オクラホマ・スティルウォーターから

2005年04月30日(土) 日本の紹介のヒント

アメリカにいると、ちょっとした時に日本のことを聞かれることがあるし、梨奈のクラスで紹介したように、子供に日本を紹介することもある。

学校での紹介だと、下調べをしたり、前もって準備するが、ちょっとした時に聞かれる時のために、ちょっとした豆知識や数字を持っていると、何かと便利だ。

今まで住んでいた所では、いつも日本の緯度と比較していたが、ちなみに日本でどのぐらいの緯度の所に住んでいたかというと、フロリダのタラハシーでは種子島、次のニューハンプシャーでは札幌、オハイオのシンシナティでは盛岡といった具合だ。

それで、この前のクラスの紹介で、先生に、「日本はカリフォルニアとほぼ同じ大きさですが、細長く、北はメイン州ぐらいから南はフロリダまであります。日本海側は雪が多く、南の方(この辺と地図を指して)でも降るんですよ」というと、広い地域で雪が降るというのが意外だったらしい。

アメリカ人はアジアというと、とても暖かいイメージがあるらしく、もちろん長野オリンピックで雪が降ることは知られているが、ごく限られた地域のように思えるらしい。

うちの県は太平洋側と日本海側の両方に面している、本州でも珍しいところなのだが、うちの県でも、日本海側に近い所に高原があり、関西でも指折りのスキー場がある。

それから、これはクラスでは紹介しなかったが、カリフォルニアの面積に、アメリカの半分の人口が集中していて、しかも75%は山なので、人が住む所は限られている、というと、たいていは驚かれる。

住んでいる州や町と比較してみると、地元の人にもわかってもらえやすい。



2005年04月29日(金) 肌寒い

おとといの晩だったか、激しい雷雨の後に強風があって、昨日も少し涼しめだったが、今日はまだ気温が低く、天気も悪かった。

昨日の夜中、ネジャーティは眠られずリビングで本を読んでいたら、急に梨奈が起きてきて、泣き出した。だいぶ戻してしまい、今頃ストマックフルーかなと思ったが、気候が変わりやすいので、気をつけないといけない。

3月は落ち着いていたのに、今月は風邪を引いたり、梨奈がこんなんだったりして、いやだなあ。



2005年04月28日(木) 浴衣

今日梨奈を迎えに行ったら、ちょうど韓国人のアネスがいて、「2、3日前に浴衣を着ていたのは、何か特別行事があったの?」と聞かれたので、この前の月曜日のクラスのアクティビティーのことを話した。

オクラホマに来て初めての浴衣で、日曜日に浴衣を出した時に、濃い目の緑地のものか白地のものかどちらにしようかと思案したが、この時期に白はちょっと早すぎるかなと思って、緑地のものにした。

緑地のものはフロリダに行く前に買ったもので、白地のものはニューハンプシャーにいた時に、母の知り合いからもらった。もう一枚もらったものがあるのだが、浴衣地じゃないんだよなぁ。あれは何か聞いてみないといけない。それで、一番よく着たのはフロリダ時代で、ニューハンプシャーでは多分1回、オハイオでは着る機会が意外となかった。

浴衣で思い出すのは、やはり一番よく着たフロリダで、最初に行った語学学校の学期の最後にあったインターナショナルディナーだ。インターナショナルディナーでは、それぞれの国の食べ物を持ち寄るのだが、日本人としては浴衣を着るいい機会だった。

12月でも日中は暖かく、浴衣でもまだ寒くないぐらいの気温だったのだが、それが終わるころは少し肌寒くなっていた。

寮に帰る同じ方向にちょうどネジャーティも一緒に歩いていたので、寮に着く前だったか、着いた時だったか、私が途中で何回かつってしまった足先をマッサージしてくれたのだが、何の気兼ねもなしに平気で足をさするネジャーティって何者?と、戸惑ってしまったのを覚えている。多分同じ状況で日本人男性はそんなことはしないでしょうって・・・。

その時は本人も友人として介抱してくれたのだが、アメリカに来てまだ数ヶ月だった私は、肌に触れられることに抵抗感がある典型的な日本人の図だった(今も現在形かも)。



2005年04月27日(水) 実家のゲスト

大学時代のゴールデンウィークは、新学期が始まってすぐにもかかわらず、一時帰省するいい機会で、一定期間乗り降り自由な京阪神圏の周遊券を使って、いつも実家に帰っていた記憶がある。1年の時のゴールデンウィークは、連休を前に、一時期うちに住んでいた伯父が亡くなり、その年も、次の年も、親戚一同がうちに集まった。

