から4年数ヶ月、その間、3人目出産、起業し・・・

2003年06月25日(水) スピーチコンテスト当日

娘が学校代表に選ばれ、今日は区の大会の日だった。
区内にある17校の各代表たちの中から選ばれた人が市の大会に進むのだ。

学校代表に選ばれたとき、こんな内容で大丈夫なのか、と首を傾げていたが、どうであろうと、選ばれたことにかわりはない。

とにかく区の大会に出るというだけでもすごいことだ、そう思うことにしていた。

当日までの流れは、最初だけ私がアドバイスして、そのうち娘が拒否するようになり、今朝は大喧嘩となった。

いくら暗記してスピーチするといったって、ギリギリまで原稿を繰り返し繰り返し読むものだ。あれ、なんだっけ、と、確かめながら、ブツブツ暗唱するのがふつうじゃあないのか?

娘は、今朝になって、原稿は無くした、と言うのだ。

暗記だから無くしていい?

それは違うだろう。

あまりのだらしのなさに腹が立ってしかたがなかった。

朝、練習をしてみれば、つっかえてばかり、ということがわかったのだ。

娘は半狂乱になっている。

ずっとできていたのにできなくなっている、ということに、発狂する。

なだめる余裕なんてない。

原稿さえあれば、ギリギリまで確認していれば大丈夫よ、今まで大丈夫だったんだから、自信持ちなさい。

とでも言えるだろう。

原稿を無くした、という時点で、私のマニュアル外なのだから。

先生はコピーを持っているはずだから、先生にコピーしてもらいなさい。

そう言っても、コピーなんてないし、そんなことできない、の一点ばり。

とにかく何を言っても、反抗するばかりで、耳を貸さない。

登校班の班長の娘は、登校班の子たちを置き去りにして、その子たちの前で私に、
「うるさい!」
と鬼のような顔を向けて大声で吐き捨て、一人学校に向かった。

通行人も、私を見る。

子どもに何の威厳もないまま立ちすくしている自分。
情けなくて情けなくて消えてしまいたかった。

登校班の子を送り出し、家に戻った。

洗面所で声を殺して泣いた。
でも、声が漏れてくる。

泣くってどういうことなんだろう。

弟のための涙は、声なんて出なくて、ただ大きな涙ばかりこぼれてくるのに。

この涙は悔し涙なんだろうか。

タオルを顔に押しつけて、大声で泣く。

立ってるのか、座ってるのか、寄っかかっているのか、自分が何処にいるのか、感覚さえわからない。

ただ泣く、という行為だけが私から発せられている。

雨で休みの夫が、様子を見にくる。

でも、もうどうにもならない。

夫の気配がすると、

「わからない。わからない。どうしたらいいかわからない。
私はどうしたらいいの?

うるさいって、怖い顔して行っちゃった。

登校班の子たち置いて。

班長なのに。

私はどうすればいいの?

みんな見てる。

私を見てた。

言われっぱなしで何もできない私を見てた。

私はいる資格がないの?

もう母親なんて、できないよ。

今日だって行きたくない。

でも母親だから行かなきゃならない。

義務感だよ。

本当なら、学校代表に選ばれて嬉しいはずなのに、母親だったら嬉しいはずなのに、行きたくないなんて、私がおかしいのはわかってるけど、でもどうしたらいいのかわからない。

嬉しいはずなのに、嬉しくもない自分と、

母親なら子どものこと愛してるはずなのに、
愛せない自分と。

どんどん自分と母親のギャップが広がって、もうどうしたらいいのかわからない。

どんどん自分が壊れてしまって、収拾がつかない。

どう整理して生きていいのかわからない。

あの子がいなかったら、どんなに楽なんだろう。

母親じゃなかったらどんなに楽なんだろう。

どうしたらいいのかわからない。
わからない。
わからない。」

夫は黙って聞いていた。

涙でぐしょぐしょになって、ヒックヒック言いながら、何言ってるんだかよくわからない話し方で、泣きながらしゃべってた。

30分くらいずっと泣いただろうか。
朝礼の時間は過ぎていた。


大会当日ということもあってか、朝礼で6年生全員の前でスピーチすることも聞いていた。
大会の見学の申込は、義父母と私との3人しか申し込んでおらず、
急遽雨で休みになった夫の分は申し込んでいなかった。

