日々の泡・あるいは魚の寝言

2001年09月28日(金) めでたく4万ヒット

おかげさまで、本日、風の丘通信は、4万ヒットを迎えました。

ちょうど、岩崎書店の「アカネヒメ2」の第一稿の〆切と重なったので、朝五時までおきて、ようすをうかがっていたんですが(でも、自分でトップを見に行けないままの状態で見守ってたんです〜。だって自分で踏んじゃうでしょう?)、結局は、原稿完成後、私が寝ている間の早朝に、小学生(だったよね?)の女の子が、見事、4万番のカウンターを回してくれたみたいです。
ありがとう、高山志保ちゃん。
それからすず猫さん、あなたも自分のHP更新準備中で、いっしょに夜更かししましたね(笑)。楽しかったですね。
今回の「きりばんだと画像がでるカウンター」の企画と制作は、ミーシャンさんでした。画像はすず猫さんです。ふたりとも本当にありがとうございました〜☆

風の丘通信は、今後も私なりの理想のサイトをめざして、進んでいくつもりです。
その旅の道のりを、みなさまどうぞ、おつきあいください。
それから、旅のナビゲータ、管理組合のみなさま、いつもありがとう☆

#先日書いた日記、「ひとりであるいていく」に、みなさまのいろいろな感想をいただきました。ありがとうございます。とりあえず、今は崖際の道から、ちょこっと街の方にでてきてますが(笑)、また「ルルー6」という崖に向かって、まもなくスタートする予定です。……あ、その前に、短編集のゲラが(爆)。

#さらにその数日前の日記、カシオペアへの思い入れを語った日のもので、どんなにカシオのワープロがすごいかという話を書きながら、客観的なデータを何も書いていなかったので、追記で主なスペックを足しました…。ははは。



2001年09月25日(火) ひとりで歩いていく

ぬるめにいれたコーヒーに、カルーアのリキュールを落として
ノートパソコンの光る画面を見ている

少しずつ少しずつ
字を刻むように書いていく

足はこの部屋の床の上にあるけれど
いつもどこか知らない世界の
崖の上のそのぎりぎりの道を歩いている
タロットカードの「愚者」みたいに
ふわふわと危ない足取りで歩いている

物語を書くことは楽しくて
そうして私は自分が書く作品を好きだけれど
でもいつもこの物語はどこの星から降ってくるのだろうと思う
それがわからないのは なのに星を待つ力を持っているというのは
その苦しみは たぶん同じ道を行く人にしかわからない

崖際で私は星を待つ
すぐそばに怖いものが待っているのを知りながら
崖の下にすいこまれそうになりながら
空を見上げて 私の元へ降ってくる光を待っている

光を受け止めて
光を紡ぎ続ける

いつか星が降ることを信じられなくなる日がくるのだろうか?
崖のそばにいるのが怖くなる時が
この道を行くのが怖くなる日が

私にはわからない
いまはだから 星の光を抱きしめて
ひとりで歩いていこう

どんなにたくさんの友だちがいたって
どんなにはげましてもらったって
この道を行くのは私ひとり
優しい言葉は風のように耳元を通り過ぎ
私を前へと進めてくれるけれど 歩くのは私
ずっとずっと ひとりきりの道

でもお話を紡ぎ終われば
待ってくれている人たちがいるから
私はこの道を歩いていこう
たくさんの星をてのひらにうけて

短い旅がおわり 暖かな世界に帰る
そしてまた 次の旅が始まる
そのくりかえしを
私は生き続ける
星の光を待ちながら



2001年09月21日(金) 真夜中の

〆切せまるアカネヒメ2の資料を読んだり、カシオペア&シンクパッドの設定をいじったりしていたら、こんな時間になってしまうのでした。

眠いので、でも、大事なことだから、忘れないように書いておこう。
「アカネヒメ2」は、読んだ人が幸せになるような話にしたいです。

世の中には、辛いことやいやな事件も多くて、人間そのものや、自分自身が嫌いになって、絶望してしまうこともあるけれど、でも、そんなことばかりじゃないって、思えるような話。
ささやかな愛や、人のぬくもりをそっと抱きしめるような話。
アカネヒメ2は、そんな物語にしたいと思っています。

