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2002年12月31日(火) 大晦日



夜十時、年越し蕎麦を打つ。ちょっと寒いけれど、裏庭の引き戸を開け放ち、音のでるものを消す。永観堂と真如堂の鐘が交互に聞こえる。除夜の鐘を聞きながら、今日は奮発して、ピンクのシャンパーニュを飲みながら新年を迎える。
 御節(おせち)をつまみながら、ぼんやりと過ごした。この大晦日から元旦の未明が一年で唯一、しみじみ出来る不思議な時間帯である。
 深夜一時過ぎ若王子神社に初詣。奇遇なことに、京都大学の学生だった頃から毎年初詣に来ているというA君と再会。A君は現在、神戸で原子力関係の仕事をしている。
 一度などは家に招いて、自家製の麦酒と、馳走をふるまった事もあった。それから後、二三年、年賀のやりとりがあったが何時とはなしに疎遠になっていた。それが、今回、子供が三人、弟君の子供三人それに母上と、にぎやかに若王子神社に初詣に来ていた。もう最初に会ってから10年が過ぎているという。光陰矢の如しである。また来年の深夜一時頃の再開を約束して、彼等は神戸に帰っていった。
若王子神社の前のたき火は、毎年焚かれて、今日は、その火で焼いた焼き芋をご馳走になった。

御神籤(おみくじ)曰く

 晴れ渡る 月の光に うれしくも
 行手の道の さやかなりけり
                だそうだ。 本年は小吉。










2002年12月28日(土) 餅搗き



 いつも米は新潟のお百姓から、無農薬の米を送ってもらっている。
新潟からの玄米もち米を、三四日前から、石清水に漬けて置いたものを蒸籠(せいろ)に入れ、十五リットルの寸胴の上に乗せ数十分蒸す。
親指と薬指で米粒が潰れるくらいまで蒸したら、庭に湯で温めてある石臼の所まで走り、あけて杵で最初はすりつぶす。白米の餅のようにはいかない。何しろ、腰があり、おまけに少し発芽しているので、ものすごく力がいる。二百回くらい搗いてもつぶつぶは残る。その頃になると、てのまめは裂けて握力が無くなり、へとへとになる。
 餅をかえす方も大変である。ものすごく粘る。女の細腕では見ている方が気の毒になるが、二人しかいないから仕様がない。ぺったん・ぺったんのリズムがしばし淀みながらも、無事餅つきを終えた。不思議な物で餅は今どこでも買える。けれどもこういう一見面倒と思えることをしていると、沸々と、「今年もちゃんと生きてこられたなぁ」という感慨が湧いてくる。正月が近いという気持ちになってくる。昔の人々はこういう行事でもって、生まれてから死ぬまでの単調な道のりに節目を付けてきた。それが文化になり伝統として残っていく。今の時代はそれがいかにも希薄で、薄っぺらい。

  搗きあげた餅は、白い餅と違って、きれいな丸にまるめられない。どう搗いても米のつぶつぶ状の物は残る。だからぜんぶ伸し餅にして、二三日後に切ることにしている。
 今回はレンブラント光線ならぬ、小津目線で、この餅つきの一部始終を撮影した。編集で音にエリックサティのジュ・トゥ・ヴを入れる算段をしている。
 今回の餅つきを期に、もっと昔ながらの本来の餅の搗き方に変えようと思っている。槌型の杵は、返しの人の労力と、危険が伴う。一方、月で餅搗いてるウサギは立て杵を使って搗いている。これだとみんな参加できる、同時の返し手がいらない。三人なら三人同時につけて、そのために餅が動き、返し手がいらないし危険もない。毎回のように、手のまめを破って苦労するよりも子供でも出来る、昔ながらのやり方がいいとおもったからだ。
 完全を期すなら、今使っている昔から家にあった石の臼よりも、くびれ胴の木臼を使ったらいいのだろうが、(太鼓胴の臼は江戸時代かららしい)、そういう一種の原理主義に陥ると、本業の道具の筆や絵の具もそれに則って、ブルーの絵の具は本来はラピスラズリという宝石の粉末で作っていたのだから、それにしなければならないし、筆など高級テン毛(女の人の細い眉ほどのものが一万円位する)を使ったものが全てだとしたら、テンは絶滅する。
 だから、何かをやるときには、ある程度の道具は必要だとは思うが、その背景にある歴史を自覚した心があればいいと思っている。淘汰されて、なくなるものはなくなるのがこの世の常である。正式に公の場で行われる物に限り、昔の方式に則してやることは「言葉」と同じで大切だと思う。
だから蕎麦を捏ねるのに、漆の鉢でなくとも、ステンレスのボールでも別にかまわない。
 