見られない夫のために、朝礼の発表だけでも見に行かない?
と聞いていて、私が一緒に行くなら行くよ、と言っていた。

でも、私は大泣きして、目も鼻も真っ赤、顔じゅう鬱血しているような状態になっていた。

大会は、午後2時から。

案の定、娘は私の顔を見るなり、朝のことは忘れてニコニコ笑ってくる。

でも、私は自然に笑顔を向ける気力もなかった。

その分、義父母が、励ましてくれていた。

私はずっとビデオを撮り続け、娘の顔もレンズ越にしか見なかった。

優勝しなくてホッとした。

受験に専念しなきゃならないときに、また喧嘩の種が増えるのはごめんだったし、とりあえず一つ問題が解決したような気持ちだった。


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と思った自分もいた。
あんな態度しかできない人間が、国際平和のスピーチだ?笑わせるな、という感じだ。

義母は、「よくできていたわよ。賞をもらえないなんておかしい。」
と言っていて、救われた気もした。

逃げ場があるから、人は生きていけるんだ。

娘の逃げ場=私の逃げ場、でもあったのかもしれない。

帰り道はさわやかだった。
義父母と別れて、一人で家まで歩く道のり。
楽しくてしかたがなかった。

○朝、あんなにつっかえてたクセに、本番に強い娘は緊張する様子もなく堂々とスピーチしていたこと。
○私がアドバイスした通りに、声のトーンや言い方を変えていたこと。
○不幸な人間を引き合いに出した内容ではなく、自分自身を題材にあげていた内容であったこと。
(そういう内容は娘だけだったかと思う)
○娘の応援にクラスの子たちが来てくれていたこと。
(どの学校も来るのだけど、通常の時間より随分遅くなるのに娘のために来てくれる子がいて、嬉しかった)
○娘の担任の先生が、娘がスピーチを言い終わった瞬間に、最高の笑顔で
「ヨシ!よくやった!」
という顔をしてくれたこと。
○義父母が来てくれたこと。
○同じ塾に通っている子が、他の学校の代表として参加していたこと。
○最初の始まりの言葉に、他の学校に通う友達の子が、出ていたこと。
○義父母が買ってくれた娘のメゾピアノのジャンバスカートを、この晴れ舞台に義父母の前で着せられたこと。
○夫が私の泣いている姿を見て、私が何に苦しみ、何に悩み、どういう心の変化があるのか、理解してくれたであろうこと。
○夫がお昼にサンドウィッチを買ってきてくれたり、大会出演のビデオを撮るためのビデオテープを買ってきてくれたこと。
○私が仕事で忙しくても、何も文句言わず見守ってくれたこと。

全部、今日だけのことだけど、一つ一つ、まるでフィルムを入れ替えるように、カチャッカチャッと音が鳴って、頭の中で切り替わっていた。

こんなことが私の嬉しさで、喜びで、こんなことがあるから生きていける。

母親ができないとか、わからないとか、また次の機会に見送ろう。

娘が帰ってくるなり、「まずは謝ってください。朝のこと。」

と、仁王立ちすると、

「ごめんなさい。ママ。」

と、抱きついてきた。



2003年06月24日(火) モニターが壊れた

今日の午後6時までに納品の仕事があった。
入力の仕事なので、集中してやれば数時間でできる。
ところが朝からどう頑張ってもパソコンのモニターは、ついたかと思うと真っ暗になり、
結局、うんともすんとも画面が出ない。
本体は動いているようだった。

本当は午前中に、学校説明会があったのだが、
仕事が納品できなければ信用問題である。

幸い、雨で夫が休みだったので、横浜駅まで、
車で連れてってもらって行った。
3万いくらのモニターと、G4の初期のやつを中古で購入。
メモリは、1.5ギガまで入れた。

