きまぐれがき
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2004年03月31日(水) だから まぎらわしいのだよ。

昨夜雨の中、犬たちの散歩にでかけた小豆が興奮したおももちで帰
ってきて言うのだもの。
「鶏が落ちてきてびっくりした。あの鶏きっともう駄目だ」

この辺りで鶏を見かけたことなどないけれど、とうとうインフルエンザ
の災いがここにも飛び火か? ぐったりと弱った鶏が落ちてきた?
どこから?空か、でもなにか変。

不自然な感じはしたものの、その鶏は小豆の頭上に落ちてきたので、
小豆は羽根まみれになってしまったの?それではらい落とすしぐさを
しているの?と、雨水を拭っているとも思わずに、一瞬のうちに
そうに違いない、と思ってしまった私も私。


けれど空から降ってくる生き物だなんて、とっさに浮かんだのは
村上春樹の「海辺のカフカ」だ......で、どこで?と小豆に訊いて
みると......

ほんとにつまらない、なぁんだの話なのだった。

テラスの壁の出っ張り(地上からの150cmほどのところにある)を花台
にして、鶏をかたどった植木鉢にパンジーを植えて置いていた。
「傘をさしたまま犬の首輪にリードをセットしようとかがんだ拍子に、
鶏鉢が落ちてきた、台風の時の強風にあおられても吹き飛ばされた
ことがなかったのに」と小豆は言うが、それなら最初っからそう言っ
てくれぃ。
恐らく鶏鉢に傘があたり、そのままずり落としたに違いない。
それなのに状況をのみ込めない小豆も小豆だ、言動だってまぎらわし
かった。


現場に行ってみると、鶏鉢は「きっともう駄目だ」のとおりだった。
春の日いっぱいの喜びを味わってきたパンジーは、レンガの床にたたき
つけられたせいで、すっかり広がり乱れて生気を失ってしまっていたので
急いで地植えにしてあげた。



昨年撮影の鶏鉢。追悼。
毎年ぎゅうぎゅうにパンジーを植え込まれて、
さぞ苦しかったことだろう。




2004年03月26日(金) 埴谷雄高を知ったのは。

武田百合子が、竹内好を見舞うエッセイの中で描く埴谷雄高は、
両手で顔をおおったその指の間から流れる涙が海となって、
身体全体が沈んでいってしまいそうに痛々しい。
つぎつぎと死へ旅立っていく友人たちを見送るのは、どんなに
辛いことだろう。

武田百合子を知らなかったら、対談とか評論のほんの1部であった
にせよ埴谷雄高を読むことなどなかったと思う。


いつだったか、NHKのインタビュー番組で見た埴谷雄高には度肝
を抜かれた。
亡くなられる数年前で、奥様はだいぶ前に亡くされて男の一人所帯
でのインタビューだったのだが、茶の間でもあり書斎でもあり寝室
でもあるらしい部屋で、全国放送だからといって着る物になんか
かまっちゃいないヨレヨレの浴衣の胸をはだけて、唾を飛ばしながら
ご自身の著書「死霊」について語る姿は、病身の老人とはとても思え
なかった。
迫力のあるじょうぜつさで、さらに語り口に魅力もあって、こんな
老人をみたのは、100歳で「徹子の部屋」に出演していらした
国文学者の物集高量いらいだった。

話の内容はさっぱり理解できなかったけれど「熱く語る」とは、この
ようなことを言うのだと、お手本をみせてもらったような気がした
ものだ。

訃報が伝えられた時には、戦後まもなくから書き継いできた「死霊」も
とうとう未完のまま亡くなられてしまったのだなぁ、
あんなに情熱をかたむけても書けないのもは書けなかったのだなぁと
妙な感心までしたのだった。



2004年03月22日(月) Ku:nel を見ましたか?

昨夜、いつも須賀敦子やパスカル・グレゴリーの新しい情報を
いち早く教えてくださるミシェルさまから「Ku:nel」という雑誌を
見てごらんとのメールを戴きました。
夜が明けるのを待ち、書店が開くのを待ち、そぼ降る雨の中を
買いに行ってきましたよ〜
ーーミラノの石畳をどこまでも歩いていく人ーー須賀敦子。
コルシア・ディ・セルヴィ書店の写真を見るとキューンと胸がつぶれ
そうになって。いつものことです。
常日頃ぼんやりしている私のかわりに、あちこちに目を光らせて
情報を提供してくださるミシェルさん、有難う!