    餅つき終えており茶を一福 
 

 *小津安二郎(映画監督)ローアングルで固定されたカメラや全編をカットでつなぐ手法を用いた。ローアングル用に、赤いトライポッド{通称かに}を使った。気に入っている作品に、「東京物語」(昭和二八年)「秋日和」(昭和三五年)の中の原節子がいい。それと、映画のバックに流れる斎藤高順の音楽も。










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2002年12月27日(金) 出来事箇条書き?



*無能の親でも息子は親孝行、子から内臓をもらった河野洋平が昔北京詣での際、台風で専用機が台湾に緊急避難した。台湾と日本は国交を結んでいない。中国に阿(おもねる)るあまり、北京についてから「ぼくちゃん、嵐の中で飛行機から一歩も外に出ませんでした」と報告した。改名しろ!
江(江沢民の)の傭兵

*滋賀県豊郷町立豊郷小学校の校舎解体問題の町長を見て思わず「最高ですか?」と叫ぶ宗教団体の教祖を思いだした。「最低です!」

*この世に肥満児が二人しかいない国
「北朝鮮」の金正日親子以外に太った奴がいるか、北を撮すあらゆる写真で探してごらん。一時流行ったウォーリーを探せより難しいゾ!まず不可能。

*NHKって中国と共同経営で北京にホテル持っている。そんなら民間から放送料とるな。

*あんまり拉致者が多いのでいろいろな人達が、身内の行方不明者もそうではないかと言っているが、富士樹海で毎年沢山発見される、身元不明の自殺者達も入っているかも知れない。

*朝日の世論分断作戦は続く、本日午後のTV(朝日)も日本人が集団自決の特集、残留孤児の問題。基本は悪の日本人を中国は忘れない、そうな。そりゃそうだ、中国の歴史教科書はもとより、算数のたしひき算にも日本人憎しの問題が出ている。

*昔、京都東山三条に二階屋根庇まで我楽太・骨董もどきを置いている名物骨董屋があった。その裏の袋小路に当時築百年のおんぼろアトリエを借りていた頃、その骨董屋の爺ちゃんからいろいろな話を聞いた。
爺ちゃんは憲兵だった。ドラマに出てくる憲兵はまったく出鱈目で、一般人を懲らしめたりするが、本物は「兵隊で不埒な行動をする者」を取り締まるのが仕事。

爺ちゃんの話で印象に残っている二つ。
厳冬に馬を駆って、凍り付いた大河の上を走った話。
 もう一つは、ロシアが南下してくるという噂に、日本人達が逃げるときに、子をぽいぽい捨てて自分等だけ列車に乗っているのを、幾度も目にした。だから「残留孤児の問題はほとんど親にある」と憮然としていった事だ。彼等は「一旗揚げようと自分達から進んで中国にいったのがほとんどで、何ら国に責任はない」と言っていた。当の支那人達は人手が増えると有り難いので、喜んで引き取った。これは洋の東西を問わず、貧困国に家族が多いのは、人手が入るからである。使い終わったらもういらない。