今までは256MB。
一気に1.5GB、どんなに快適になるのだろう。

Photoshop,Illustrator,ImageReady,IE,ネスケ,メーラー、
全部立ち上げて作業ができるじゃあないか。

これで快適に仕事ができるはず。


ポイントも使って、全部で18万だった。

とにかくまずは、仕事を仕上げなければならない。
帰ってきて、今あるG3にモニターを繋いで、
とにかく仕上げてジャスト6時にメールに添付して納品。

今、いくつか仕事を平行して抱えているので、それが落ち着いたらG4を繋げようっと。



2003年06月21日(土) 弟の百か日法要

子どもたちは、授業参観日。
義父に見に行ってもらうように頼む。

子どもたちを送りだし、電車に乗って行く。

ときどきボーっとしてハッとして降りる。
間違えちゃった、そんなのが2回。

今日は終わった後に父の家に寄ることにしていた。

弟の家族と奥さんの両親、父とその奥さん、私、の7人。

法要を終え、私と弟の娘とで父の家に行く。

本来なら電車で行ったほうが近いところを、のんびりタクシーに乗っていった。
お嫁さんも後から来てくれた。

弟のアルバムをたくさん見て、弟の部屋を見て、

弟が小さい頃遊んでいた「めんこ」が靴箱にびっしり入っているのを見つけた。
箱の蓋には、縦に大きく鉛筆で「めんこ」と書いてあり、
その横に「さわったり動かしたりしたらいけない ころす」
とあり、その横に「たからもの」とある。

下には
「丸面は全ぶで8まい
四角面と丸面全ぶで358まい」
とある。

仮面ライダー、ウルトラマン、キカイダー、スパイダーマン、ガンダム、カリメロ、宇宙戦艦ヤマト、他、なつかしいものばかり。私の知らない男の子のテレビヒーローものもあった。スーパーカーや電車などもたくさんあった。

お嫁さんが見つけた私の名前の入ったキーホルダー。

渡そうと思って買ったけど、機会がないまましまってあったのだろう。

弟のアドレス帳。

小さな手帳がいくつかあり、必ず私の名前があった。
なかには別格で「姉貴」と書いてあるものもあった。

一番びっくりしたのは、弟が中3のときのアドレス帳である。

勤務先の欄に「○○中学校3年」と書かれてあり、
家族氏名の欄に、上から父、父の奥さん、祖父、私、弟となっていたのだ。

一番下の「本人」の上に、私の名前がある。
3つ下の弟。
私が中学に入ったときに別れ別れになった。
だから籍だって抜けて、私の名字は母方の名字になったのに。

弟の家族の中にしっかりいるのだから。

そのくせ、アドレス帳の名前のところにもしっかり書かれてあって、当時住んでいたところの電話番号が記されていた。

アドレス帳の中の私は、全て弟と同じ名字だった。



2003年06月17日(火) 偶然

娘の希望校の一つの学校の説明会があり、雨で休みの夫に車で正門まで送ってもらった。途中で携帯を忘れたことに気づいたが、家に戻ったのでは間に合わないから、とそのまま学校に向かった。

生理2日目で、すごく具合が悪かったので、どうせ休みなら行きも帰りも送ってよ、と頼んでいた。でも携帯が無いのでは待ち合わせのしようがない。

夫は終わったら公衆電話からでも電話して来いよ、と言う。
この学校は夫の出身校であり、義父もここの出身である。
夫は、学校のどこどこには公衆電話があるからそこからかけて来いと言うのだ。