親戚一同が会すというと、家の座敷に座して、飲み食いする図というのがあって、フロリダの友人に、確かネジャーティと一緒に見せてもらった写真がそのようなもので、典型的な日本人の家族の集まりだよね、と話していたのだが、ああいう集まり方というのを、自分がもう少し年を経てできるものだろうか、と思ったりするのだった。

ところで、私も人を呼ぶことが増え、地元の友人は泊まりがけではないが、泊まりがけで遊びに来てくれる人には神戸や大阪を案内している。この夏も3年ぶりに会う友人が泊まりがけで来てくれるので、さっそく案内コース(勝手にそう呼んでいる)を考え始めた。

コースと言っても、案内するうちに自然にいくつかできたもので、大したものではない。神戸は主な所が集中していることもあって、案内しやすいのだが、大阪は広いから、どう攻めようかなぁ。



2005年04月26日(火) 昨日の続き

昨日の15分の短い説明の中で、子供たちや先生からの質問もあった。

男の子A「日本には火山があるの?」
私「ありますよ」
男の子A「人も火山に吹き飛ばされるの?」
私「火山には近づかないよ」
B先生「人は噴火で吹き飛ばされないのよ」

男の子B「家にはどうやって帰るの?」
私「車で運転して帰るのよ」
O先生「今はスティルウォーターにおうちがあるのよ」

・・・と、全然関係のない質問も。

日本に住んでいるグランパやグランマのおうちに行くことを言ったので、
男の子C「日本にはどのぐらい時間がかかるの?」
私「飛行機で12、3時間かな。でもおうちからおうちは1日かかるかも」

と、そこで、O先生が世界地図で日本を指す。アメリカの世界地図は日本が右端に、アメリカが左端にあるので、随分遠くから来ていることはわかってもらえたが、地球が丸いということまではわからないだろううから、私たちがどうやって日本に飛ぶかまでは言わなかった。

4、5歳の子供たちに説明をするのは簡単なようで難しい。



2005年04月25日(月) 受けはよかったらしい

朝、霧雨が降っていて、学校で浴衣を着させてもらおうかなと思ったが、行くまでに晴れて、帰ってきた直後は天気が怪しかった。そう、私は晴れ女なのだった。

予定通り、巻き寿司とちらし寿司のおにぎりを作る。クラスには19人+先生2人。シンシナティのお友達である巻き寿司作り名人に、海苔を横にすると8個取れるというのを以前教えてもらったので、巻き寿司を3本分、おにぎりは30個ほど作って行った。

それから3年ぶりぐらいに浴衣をどうにか着たが、帯の結び方をすっかり忘れていたので、浴衣を買った時にもらった結び方の紙を慌てて見つけて、何とか着て、予定の時間前には着いた。梨奈の浴衣も持って行って、その場ですぐに着させた。

最初に日本は海に囲まれているから魚が豊富だということと、タコ、タコの足を使ったおかず、たこ焼きの写真を見せて、次にお米が育つ様子をインターネットで見つけた写真で見せて、ご飯をよく食べること、お寿司の説明を少しして、隣の部屋で試食会となった。時間を見ると説明は15分ぐらいで終わったのでよかった。英語もなるだけ簡単でないといけないので、気を遣わずに済んだ。

隣の部屋で1種類ずつ食べたのだが、手で食べてもいいよ、といっても、お箸を使いたいと頑張っている子供たち。「お箸が逆さまだよ〜」という子もいたが、なかなか受けはよかった。先生にも喜んでもらってよかった。





ちょうどおやつ差し入れの係にもなっていたので、のり巻きあられと揚げせんべいを持って行ったら、のり巻きあられののりを剥く子供たち。「剥くなあ〜」と思ったが、それもご愛嬌というもの。ミニサイズの揚げせんべいの方が人気があったみたい。

ご飯を食べる終わるとすでに帰る時間となり、梨奈共々、浴衣姿で帰ったのだが、普段浴衣姿なんて見ないアメリカ人のことなので、この時ほど注目を浴びたことはない。ちょうど日本人のお母さんにも会って、ちょっとお話した。

というわけで、無事終了。



2005年04月24日(日) 近くの町をドライブ

昨日、今日と涼しい。

今日はネジャーティが、近くの町に行ってみよう、というので、ここから10マイル(16キロ)の距離にあるパーキンス(Perkins)という町へ向かった。

そこへ行くには、うちのアパートからすぐ出たところにあるパーキンスロードという通りをずっと走ると、その町へ着く。アメリカの町にはよくあることだが、その町の名前がついた道路を走るとその町へ向かうようになっていることが多い。