2002年12月25日(水) ワイドショウ



 毎日のように正午の朝日放送のワイドショウで、北朝鮮関係の、拉致家族の特集がある。見ていてとても気分が悪い。なぜというのに、必ずと言っていいほど、物わかりのいい顔をしながら、「…といっても過去に日本人が強制連行してきた経緯もある朝鮮に…」と言う言葉を巧みにいれて、日本人に贖罪感をおこさせるようにする。
この言い分は朝日新聞が、ずっと言ってきていることで、、渡部昇一さんなどは「チャラ理論」と言って一笑に付している。それとこれとでチャラにするというわけだ。
何度も今まで書いてきたが、「強制連行」に当たる物は朝鮮人についてはない!
あるとすれば、中国からソ連に無理矢理送られ働かされた日本の兵士達がそうだった。
今日本にいる朝鮮人達の一世は、自分の意志で日本に来た。戦後日本から台湾・韓国をアメリカの手で放棄させられたとき、アメリカは帰国船を用意し朝鮮に送り届けた。日本が用意した船もあり、その時に自由に帰ることが出来た。
  本日も朝鮮人で拉致について話し合う会を、朝日は取材していたが、必ずある意見を言う人を映像に入れる事を忘れない。
曰く「銃を突きつけられて連れてこられた」
知らない人が聞いて「へぇ」と思えば、この偏向した一派(朝日系)は大成功なのである。
 本当のところは、当時日本国民の義務であった国の非常事態に対する「徴用」に五回も六回も逆らい、従わない。これは日本人でも逮捕された。当時の法で見れば立派な犯罪であるからである。何も新日本人であった朝鮮人だけに行われた訳ではない。朝鮮人よりもっと待遇が悪かった台湾人からそういう話はあまり聞かないのはどうしたわけだろう。

 今日も横田さん夫妻が出演していて、しきりに孫に会いに行くように促されていた。昔ポルノを撮っていた山本監督が、個人が行きたければ、「政治なんかを離れて行くといいですよ」としきりにいう。
朝日の思うつぼである。拉致問題は政治を離れてはありえない。金正日が用意しなければ何事もはじまらない。勝手にキムヘギョンの家に行けるとでも思っているのか?
国家的犯罪に意見を同じうして対抗して行かなければならない時に、「在日の討論は非常にうまい。彼等はお年寄りが手をあげれば、先に意見を述べさせる。それに比べ日本人は…」とまたちょび髭監督がコリアンを持ち上げるような事を言う。こういうのを迎合という。おまけに蓮池透さんの批判まで飛び出した。
 横田さん夫妻と蓮池透さんの意見の違いがあるとしても「拉致」という大変なことをされた当人家族同士の話である。なぜちょび髭が噛むか!大きなお世話だろう。
 
 ついでに言うが朝日はアリバイ作りがうまい。過去新聞で「拉致はない」と言うような主張をし、「金日成将軍さま」と言って憚らない吉田康彦・大阪経済法科大教授(国際関系論)の論文を載せたりする一方で、アエラなどで、北朝鮮の拉致などを扱う。一見両論併記に見えるだろうがそうではない。こう言うことが書かれる何年も前に、警察は正式に「拉致があった」と発表しているのだ。
 
 朝日放送は先日の深夜にも、誰も見ていないだろう夜中の二時半過ぎ頃から三夜連続で朝の四時近くまで拉致特集番組をやっていた。なぜ、ゴールデンタイムにしない?
勿論後のアリバイ作りのためである。将来、何かで拉致関連の取り組み方を問われたときのためだろう。「ちゃんと三夜も連続でやっていた」と言える。その時には放映時間など問題にされないだろうから。
 この番組でしきりに「朝日が一番最初にテレビで流しました(拉致問題を)」みたいなことを言う。確かに最初に流したのはそうかもしれないが、真剣に問題にしてきた人達、新聞は遙か前からあったのである。しかし彼等はそんな事をテレビでわざわざ言わないのだ。下衆である。

 もう最近ほとほと朝日新聞の社説・馬鹿天声人語・素粒子に愛想がつきた。山本夏彦翁の言葉に
  「インテリが書いてごろつきが売る朝日新聞」
というのがある。どれほどの新聞か、これで分かろうというものだ。