気が乗らないまま、返事に困っていると、
11時50分にはここに来るから、と帰ってしまった。

終わりは11時半、でもまあ時間ぴったりには終わらないのが説明会というもの。

説明が終わってグループごとに校舎を案内され、高校校舎を見終わった後にそのまま南門というところに案内されて出されてしまった。

夫と待ち合わせは正門である。

南門ってどこだよー。

と坂を下り、とにかく公衆電話で電話しなきゃと思ってキョロキョロしていた。
大きな道路に出て右側に公衆電話が見え、その向こうに夫の車が見えた。

左の信号は赤信号に変わった。

夫の車は私の目の前に止まった。

私は夫の車に近づき、それに気づいた夫が驚き、赤信号の間に私は車に乗った。

「なんだそりゃ。」

と夫が言う。

「だって南門に案内されちゃって出されちゃって。」

「気づかないでプーって横通り過ぎるとこだったよ。」

「すごい偶然だよね。公衆電話探そうとしてさ、パパの車見えて、信号が赤だったから止まるなと思って安心してた。」

「信号が青だったら、プーって通り過ぎだな。ゼッテイ気づかねえってっ。」

「本当によかった。」



2003年06月15日(日) 亡くなった弟の携帯の履歴に

弟の家に行った。

弟は、3月19日に交通事故で亡くなった。

母は四十九日も参加せず、来週の百か日にも参加しない。
そのため、その前にお線香をあげに行きたいと言うので、私も一緒に行くことになったのだ。

私の両親は、私が小3のときに離婚している。

私と弟は、父の姓のまま、母にひきとられていた。

私が中学に入り、弟は父の元に行き、私は父の姓から母の姓に変わった。

父は再婚していた。

よってその後の母は、産みの親という立場になった。




弟のお嫁さんが、弟の誕生日の前日の夜11時半に、私宛に発信した記録が携帯に残っている、と言った。

確かに残っていた。

私の名前で、自宅宛に発信された記録がある。

でも、私と弟は話していない。


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ひょっとしてそのうちの一つが弟だったのだろうか。

弟は、何を話したかったのだろうか。
何を話すつもりだったのだろうか。







2003年06月14日(土) 公開模試・・・少しは

前回の公開模試は散散で、普段は唯一できる算数さえも、


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という悲惨な結果だった。

希望校は偏差値50。

あれ以来、自分も初心に戻り、もう一度、娘と向き合って勉強してきた。
とにかく救いであるはずの算数のみ、力を入れることにした。

何か特別なことをしたわけではない。
毎日の課題としてある計算マスター5問を、とにかくやり続ける、ということだ。

行事などでできなかった日があるときは、まず当日の分をやり終えてさかのぼってやる、ということにした。

公開模試の前は、今までの公開模試を何ヶ月かさかのぼって見直させた。わからないところはもう一度説明した。

以前と同じにはいかなかったが、かろうじて今回の公開模試は算数偏差値50を超えた。
相変わらず社会だけば偏差値36というものだったが、理科と国語も40台後半だったので、まあまずまずというところだろうか。

成績に一喜一憂してはいけないと思うが、とにかく受験当日までは頑張らねば。



2003年06月10日(火)

生まれて初めて蛍を見た。

今日から娘は一泊二日の修学旅行で、息子と夫と友達家族と。

友達は毎年見に行っているようで、今回誘ってもらって、すごく感動した。

蛍が見られるのはほんの一時期らしく、直接公園の管理局の方へまめに連絡を取り、前日にはちらほらいるよ、と言われたようで、決行となった。

車で10分くらいかなあ、7時頃家を出て、友達を拾い、公園に行く。

公園はとっても広く、急坂を降りていき、蛍が見られる場所に着く。

柵の向こうに小さな光が見えたかと思ったら、流れるように光りだす。

飛びながら光っているから、とってもきれいで、光ったかと思うとまた暗くなったり、人工じゃないタイミングにワクワクしたり。

しばらくすると、柵を越えてこちらにくる蛍もいて、夫が帽子でつかまえる。

帽子の中で光っている蛍を子どもたちの手のひらの上に乗せ、

すぐ死んじゃうんだから、つぶしちゃいけないよ。優しくね。

と。

子どもたちも優しく両手でかこい、きれいだねえ、と感動。

そのうち、足元を光りながら歩いている蛍もいたりして、それをまた手のひらにのせる子。

しばらく蛍を眺め、満足して、じゃあ、帰してあげようって。

手のひらでじっとしていて、ちっとも逃げない蛍を、放してあげるとふわっと飛んでまた柵の向こうに行ってしまった。

癒された日。

来年は、娘も連れてこられるといいな。





2003年06月06日(金) 息子、熱下がりました

火曜日夕方に熱を出した息子。

火曜日夜11時半には40度に達した息子。

目を見開いたまま宙を見ていたり、突然大きな声で友達の名前を呼んだり。

本人曰く、何をしゃべったか覚えているとのこと。
でも、なぜしゃべったかはわからないとのこと。
勝手に口から出ていた、という。

夢と現実の境にいたのだろう。

まさか目を見開いたまま宙を見続けている息子をほっておいては眠れない。

身体を震わしている息子、熱い、という息子。
スポーツ飲料コップ一杯を一気にストローで飲み、何か言いたそうな表情で見つめるので、トイレに連れていくと、一人で用をたす。