それがなぜだかというのは日記に書いたことがあるが、どこで書いたやら。

パーキンスへ着いたが、結局何もなく、もう少し足を伸ばしてクッシング(Cushing)というところまで行ってみた。そこはいくらかお店があって、オクラホマが基盤のブラームス(オハイオで言うUDF)に寄ってアイスクリームを食べた。

あとはまたまた小さい町を通り過ぎたが、途中で、「10.5エーカー(約1万2800坪)、29000ドル(約300万円)」という看板が立った野原を見て、まだまだ土地があり余っているアメリカってすごいなあとため息をついてしまった。

帰った後、セルフサービス用のところで久しぶりに洗車をした。久しぶりに車がきれいになった。ウォールマートでは梨奈のクラスのお友達家族に会い、今度の土曜日にお友達の家である女の子だけのティーパーティが楽しみだねとか、別れ際に、「大好きだよ〜」と言って、2人が抱き合っているのは、何とも微笑ましい光景だった。

ネジャーティも久しぶりに休日をくつろいだようだ。

もちろん研究室にも行ったのは言うまでもない(私も付いて行って、下調べを終える)。



2005年04月23日(土) 買い出し

午後からオクラホマシティへ買い物に行った。

オクラホマシティに行くのは多分約1ヶ月ぶりだったので、この間に新緑も増えた風景が楽しみだった。まだ枯草が残っているところもあったが、緑のきれいな季節だ。今日はちょっと涼しかったが、新緑が眩しいというのを実感するのだった。

最初に、地中海のお店に行った。ここでこの前ジャネットがトルコのオリーブやチャイ、クッキーを買って来てくれたのだが、トルコの製品がそんなになく、黒オリーブだけ買った。オリーブ以外でいうと、シンシナティで活用していたジャングルジムズの方がいろいろあるかも。あ〜、ジャングルジムズ。あそこはよかったなあ〜。

そのお店からベトナム食料品店に向かったのだが、いつもは別の道を通っていたので、今まで見なかった中国系のお店も発見。お店の大きさとしてはベトナム食料品店の方が断然大きかったが、品揃えも気になるところ。そこは今度に行くことにした。

それから、前に韓国人のアネスに教えてもらったオクラホマシティの郊外にある韓国のお店にも行こうと思っていたので、そこに行ってみた。お店の規模は小さいものの、日本のものも置いてあるし、なかなか手頃なお店かもしれない。

ジャネットはその町はあまり治安がよくないから行かないと行っていたが、高速道路の出口の近くなのと、町から少し離れたところなので、治安も何もない。それをネジャーティに言うと、ジャネットはこうと決めたら思い込みが激しいからね、とネジャーティ。そうかもしれないな。

お米も買ったし、お箸や日本のお菓子も買ったし、あとはインターネットで下調べ。



2005年04月22日(金) 水浸し

土曜日になって初めてネジャーティも知ったことなので、実はこの日に起きた水浸しのことは知らなかったことだ。

水浸しが起きたのはネジャーティの研究室。研究室は4階にあり、5階の真上には物理の研究室がある。誰も気付かないまま、その研究室の何かのパイプから一晩中水が漏れたらしい。

その研究室の床が水浸しになるだけではなく、真下にあるネジャーティの研究室にも漏れることとなった。漏れた個所は窓側だったが、2人の学生の机を直撃し、そのうち1人はいつも机の上にラップトップを置いていたので、被害にあってしまった。ネジャーティの研究室にも床に排水溝があるので、そこから水が流れて行ったが、とんだ災難だ。

1人の机から1メートルと離れていないネジャーティの机は幸いにも被害はなかったが、今後のために、バックアップを取っておくのと、ビニールカバーを用意しておいた方がいいかも、と話したのだった。



2005年04月21日(木) 月曜日にデモンストレーション

今日は暖かいというより暑かった。

梨奈の担任の先生から保護者宛てに送られたメールでは、金曜日のスケジュールが詰まってて、お昼寝の時間がない、ということだったので、昨日迎えに行った時に先生と話して、月曜日にデモンストレーションをすることにになった。

2時半から15分程度ということで、ごはん物を持ってきてほしいというのには違いはなかった。
お皿はあるということで、フォークでいいですか?と聞かれたので、お箸を使ってみるというのはどうですか?と提案してみた。

ごはん物は、ちらし寿司の素がまだあったことに気が付いたので、それでおにぎりを作ろうかな。ちらし寿司だけにしようかなとネジャーティに話したら、ちらし寿司より巻き寿司の方が絶対にいい、と言う。両方作ろうかな。お昼ご飯やおやつの時間もあって、その後だし、そんなに食べられへんやろう。ちなみに今度の月曜日のおやつの当番はうちだった。