2002年12月15日(日) プロヴァンスのハーブで



 先日、南仏マルセイユ近くの山から採ってきた、ローズマリー(奥プロヴァンスにはこれとそっくりだが背丈15.6センチくらいのタイムがあって、それと長い間同じ物だと思っていた。タイムは十数種ある)を持って、フランス料理屋「ルラシオン」に行ってそれを使って肉を焼いてもらった。
ここの主菜のサーロイン肉は250gくらいある。
食べる側も、強靱な顎と、でかい胃袋が必要だ。これが出てきたら普通の人はあっと驚くだろう。日本産の柔やわの肉で慣れている人は、これを食べると多分へとへとになる。前菜の温泉卵とウニに、コンソメのゼリー寄せもとても美味しい。信じられないことにあっと驚くほど安い。
 ローズマリーは本来羊肉に使うようだが、ほんのりと薫る野生のローズマリーは、今回のあまり恵まれなかった旅の気休めにはなった。

 前日に、二十代の若者が突然切れるという現象を目の前で見て、気分が良くなかったのだが、今世間で問題にされている事が、具体的に初めてどういうことが二三十代に起こっているのか目の前で経験した。

 自分の思い通りにならならなかったり、他人に注意されるとかちんと来るらしいのである。そしてそれを途中の会話なしに一挙に爆発させて、時と場所を選ばないのだ。これには驚いた。これが料理屋の店内でおこったのだ。客ではない。そこの店員がである。
ま、そういうところは二度と行かなければ良い話である。

 もう忘却の彼方に押しやられようとしているけれど、フランスで女を殺して食べた佐川一政が何かで書いていたが、今の日本の若者は、短絡して人を殺めた(行動を起こしてしまった)後、警察で必ずと言っていいほど、皆泣き崩れるというのだ。今回もそれと同じ現象を見た。
その店員はその後、泣いた!
もうこうなるとこちらは理解できない。何なんだ?

 というような事があったのだけれど、気に入っている料理屋で幸せに美味しい物を食っていると、それもどっかにいってしまった。
最近は画商さんの集まりで「ロートレックの料理」を再現したようだ。なかなかこの大変なときに面白いことをやっている。赤字だったらしい。

   *ルラシオン(堺町・姉小路角南西)
   「上のサーロインのコースは三千円位だった。コースは二種類のみ」











2002年12月09日(月) 食べて極楽、見て地獄 -上-



 今回の旅は最初から不運続きで、ことごとくがうまく行かなかった。日本が大変な時に旅行なんぞして罰が当たったのかも知れない。
出発前夜に確かめて置いた山用のがっちりした高度計・気圧計・電磁方位計のついた、旅には絶対必要な時計の太いベルトが、空港の待合いで突然切れた!
おおよそ切れるようなやわなものではない。幅は2.5cmある。それが突然切れた。合成樹脂製のもので購入してから5.6年経っている。
「験(げん)が悪い」
それから起こったことごとくが、予定外のことであった。早い時間に空港に着いていたが、大型カメラの三脚が、チェックイン時には通ったのに、機内持ち込み検査時に引っかかり、最後の客になってしまい、係員同志が揉めたあげく、ようやく荷物扱いになった時間にはもう搭乗ぎりぎりで、おもいきり搭乗口まで二人して走らされた。これがケチの付き始め。
 巴里でマルセイユ行きに乗り換えた。この時巴里の夜景は本当に綺麗だったのだが、夜九時にマルセイユに着いたときにはそぼ降る雨、強い風をともなった中でレンタカーを駆って目的地に着くのに小一時間を要した。以後天候不順が続くことになる。何のために行ったのか全然分からない。予約せずとも借りられた筈のジットは満杯。仕方なくホテル暮らしとなる。

 晴れた日はわずかに一日、後はほとんど曇天か時雨。スペインに低気圧が停滞、とのニュース。この地域には非常にめずらしい異常気象だそうであった。そういえばついこの間も、アビニョン近くの村が洪水になって村が流されたと、BSニュースのフランス2で言っていた。今回の滞在中いつもの写真の撮影数のほぼ三分の一、それも一日だけの限られた日だけで、この旅は半ば失敗であった。後に切れた反対側のベルトも切れてしまった。