この「Ku:nel」という雑誌は最近話題になっていますよね。
ブランド物満載の煌びやかな女性誌とは異なり、取り上げるものに
素朴な味わいがあって、虚飾に満ちた世界を浮遊するのはイヤです、
もう中村うさぎ状態とはおサラバだ、落ち着いた静けさのなかで
身体も心も休めたい、という方たちから支持されそうな気がします。

またその素朴さとは裏腹に、作家などの目のつけどころには華やぎが
あるというか、空気を読み取っているというか、なかなか鋭くもあり、
的を得てもいてオオッ!と注目。
江國香織姉妹による書簡が連載されていたり、何号だったか(?)には
武田百合子が取り上げられていたもの。
いずれ森茉莉とくるにちがいない?

現れては消えていく雑誌が多いなか、息切れしないで頑張ってね。
マガジンハウスさん。



2004年03月18日(木) 須賀敦子のこうちゃんと、あの子は

だいぶ以前、その時使っていたスケジュール帳に
遠藤周作のエッセイから書き移した詩があったはず
だと思い出したのは、須賀敦子の「こうちゃん」を
読んだからだ。

その詩は1990年の手帳のなかに、見つけることが
できた。

 私の咽喉が痛いとき
 あの子の 咽喉も痛み
 私が夜咳をするとき
 あの子も 眼をさまして咳をする
 私がママから叱られて泣くとき
 あの子も 私と一緒に泣いている
 夕陽にうつる私の影法師のように
 あの子は いつも私と一緒だ
           マチルド

エッセイには、幼くして死んだ少女マチルドの詩だと
書いてあったように思う。
この詩のなかのあの子とは、言うまでもなくキリストの
ことだ。

須賀敦子の「こうちゃん」にこんな一節がある。
 あなたには みえなくても きこえなくても、
 きっと こうちゃんは、どこかできいているのです。

こうちゃんはあの子.......そう思うと同時に、引き出しの中の
たまりにたまった過去の手帳の頁を夢中で繰っていたのだ。




2004年03月15日(月) 油壷夫人に訊きたいこと

前回の日記、友人の油壺夫人のあさはかな失踪騒動にたいして
「油壺夫人というのは、夜な夜な油を舐めてる妖怪のようだなぁ〜」と
いうのと「油壺夫人のダンナはアホですな」。このような2通のメール
をいただいた(笑) 有難うございました。

確かに、油壺夫人は舐めた油が功を奏したのか、ヨット遊びに興じる
日々を過してきたにもかかわらず、お肌にはシミひとつなくツルツル
美顔なので、紫外線にボロボロにされた肌の私など羨ましくてしかた
がない。
銀座を歩いているとどこからかス〜っと一見紳士風な人物が近寄って
きて、ホステスにスカウトされてしまいそうになったことも度々で、かつ
ては文士などが入り浸った超高級クラブにご出勤していたことがある
...といった噂なども、耳に入ってきたことがあった。
私が油壺夫人に出会った頃には、すでに妖怪から妖女へと変身をとげ
ていたことになるのね。

そしてそのダンナ、だいたい油壺夫人がなに考えているのか、何をやら
かすのか、一緒にいるアンタが分らないってことはないだろうに!と
失踪当時さんざん周囲から攻められても「見当がつかない」と首をかしげ
るばかりだったのだから、いただいたメールの方がおっしゃるとおり
「アホ」といえばアホだ。


TVから流れてくるVittelのCMのデビッド・ボウイを見て思い出したの
だが、こんなこともあった。

あの失踪騒動も、お昼寝から目覚めた油壷夫人の「あらお帰り」で、ご主人
のご実家筋の怒りをかった以外は、何事もなかったかのように失踪前の
日常にもどり、やれやれとホットしてから2年目のある日。

「富士山までドライブしない?」油壺夫人から電話がかかってきた。
時は11月、紅葉を見がてらのドライブ、それもいいなぁと失踪騒動の時
一緒に心配した友人が運転する車で待ち合わせの御殿場に行ってみると、
油壺夫人はすでに来ていた。
駆け寄ってくる油壷夫人の後ろから、やけに気どった足取りでこちらに向
かってくる男、グラサンに金髪。ご主人ではない。
当時、日本人でまるごと金髪にしている男なんて、まだまだ洋物の舞台に
出ている役者ぐらいのものだった。
「なんなの〜あの役者まがいは?」と思っている私たちに、油壺夫人は
「ヨット仲間のジミー」と紹介し、妙になれなれしくその男のグラサンを
はずしてやったりした。
と、そこに現れた顔はデビッド・ボウイ(まったくボウイは、今も当時と
変わりなく若々しい)そっくりな正真正銘の外人で、アメリカ人のくせに
英語はカタコトでしか話せないのだった。