土曜日にオクラホマシティに行くことにしていたので、月曜日に延びてよかった。お米も底をついてたし。

他には、食べ物の写真を見せてほしいことだった。食べ物というのが、お米、たこ、いかで、お米は育っている様子、というので、インターネットで少し調べてみた。インターネットがなかったらお手上げだ。



2005年04月20日(水) 電話

おとといはシンシナティ郊外の同じ市内に住んでいた日本人の年配の方から、昨日は長年の友人から電話があった。

シンシナティの年配の方は一人暮らしで、去年私がまだいる時に、携帯電話の申込に一緒に行って、活用されているかわからなかったが、無制限にかけられる時間帯についてもお話したので、遠距離のご友人には携帯電話をかけているらしい。うちにも携帯電話でかけている、と聞き、活用されていてよかった。真新しい話はなかったが、お元気そうでよかった。

昨日の友人ともシンシナティを離れて以降初めて話した。メールのやり取りはしているものの、3年は会ってない。夏に日本で会わない?と企む私たちだった。

ところでこの夏、関西方面に里帰りの方いらっしゃいませんか?



2005年04月19日(火) オクラホマシティの爆破事件から10年

梨奈の学校や小学校でも、星条旗と州旗が半旗になっていた。最初ピンと来なかったのだが、オクラホマシティの連邦政府爆破事件が起きたのが、10年前の今日だと気が付いた。

当時、事件が起きた時にはまだ実家にいて、フロリダに発つまでまだ4ヵ月あったのだが、あの年は1月に震災があって、3月のサリン事件があり、約1ヶ月後にこの事件があって、アメリカも大変なことが起きたなあと思ったのを覚えている。まさか10年後にオクラホマに住んで、連邦政府跡をこの目で見ることになるとは夢にも思っていなかった。

梨奈とネジャーティを送って帰宅後テレビをつけると、屋内での式典の中継がすでに始まっていた。式典には記念館の建設に尽力したというチェイニー副大統領や、当時の大統領だったクリントンが出席していた。前州知事の挨拶では、クリントンが大学の同窓で、成績優秀な彼に追いつくのは大変だったから自分は共和党になった(クリントンは民主党)という話にクリントンも受けていて、場を和やかにしたのだ、この事件直後、多大な援助に感謝しているという言葉に、拍手で沸いた。

ちなみにアメリカではこのような場でも、悲しみのあまり、重たい雰囲気にならないように、こういうトップの人は、ちょっとしたエピソードを入れて、場を和ませることがある。

閉めの歌で式典が終わり、屋外のメモリアルパークで、パイプとドラムの演奏が流れ、庭にある犠牲者の名前が彫られた、それぞれの椅子の形の碑に、遺族や友人が花を捧げたりする様子が映って、中継が終わったのだが、犠牲者が何人だろうと、家族の一員を失った人がいることに違いはない。

ニュース(英語)はこちらから。同じページの右に当時の写真があり、クリックすると事件当日から、1ヵ月後の取り壊し、現在のメモリアルの写真と続く。1月に訪れたメモリアルパークの写真はこちら



2005年04月18日(月) 激動の時代の回顧録・「上」だけでも700ページの本

シンシナティの補習校の古本市で本を買い、次の週だったか売れ残った本が無料として置かれていた。その中から文庫本を1冊選んだ。

アメリカのベーカー元国務長官の回顧録、という一見硬いもので、内容は1989年から1992年の長官時代の国際情勢の激変を見たものだが、当人が言うように、主観的で、個人の目から見た激動の情勢を、国内外の人物のエピソードも交えて書いてあるので、数多とある国際関係の本よりは読みやすく、理解しやすい。

上下2冊の「上」しか手に入らなかったので、日本で「下」を手に入れることにし、ネジャーティも多分興味を持って読むだろうから、英語版を探すことにして、とりあえず「上」を読んだ後、アメリカの強力なイニシアチブや、日本が激動の国際情勢から何となく取り残されている感など、思う所は多々あるものの、私たちの世代が同時進行で見ていた激動の国際情勢を別の角度からより深く理解するにはいい本だと思った。

それで、大学時代は国際関係の学部だったことと、ちょうどこの時期に学生だったのだが、旧ソ連が徐々に崩壊していく姿だけでなく、影響を受ける国々の情勢を見たり、東西ドイツの統一の瞬間や、市民が喜ぶ姿に感動したり、イラクのクウェート侵攻や湾岸戦争に憂えたり、激動の変化を学生の目で見たというのは格好の機会だったと思う。