その夜、スポーツ飲料は合計コップ5杯、トイレは3回行った。

汗は全然かかない。2個のアイスノンをとっかえひっかえ使うが、すぐ溶けてしまって間に合わない。小さいアイスノン5個を、脇の下や首、腿の付け根につける。

氷水にガーゼを浸し、しぼって息子のおでこにあてる。

私が心配な顔をすると余計滅入ってしまうだろうと、できるだけ笑顔で見つめるよう心がける。でも、心配で心配で仕方がない。手を握って声をかけ、さすってやる。

朝4時過ぎ、やっと静かに眠ってくれたので、自分も眠った。

朝方、今度は夫がアイスノンを取り替えてくれていて、目が覚める。
熱を計ると38度7分。

夫によしよしされたまま、私はまた寝てしまう。
夫は仕事へ。


朝7時前、お義母さんから心配する電話がある。
お義父さんが仕事に行く前に病院に連れてってくれるから、とのこと。

水曜日でいつもかかっている病院が休みなことと、
今はぐっすり眠っていること。
私はまだ寝ぼけていて頭が回らないこと、伝えると、
9時に電話ちょうだい、ということで。

9時少し前に電話があり、
お義母さんが知っている病院も今日が休診とのこと。

水分はしっかり取っている、と伝えると、
果物を買ってあるからお義父さんに持たせるわ、
と言うので、ついでにスポーツ飲料と氷、アイスノンも頼んだ。

風邪なら3日で熱は下がるはず。
今までもそうだった。

水曜日の昼過ぎにお腹が空いたと言い出し、用意するが、少し口にすると疲れたと言って寝てしまう。またその日もほとんど水分だけで、過ごす。汗はまだかかない。

木曜日明け方、38度。
昼前、37度台。
昼過ぎ、36度後半。
夜、36度前半。

みるみる熱が下がっていった。
汗はかいていない。

食事は昼過ぎに一人で冷蔵庫から蕎麦を出してきて食べていた。

声をかけるが自分でやると言うのでやらせる。

ハリーポッターのDVDを自分でパソコンに入れて観ていた。

明日は学校に行きたいと言う。

元気になったとたんに、金管クラブのことを心配する。
きっと自分が休んでいる間に、みんなが上手くなったに違いない。
どうしよう。。と。

そして今日、学校に行った。

朝はもう36度1分だった。
平熱に戻っていた。

病院も行かず、薬も飲まず、3日で熱は下がった。

今日は、学校に「味噌づくり」の手伝いに行く。
の手伝いで1日学校にいるので、具合が悪くなったら連れて帰ってくればいいや、という気持ちでいる。

無事、息子の熱は下がりました。
読んでくださってありがとうございます。



2003年06月03日(火) 息子、40度の熱

息子が、いつもより早く公園から帰ってきた。

「どうしたの?」

「だるいから帰ってきた。」

とベッドに転がり込んだ。

おでこを触ると熱い。

熱を計ると38度2分。



現在夜11時半で40度。


怖いよぉ。

息子は、今までも40度以上の熱を何度か出したことがある。
そのたびに、とてつもなく怖い。

高熱になると、うわごとにようにおかしなことばかりしゃべりだす。

一人でじゃんけんをしてあっちむいてほいしたり、
目の前に友達がいるかのように呼んでみたり、

ちょうど今日は徹夜の仕事があるので、ずっと起きて様子を見てみよう。。と。

息子を部屋で一人にさせるのは心配なので、今日は息子は和室で寝かせる。
いつも夫と私が寝ている部屋だ。
代わりに夫は息子の部屋で寝てもらうことにした。

無事に熱が下がるといいのだけれど。。


今日の娘は、学校から帰ってきてからの30分、塾から帰ってきてから寝るまで、ずっと歯磨きのポスターを描いていた。学校だけでは終わらなかったようで、続きを仕上げていたのだ。勉強以外のこととなると、ものすごい集中力である。ほんと、感心してしまう。勉強も30分でいいからやってくれるといいのだけれど。

学年代表に選ばれたスピーチも、25日に5時間目を抜けて区内20校集まる代表たちと戦うらしい。


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そんなことやってる時間あるのか???

いや、そんなことやってて受験勉強する時間あるのか??????


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めい [MAIL]

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