むむむ。。。と思ったものの、デビッド・ボウイにそっくりだというだけ
で私たち二人は色めきたった。
れにしても油壺夫人とボウイが同じ車に乗り、そのあとを相も変らず私た
ち女二人で、富士山の5合目まで行くのかと思うと馬鹿らしくもなってき
たが、ココまで来てことわる理由もないのでズルズルと油壺夫人とボウイ
の後をついて行った。

またあの時のように、今度はこの二人で消えるのかなぁ?と富士山の5合
目にいても、なんとなく油壺夫人とボウイの様子を窺っていたのだが、緊張
をもたらす出来事もなく、普通に4人で雲や山々を見下ろしたりして、帰り
は油壷にある夫人の家に寄ることになった。

以外にもご主人が出迎えてくれたので、なんだボウイとのドライブは内緒で
はなかったんだとホッとした。
油壺夫人とご主人は、ヨットという共通の趣味を持っているので、家の壁
にはご夫妻のヨットレースの写真などが、「わび」「さび」とはいっさい
無縁のように隙間なく飾り付けられてあり、それも時々入れ替えるので、
いつお家に伺っても私は写真の前から離れられずに見入ってしまう。

「ヨット仲間のジミー」のはずなのに、どの写真にもボウイは写っていな
かった。それが不思議だった。

「これ見る?」と油壷夫人がテーブルの隅に重ねてあった袋から写真を出
してひろげると、現像液の匂いがかすかにした。
こちらの写真には、壁に飾られている写真にはなかった油壺夫人とボウイ
が寄り添って笑っている写真や、ボウイの家族らしい人たちにかこまれた
油壺夫人が写っていたが、日本人は油壺夫人だけだった。
シアトルのボウイの祖父母を訪ねた時の写真とのことだった。

「ご主人はいらっしゃらなかったの?」と、ご主人に向かってたずねてみる
と、私がなにを言いたいのかをすばやく察したらしいご主人は、そう剥きに
ならなくてもというように苦笑いをしてから「僕には内緒だったから」と冗
談めかして答えた。

「そんなことはない、一緒に行こうと何度もさそった」と、必死で言い張る
油壺夫人とボウイに「訊いてないなぁ」とさらにしらばっくれるご主人を見
ながら、もし二人が消えたとして、今度こそは「見当がつかない」とは言わ
せない。
こういう過程を黙認してきて、あげく首をかしげるのでは納得がいかないか
らねと、私は胸の中で一人息巻いていた。

だが、もしかしたらご主人はすべてを見通して承知しているのではないだろ
うかとも思った。
油壷夫人の性格を誰よりも1番理解していればこそ、クルージングを終えて
入り江で休むヨットをいとおしむように、戻ってきた油壺夫人を許して迎え
入れるのではないかと、そんな気がしたのだ。ただアホを装っている。

愛とは許すことって、誰かが言った。イエスだ。照れるぞ。


デビッド・ボウイにほんとによく似ていたジミーは、今どこにいるのだろ
うか。
油壷夫人に「厭きちゃったの?」と、訊くことができないでいる。

突然ですがサーシャは元気でおります。







2004年03月11日(木) 恋、そして恋

この間、ほっけをむしりながら「もう切った」と自の恋の終焉を宣言した
Y子ちゃんだが(1月21日の日記)、どうもまだ心はゆれてゆれて気持
ちが定まらないらしい。

恋とは、まったく厄介なものですなぁ。と言いながら羨ましかったりして。

そこで思い出すのが油壺夫人のことだ。
油壺夫人というのは、学生時代の一時期を四谷に住んでいたほかは、
生まれた時から結婚した今も油壺に居ついているので、こう呼んでいる。

その油壺夫人が結婚して3年ほど経った頃、スキー場で鉄塔のような
ところにぶっかって鎖骨を折り、とある医大の付属病院に入院したこと
があった。
経過も順調で、さぁ退院という日にご主人がいそいそと迎えに行ったと
ころ、油壺夫人の姿は病院から忽然と消えていて大騒動になった。