と、同時に、今の中・高生は当時生まれたか、まだ幼稚園の頃だし、大学生でもこの時代は小学校ぐらいだから、旧ソ連の時代やドイツが東西に分かれていた、というのは実感としてないんだなと思うと、10年や15年の差というのは大きく感じる。

そういえば、ベルリンの壁の破片というのを当時日本でも売り出されていて、それが本当に壁の破片なのか、単にどこかのコンクリートの塊にペンキをぬっただけなのか、という疑問と、トルコ人が売っているという噂があったなあと思い出した。

ちなみになぜトルコ人か、というと、旧西ドイツが戦後の経済復興にトルコから労働者を大量に受け入れて以降、ヨーロッパの中で最大のトルコ人移民を抱えているのだが、旧西ドイツに住んでいるトルコ人が儲けようと思ったんだろう。

ところで、私がいた学部では第1外国語と第2外国語を選び、一方は英語で、もう一方はいくつかの外国語から選ぶようになっていたのだが、2つ下の学年は統一に向かっているドイツの影響を受けて、第2外国語にドイツ語を選んだ学生がいつもの年より多かったらしい。でもドイツ語の難しさに選択を失敗した、と同じ下宿の学生が漏らしていた。



2005年04月17日(日) カモの親子

昨日アートフェスティバルから帰ったら微熱があったネジャーティも今日は治まったらしい。そのアートフェスティバルで作った凧を上げにブーマー湖に行った。

風があるにもかかわらず、うまく上がらないのは凧のバランスが取れていないからか、風が変則すぎるのか、といったところで、あまり楽しめなかった。足をもう少し長くしたら上がるかも、とネジャーティ。

鳥の餌用に集めておいたパンの端切れをやろうと水辺を見ると、カモの親子が泳いでいた。子ガモは生まれたばかりだろう。梨奈の声でカモが動いてしまった。

行く方向を先回りして、パンをやり始めたら、親ガモがすごい勢いで食べていた。子ガモも負けじと食べていた。7羽の子ガモは親ガモにぴったりひっついていたが、親ガモはメスなので、オスはどこへ行ったんだろう、と思っていたら、かなり離れた所にオスのカモを2羽見かけた。のんきなものだ。

ちなみにカモもそうだが、オスの方がきれいな色をしていて、メスは子ガモと色が変わらない。




カモの親子



2005年04月16日(土) アートフェスティバル

ネジャーティがどうも風邪気味らしい。オクラホマに来てからというもの、体調に悩まされてるネジャーティ。

ところで先々週梨奈といった公園でアートフェスティバルに出かけた。4万人弱の小さいこの町で混み具合はどうかなと思ったが、駐車場にも困らず、そんなに混んでいなかったのでよかった。

アートフェスティバルでは4、5ヶ所のコーナーに分かれていて、地元の生徒による作品の展覧や、手作りの陶器やガラス製品、絵などの出店、昔のワゴンや蒸気の車、ポニーライド、子供のクラフト作りなどがあった。様子はこちら

帰る時に、後で寄ろうと思った出店に寄ってみた。そこでは女性がバッファローの油脂で作った石鹸を売っていた。石鹸は香り別にいくつかのバスケットに入っていて、香りを選ぶのに迷ったが、風邪の治りかけにもかかわらず鼻が利かないので、とりあえず2つ選んで購入。スギ(cedar)も捨てがたかったなぁ。1つはHPのキリ番の賞品の予定(詳しくはこちら)。

出店の女性はこの町から何マイルか南にある町に住んでいて、お店はないが、この町の多文化センターで売っているらしい。週に何回かはこの町に来ているらしく、電話してくれれば少し安くしますよ、と言ってくれた。

ネジャーティもご満悦のフェスティバルだった。



2005年04月15日(金) 何をしようかな

昨日のこと、梨奈を迎えに行った時に、担任の先生から、クラスで日本のお話か、日本語の数か、何かを教えてほしいんだけど、と言われた。いつでもいいですよ、と言うと、来週の金曜日はどうか、というので詳しい内容は後で決めるとして、日にちだけ決まった。

それから、梨奈に持たせているお弁当のごはんの話になって、先生もクラスの子供たちも、「スティッキーライス(ねばねばするごはん)」に興味があるらしい。うちには炊飯器(英語ではライスクッカー)があって、ほとんど毎日炊いています、と話した。それで、簡単なものを持ってきてもらえないか、ということだった。

おにぎりのふりかけがここのアジア系のお店で手に入るかわからないが、忠実におにぎりか、巻き寿司を持って行くかというところだろう。多分どちらにしても、大した違いはない。とりあえず、ごはんがくっついている様子がわかればいいんやろう。