 それでも最後の巴里の美味い晩飯を期待して、マルセイユ空港を後にして巴里に入った。
ところが、日本で手配して支払いも済ませてあったさるホテルについてみると、キャンセルされていたというよりも、二台のコンピュータがクラッシュしてデータが消えてしまったとの事(ンなあほな!)、担当のお姉さんは平謝り、クレーム・ド・ミュールの小瓶をプレゼントしてくれ、ホテルロビーのカウンターバーから飲み物を出してくれて、その間に換わりのホテルとタクシーを手配はしてくれた。もちろん全部ホテル持ちである。

 この日はレストラン・アルページュに、八時から予約を入れてある。もう五時近く、これから急いで風呂に入り支度を整えジャケットに着替えて用意をしないといけない。雨が再び降り始め、雨期鬱症の身としては、はなはだ不愉快である。手配されたホテルはさすがに格落ちの感がして、頼んだタクシーの手配もようしないようで、ついに歩いて行くことになった。この時不愉快指数は100%になっていた。
 幸いこの界隈は学校に通っていたとき、アパートがあった近くだったので、土地勘があり雨の中をひたすら磁石とミシュランの地図を頼りに歩き、数十分遅れてようやく目的のレストランにたどり着いた。









2002年12月08日(日) 食べて極楽、見て地獄 -下-



上から読んで下さい。
                   +++
 さて料理店は、薄暗く車通りもあまりないヴァレンヌ通りとブルゴーニュ通りの角近くにあり、通り過ぎてしまうくらい地味な入り口が通りに面してある。ようやくついた安堵感とキャンセルされてやしないかとの心配を胸に、扉を開けると、中は「はれ」の世界、フォークナイフの皿に触れる音が、耳に心地よい。急激に空腹感を覚えた。タクシーの手配がままならなく大幅に遅れてしまったことを言い、案内されるままに席についた。一通り周りを見回すと、案の定 日本人カップルが一組いた。
 テーブルの上には燭台に一本の蝋燭だけで、とても暗く、室内の照明も暗く感じた。少し落ち着いて、食前酒は止めて、ペリエを頼み差し出されたメニューに目を通そうとして気がついた。
メニューの字が読めない!意味を汲み取れないと言うのではなくて、字が見えない。最近つとに視力が落ちている上に、ここは異常に暗い。字体も消え入るような細いフランス体。「ううむ!」矯めつ眇めつ凝視するも只の糸線のように見える。
相棒は困り果て、一度席を立ち、眼鏡を取りに行く。それでもなをメニューは、絶望的に見にくく困り果ててている所に、長身のハンサムな給仕人が登場。
「今晩は」
これくらいなら今のフランス人は知っている。その後が驚愕した。
「どうしましたか?」
「目が最近悪くて字が見えない」
「そうですか?では日本語で説明いたしましょうか?」
「そりゃ日本人だから(特にレストランのメニュー書きなんぞ、印象的表現を使った物が多いので訳がわからないものが結構ある)日本語で説明してもらった方が幸せに決まっている」

 さぁ、それから、ハンサムな給仕人氏、メニューの頭、前菜から立て板に水で、フランス語を読んで日本語にし、その素材と説明。あっけに取られている内にはや主菜の説明、ここでハンサム氏、
「この料理は雉です!?あのすいません、雉ってフランス語で何でしたっけ?」
「雉はフィザンでしょ」と、たん譚、なんだか日本人フランス人がでんぐり返ってしまって大笑い。
そうしている内に、見習いくんのような若者が、日本語で
「突き出しでございます」
といってフランスならアミューズブーシュと言うところを、日本語に置き換えて言った。天晴れである。日本の日本料理屋で、果たしてフランスの客人を迎えてこれが出来るところがあるだろうか?
徳島のお茶人などが使う料亭「青柳」の経営する「婆娑羅」に、フランス語が堪能な板前がいる。もっともこの人は、来年巴里にここの支店を出すのでそれの店長になる人のようだから目はフランスに向いている。
 本当のサービスとは相手(客)を心地よい状態にする事だろう。日本のフランス料理屋なんか逆を行っているのではないか?ほとんど普通の日本人が読めないのに、フランス語で書いたりしている。