支払いを済ませて退院をして行かれた、病院側はそう言った。
が、自宅には帰っていない、実家にも親戚縁者のどこへも油壺夫人は
帰っていなかった。
まるで安手のTVドラマをみているようだった。

オロオロするばかりのご主人やご両親を前に、私ともう一人の友人は
「逃げたな」と感じていた。
ご主人と不仲だったという話は訊いていなかったし、そうは見えな
かったのに、何度か見舞った時の油壺夫人自身の言動から、主治医に
くっついてくる研修医.....あれに違いない。
あれがこの失踪にかかわっているはずだと、女の勘が働いたがまだ
ご主人には黙っていた。

やっぱりそうだった。
その研修医が住むワンルームマンションで、油壺夫人も一緒に住んで
しまっていたのだ。
何も知らないご主人は、消えた日の夜油壺夫人からかかってきた
「一人になって考えたいことがあるから」(ますます安手のTVドラマだ)
との電話に、なにはともあれ一応は安心したようだったが、私と友人の
気持ちは複雑だった。

何故かご主人のもとへは電話が毎日かかってきているようで、油壺夫人
が帰ってくるのを気長に待っているふうなご主人の様子に、私と友人は
とうとう研修医のことは言い出せなくなってしまった。

そんなある日、私のところへご主人から電話があった。
発熱気味でもあるし自宅でできる調べ物をしようと、お昼過ぎに事務所
から家へ帰ってみると、油壺夫人が戻っていたと。
油壺夫人はなんとなんと屈託なくお昼寝の真っ最中であったと。
そして目がさめると、ご主人に「あら お帰り」とけろっと言ってのけたの
だとか。
何だと〜〜〜〜どっちが帰ってきたのだ!?


その後、ご主人は油壺夫人を特に問いただすことはなかったそうだし、
油壺夫人も本当のことを言わないで来たそうだ。

今もこの二人が別れずにいるところをみると、ご主人が研修医のことを
知らなくて幸いってことかもしれないと、都合の良い解釈をしてしまう私
であるが.....

天衣無縫とでもいうのか? 魔が差したとでもいうのか?
「あれは恋だった」なんていったらぶん殴りそうになる私と
「そういうものね恋って」なんて言ってしまいそうになる私。
ご主人のお顔を見ては、チクリと胸が痛んだりもする。

それにしても、胸の奥にどこかすっきりしないものを抱えてしまうこと
になったのは私と友人で、当の本人の油壺夫人はお昼寝から目覚めると
同時に、何事もなかったかのようにスルリと元の生活に、ってなんだか
理不尽じゃないかなあ。ちがうかなあ。





2004年03月04日(木) 甦れ武田百合子

たぶんこの辺りの書店には置いてないだろうからと、Amazonに注文
していた河出書房新社のKAWADE夢ムックシリーズ先月発売の
「武田百合子」が届く。



おお〜表紙は富士山に登ったときのものではないかしら。
お召しになられているサマードレスは、ご自分で縫われたのでは
なかったかしら。

須賀敦子も武田百合子の作品を読んでいると元気がもりもり沸いてくる、
というようなことを書いていらしたが、私も泣いたり笑い転げたりしな
がら何度繰り返して読んだことだろう。

呼吸困難になって救急車を呼んだときには、ピポーピポーがだんだん
近づいてくる音を聴きながら、はうようにして本棚から百合子の本を
数冊引っ張り出してきてパジャマや洗面用具といっしょに紙袋にドサッ
と入れた。その途端バタンとその場所にうずくまって動けなくなって
しまったのだが、私のいるところにはいつも百合子、だったのだ。

このKAWADE夢ムックシリーズ「武田百合子」には、旅行記「犬が
星見た」で、旧ソ連圏の中央アジアの国々からソ連、北欧を訪ねて回られ
た時の写真もずい分載っていて、どれも初めて見るものなので興味深い。
写真の中に、ご一緒に旅をされた錢高老人(錢高組の会長・当時)が写って
いらっしゃらないかとしみじみ眺めてしまう。
錢高老人を見つめていく百合子の筆は絶品だった。
「犬が星見た」を読んでからしばらくは、株などにまったく関心のなかった
私が、買ったわけでもないのに錢高組の株価だけは気になって、新聞の
株式欄を見たりしたのだもの。


夢ムックシリーズのちょうど1年前は「森茉莉」だった。
お二人とも亡くなられてから何年も経つけれど、ひたひたと生き返って
こられたとしても何の不思議もないように思う。


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