食べ物の話の続きに先生が「日本ではタコを食べますか? イカは?」と聞くので、食べますよ、というと、「普段アメリカでもイカも?」というので、アジアンマーケットで手に入れば食べることもある、と言っておいた。実家の近くにはタコが捕れる漁場がある、と言おうかなと思ったが、そこまでは言わなかった。

ちょうど今、クラスでタツノオトシゴ(英語ではシーホース:海の馬)など海の生き物の話をしているらしく、日本でタコやイカが食されることを確かめたかったのかも。タツノオトシゴの赤ちゃんも、じゃこにまぎれていたので味を確かめたことがある、とまでは言わなかったが、そんなことを聞いた日には、先生は気を失うやろう・・・。

ネジャーティに来週の金曜日の話をすると、梨奈の浴衣を持って行って、自分も着て行ったら、というので、それはいい考えだと思ったが、オハイオでは着なかったので、うまく着られるかな?



2005年04月14日(木) メークオーバー

このところ、朝2人を送っていってから、テレビを見ながら朝ご飯の続きを食べている。この番組がなかなか面白い。

アンブッシュメークオーバー」という30分番組が2回あるのだが、「アンブッシュ(ambush)」というのは「待ち伏せ」、「メークオーバー」は「別のものに変える、作りなおす」という意味で、6人のスタイリストのうち1人がある町に行って、街頭でファッションやお化粧などを改善した方がいいという人を見つけて、見事に変身させるというもの。

30分に2つのエピソードがあって、それぞれスタイリストが違うのだが、選ばれる人も、女性だけでなく男性のこともある。年齢層もいろいろだ。だいたいは2、3人連れで歩いている人から1人選ぶ。その日の夜にパーティーがある人もいるが、そうでなければ、夜にどこかのお店でみんなで集まって、変身を見る。

選ばれてから時間があっても5時間ぐらいしかない。美容室では3人が取りかかり、1人はカット、1人は毛染め、もう1人はお化粧の担当で、もし選ばれたのが男性なら、ひげを剃るとかの手入れとなっている。染めて髪の毛を洗った後に、スタイリストと一緒にブティックに駆け込み、服を選ぶ。

美容室に戻り、髪の毛を完成させ、新しい服に着替えるが、本人にも鏡を見せず、スタイリストの合図で出来上がりを見る。確かに変身後はかなり変わっていて、本人もびっくり。お店で待っている家族や友達も変身ぶりにびっくり。

アメリカの服装のカジュアルさや、服装に緊張感がある人とない人の差は日本より大きい。私ももともとカジュアルだったが、カジュアルさや緊張感のなさに慣れると、日本に帰った時に大丈夫かな、と思ってしまうのだった。今度帰るのは夏だから、あまり気にしなくていいんだろうけど。

それで、変身後の髪形もすごくいいのに、私も含めて周りの日本人のお友達がアメリカの美容室に満足するというのを聞いたことがない。なぜかおかっぱにされるのが関の山だ。どこにそんないい美容室があるねん・・・・。シカゴの日本人の美容室に行ってからすでに半年。夏に日本に帰るまでカットを辛抱している。



2005年04月13日(水) 丑三つ時

鼻声ではあるものの、調子が戻ってよかった。

ところで、長く日記を書いていると、同じトピックで以前に書いたことがないかなあと思うのだが、あるかどうかを一つ一つ調べるのは容易なことではない。他のウェブ日記にはカテゴリー別に分けられるものもあっていいなあと思うのだが、移すのは不可能なので、このウェブ日記の機能が増えてくれればと思っている。

この「丑三つ時」というのも以前書いたような・・・。


「草木も眠る丑三つ時」というぐらいだから、とても静かなのだろう。丑三つ時というのが、丑の刻限ということはおよそ見当がつくとして、丑の刻限を四つに区切って、その三つ目を丑三つ時というらしい。そこまで知らなかったが、今でいうと午前2時から2時半ぐらいに当たるらしく、まさしくこの時間帯、布団の中に入っていても、頭の中でいろいろと考えが巡らす。一番静かな時間帯なのかわからないが、考え事をするならこの時間帯はいい。

不思議なのは、私の場合、これが1時とか1時半では早すぎて、3時ではすでに遅く、眠りに落ちなくても思考力は眠気に勝てない。なぜか2時ぐらいというのがしっくりくる。

おとといもちょうど丑三つ時にはまってしまい、その後は眠たかったにもかかわらず、なかなか寝つけなかった。



2005年04月12日(火)