 さて流れるようなメニュー説明が終わった。今回の目的地でもあった、マルセルパニョルの自伝的小説「父の栄光」の中に出てくる地で、休暇中にビギナーズラックで打ち落とした野生の鶉(うずら)それも滅多にお目にかかれない倍以上の大きさがあるパンタビルという幻の鶉を食べたかったが、さすがにそれは無いようであった。仕方ないので従来の野生の鶉を注文した。
 
 後、すぐにうやうやしくワインのリストを少しこれも若い給仕人が持ってきたが、暗いのと目が悪いのでぼんやりとしか見えない。その時に、耳元で「旦那、いい娘がいやすぜ(彼はフランス語と英語のちゃんぽん)」とソムリエ氏が囁いた。
こちらも予算があるので、それはどこの産で何なの?と聞いたら、
「スペインの1981リオハで素晴らしいのがある、それでどうだ」
へぇ!誇り高き三つ星のフランス料理屋がスペインワイン??
巴里のアラン・デュカスが作った料理屋「スプーン」みたいだなぁと思いながら、それでもいいかとまかせたら、ソムリエ氏すぐに戻ってきて、もう出てしまったのだと言う。
「それでは1982サンジュリアン村のデュークル・ボカイユはどうだ? これは素晴らしい!値段は700〜800(ここは英語だった)ムニャムニャ…」
頭でとっさに計算して納得してそれにしてもらった。出てきたワインを試飲する。良いワインだけれど、香りに乏しく、何だかまだ堅い。
 この旅行の出発日の前夜、家にて偶然同じサンジュリアンのワインを飲んでいて、1999にも関わらず、すでに澱があり、特徴ある香りと味わいがあった。それにくらべても今ひとつだったので、感想を聞かれたときも、「まぁ普通」と答えた。正直もっと良いのにすればよかったとその時思ったのであった。
 
 楽しく晩餐の時は過ぎ、夜11時過ぎには遅れてやってきた客がテーブルを埋め満席となっていた。デザートが終わる頃には夜中十二時を過ぎていた。日本で有名なフランス料理屋を訪ねると大抵早い内に客がひけて、10時過ぎるとまず貸し切り状態になる。食後の会話が多分ない。

 さて支払いである。請求書がやってきた。ぱぱっと見て、相棒に渡した。が、何だか伴侶の顔が引きつっている。
「どうした?」
「ワインの値段のところ見て」
「ううん…、どれどれ」
確かめたがどういうことはないように思えたが再度他の値段と比べてみたら何だか変だ。そこで初めてこの請求書はすべてユーロで書かれているということが分かった。
相棒の目が点になっている理由がわかった。ワインの相談の時、ソムリエ氏が耳元で囁いた「7〜8ハンドレッド」はフランではなくユーロであった。
この額は、この店でしばらく下働きさせてもらえれば、払えない額ではない。それに勘違いといえども了解して飲んでしまったのだから、支払うのは当然である。
悲しかったのは、旅前日に飲んだ同じ村の5000円くらいのワインの方が遙かに飲み頃で美味かったという事実であった。パーカという人が100点付けようがどうしようがこのワインの開花時期が2010年位がピークだと後に知ってそちらの事の方にがっくりした。で、悪夢の会計は全部で一晩約1800ユーロ(内、ワインが約900ユーロ)であった。
下品になるから日本円では書かない。
 
 それにしても、空港で時計のベルトが切れたときから、ろくな事がなかった。不幸中の幸いは飛行機が落ちもせず無事帰還できたという事。ということで無事返って参りました。


追記  以前フランス人は、ほや(老海鼠)は食べないだろうと書きましたが、何か日本の市場に売っている物とは形が崩れてほど遠い物だったが、スーパーマルシェの魚売り場にありました。あれは確かに「ほや」でした。売られていました。「海の無花果(イチジク)」というのだそうな。どうやって食ってるのだろう??










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