昨日の夕方、梨奈が急に耳が痛いと言い出し、痛さで泣くぐらいだったので、ネジャーティが病院に連れて行った。ちょっと炎症がある、といわれたらしいが、病院からもらった診断書には中耳炎とある・・・。注射もなく、診察の後、薬の処方箋を書いてもらい、帰る途中にドラッグストアに寄って、お薬をもらってきた。

帰ってきてからお薬を飲んですぐに寝てしまい、今朝起きた時は元気で、痛がっていなかった。お昼にも薬を飲まないといけないので、学校に持って行き、ネジャーティが書類に書き込んで頼んだらしい。学校では保護者の許可がないと勝手に薬を飲ませてはいけないらしく、許可する書類があるらしい。こういうところはアメリカらしい。

受付のキム曰く、キムのところの女の子も最近炎症があって、梨奈よりも悪かったらしいし、他にもよく似た症状の子がいるらしい。



2005年04月11日(月) 花粉

今日は熱が下がっていた。昨日はやっぱり熱があったんだなあと違いを感じる。

ところで、「花粉がすごいから、窓をあまり開けない方がいいよ」とネジャーティが言っていたが、よく見ると、うちの車だけ、すごいことになっている。

そういえば、この新しいアパートの木は、新しく植えたものなので、花粉が飛ぶような木に育っていない。

・・・・となると、思い当たるのは、ネジャーティが週末に行った大学キャンパスの駐車場。あそこは大きな木で覆われてるからなあ。



2005年04月10日(日) 微熱

なかなか微熱が引かない。

頭痛が治り、だいぶ楽になったので、微熱を感じなかったのだが、測ってみるとやっぱり微熱があって、なかなか下がらない。明日には引くだろう。



2005年04月09日(土) 調子悪〜い。

調子悪〜い。

前から車の後部座席の窓の調子が悪かったが、昨日梨奈が開けて、閉まらなくなってしまい、ネジャーティが直そうとしていた。しばらくして隣人で同じ研究室のトニーが出てきたので、トニーにも見てもらって、モーターとスイッチの部分を外してみたらしい。

モーターは大丈夫そうだったが、スイッチの部分がだめらしく(開くが閉まらない)、車の部品屋に電話で聞いてもらったが、うちの車の分は置いてないらしく、フォードのディーラーにかけたら、土曜日は開いてないらしい。

結局元に戻して、窓も閉めて、ネジャーティの修理は終わり。

夜には梨奈のクラスの子の誕生日会に行く。



2005年04月07日(木) 風のち風邪

梨奈の風邪が移ったらしい。



2005年04月06日(水) 雨のち風

昨日の夜中、梨奈が寝苦しかったらしく、泣いたり、添い寝をしたネジャーティによると何回も目が覚めたらしい。寝不足だったので、今日一日家でゆっくりすることになった。

咳で胸が痛そうな様子だったので、胸にぬり薬をつけたが、少しは治まったかな。

夕方前からかなりの雨が降ったからか、すごく眠たかった(二人とも気象に左右される体質なのかも)。その後はすごい風だし、ここの気候は何なのだろう。



2005年04月05日(火) 竜巻の季節

最近は気温が20度を越えることがあるが、風が吹いていることが多く、おそらく乾燥しているので、あまり暑さを感じない。

ところでオハイオにいた時と同様、この時期から竜巻が発生するらしい。オクラホマは竜巻で有名ですよ〜というのを聞き、99年にシンシナティで起こったという竜巻は経験しなかったものの、竜巻の本場(?)に行くのかァ・・・とオクラホマ行きは複雑だった。

今日も風が強く、夕方は不気味な天気だった。ちなみに天気が西から東に変わっていくのは日本と同じだが、オハイオ以上に空が広く見えると(といっても砂漠にサボテンが生えてるというところではないのですが)、西に見える夕日と無気味に広がる雲がいや〜な感じ。結局、竜巻と雷雨は注意報で終わり、何もなかった。

今日行った矯正歯科の助手の話によると、竜巻が起こる時というのは決まった兆候があるらしい。
一つは空が変な緑色になること、もう一つは空がぴたっと動かないことらしい。どこにいた時かわからないが、駐車場の屋根をやられたとか、テキサスのオースティンにいた時に、同じ兆候を見て、竜巻が起こるよ、と周囲に漏らしたら、予測通り竜巻が起こったらしい。

よくテレビで見る大きな竜巻だったらどうしよう、と思うのだが、あんなん来たら怖いなあ。シンシナティにいた時に、もし避難するとしたら、Tri-Countyモールの立体駐車場だなと思っていたが、この辺にはそういうのがないから、行くとしたらどこだろう? とりあえず竜巻が起こるのはオクラホマシティの方で、この辺は来ないそうなので、大丈夫かな。



2005年04月04日(月) 家でおとなしく

昨日から梨奈は熱が出て、今日は家で休養。
な〜んか私も眠たくて、長い昼寝をした。



2005年04月03日(日) 貝割れ大根

シンシナティにいた時は裏庭もあって、チューリップや朝顔、コスモスを植えて、小学校で年毎にいろいろ植えていたのを思い出していたが、実際に花が咲くとうれしくなっていた。またまた調子に乗って、シカゴの日本のスーパーでなすと三つ葉、貝割れ大根の種を買ったが、植える機会がなかった。貝割れ大根って育てるのに土じゃなくてもいいから、室内でさっさと育てたらよかったんだけどな。

ちなみに貝割れ大根によく似た、他の種類のスプラウトはあるが、アメリカのスーパーには貝割れ大根はない。ジャングルジムズにもなかったもんなぁ。

それで、脱脂綿でも育つということで、ヨーグルトのカップに脱脂綿を置いて、種を植えてみた。種をばら撒くだけでいいらしい。

5センチほど伸びるまで新聞紙で覆っておくということで、最初の2、3日は気になって何回も覗いてみたが、芽が生えた後は急にぐっと伸び出し、5日で5センチになった。新聞紙を取って、弱光に宛てて10センチまで伸ばすらしい。新聞紙で覆っていたので、葉っぱが薄い黄緑なのだが、日に当てて緑にするというのは、何だか理科の実験みたい。

でも、何かを植えて実際に育つというのはなかなか面白くて、またどこかへ引っ越したら、お花だけでなくて、野菜を植えてみたいなあ。



2005年04月02日(土) 太刀魚つづき

ホットプレートで焼いた太刀魚は今度は日本で食べるような味に近かったが、ネジャーティはやはり味があまり好きではないらしく、魚が食べられるように(それでも食べてくれたんだけど)、食パンを焼いて、それにはさんで食べていた。

確かに、フィッシュバーガーってパンで食べるけど、魚といえばやっぱり白ご飯でしょう、と日本人の私としては思うのだが、さすがパンが主食のトルコ。やっぱりネジャーティってトルコ人だぁ。

イスタンブールで揚げたサバをパンにはさんで売っているというのがガイドブックに載っているので、それを見せたら、そうそう、イスタンブールで売ってるあれはおいしい、とかいうのだが、同じページに載ってた、揚げ串にはイカやタコもあるというのを言ったら、タコを食べたのは、日本に初めて来た時に大阪で食べたたこ焼きが初めてらしい。

今まで食べたもので、半分はアメリカに来てから初めて食べたものだ、というのは誇張じゃないみたいだけど、エビも食べたことがなかった、ってどんな所に住んでてん・・・。私の場合、アメリカに来て初めて食べた魚介類というと、ロブスターとナマズぐらいなものかな。

とりあえず、太刀魚も焼き加減がどうであれ、うちの家では人気がないことがわかったので、買わないだろうなあ。同じく人気がなかった子持ちシシャモは食べ終わったが、あれは私のお昼ごはん用によかったので、あれは買っておこう。



2005年04月01日(金) ホットプレート

今日は梨奈が学校が休みだった。ここの大学で子供向けのアクティビティーが今日あるというお知らせの紙をもらっていたのだが、それがだいぶ前だったので、その紙をたまたま見て気付いた時には、すでに終わっている時間だった。明日はYMCAで無料で同じようなアクティビティーをしているようなので、それに連れて行こうかな。

シンシナティを発つ直前のクリスマスに、隣に住んでいたニコールがクリスマスプレゼントとしてホットプレートをくれた。新しい所に引っ越してお鍋とか探すのが大変だろうからと言ってくれていたのだが、こちらに来て1ヶ月は料理もしなかったし、2月は引越早々、大変な体調で、料理している場合じゃなかったし、なかなか使う機会がなかった。

2、3日前に餃子を焼くのに初めて使ったのだが、楕円系でかなり大きいホットプレートで、使い勝手がよかった。焼き上がったところを写真に撮って、ニコールに送ろうかなと思ってたら、ちょうどその日はネジャーティがカメラを学校に持って行っていたらしい。

残りの太刀魚も焼いてみたりして(今度はちゃんと開いて)、うまく焼けて喜んで、調子に乗ってパエリヤを作ったら、焦げてしまい失敗。ホットプレートで作るパエリヤのレシピの通りに作ったんだけど、多分日本のホットプレートと温度加減が違うんだろうなあ(・・・と、温度のせいにする)。

関西人としては、調子に乗ったところでお好み焼きを作るべきやった・・・。


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