かもめ亭管理組合内で、ないしょの企画、スタート。
まだ、海のものとも山のものともしれませんが、できあがるとちょっと面白いものになるかも?
乞うご期待。
とかいって、首尾よくできあがるとしても、完成は数ヶ月後です(笑)。



2001年09月17日(月) カシオペアとたわむれる

CASSIOPEIA FIVA(MPC−206VL)を買ってしまった。

これでうちには、ネット&HP作成用e−one500と、執筆用メインマシンの、ThinkPad iシリーズ1620、そしてFIVAの三台のパソコンがあるということになってしまったのでした。

私ごとき、零細児童文学作家には、贅沢かな、とも思えたんですが、実はカシオペアFIVAは、最初のタイプがでたときから、ほしかったのです。
だから、もう三年越しくらい、憧れていたので、許してください…。

カシオ計算機というメーカーは、好きなのです。
ラジオ付きワープロとかしゃべるワープロとか、腕時計型カメラとか、変なものいろいろだすし。
いやその、もちろん、色物メーカーとして好きなだけじゃないんですよ。
私はカシオの高機能ワープロDarwinCX100のユーザーでした。これは、決してメジャーなワープロじゃなかったけど、ほんとに高機能だったんです。
辞書もたくさんの言葉が登録されていたし、ユーザー辞書もたくさん登録できたし、変換も早かったし、記憶容量もすごかった。そもそも、文書を三つ同時に作れるワープロなんて、他社にはなかったんです。
パソコンのプリンタを接続すると、何百枚の原稿でも驚くような早さで印刷できた。カラーの液晶もきれいだった。コードレスマウスで、快適だった。
つかいすぎると、熱暴走することくらいしか、欠点はなかった。
マニュアルは何冊もあったし、分厚いのもあったけど、ユーザーの目線で作ってあったので、至極わかりやすかった。ワープロ自体も、操作が覚えやすかった。
仕事はさくさくはかどって、そう。あのワープロが、私を支えてくれたんです。お茶こそ入れてくれませんでしたが、有能な秘書か執事のようでした。

Darwinは、うちのと同時期に白黒画面でモニターの部分が縦に90度回転するタイプがでて…あれは活字認識機能までついていた…次にそのカラー版がでて。最終的にはネットにつないで、内部の機能を更新したりできるタイプへと進化していきました。そう。きっとあれが最終形態だったんでしょうね。
今はもう、生産されていないようです。
とにかくあれは、素敵なワープロだったんです。
作家仲間ではほかに使ってる人にあったことはなかったし、編集者に機種名をいうと笑われるようなワープロでしたが。でも、パンフレットで読み比べてみると、Darwinは、書院よりも文豪よりも、驚きの高機能ワープロだったんですよ。

話は、三年前にもどります。
カシオが、パソコンをだす。
なんでも昔だしていたんだけど、一回撤退していたのが、捲土重来をはかるらしい。
こんなのを当時、あれは新聞の経済欄で読んだんだったかな?
カシオびいきとしては、応援したくなりますよ。
でも、最初のFIVAがでた頃は、私には買えるだけのお金がなかったんです。
贅沢できるような状態じゃなかったんですね。

でも、昨日、私はついに、FIVAを手にしました。
そういうちょこっとした贅沢ができるような作家になっていたのです。
FIVAは、小さくてかわいくて、おもちゃみたいなのに、うちのパソコンの中で、一番高機能です。おまけに頑丈だし、10時間電源なしで稼動できます。液晶もやはり、きれいです。起動は早いし、いろんなオリジナルの機能の使い方もわかりやすいです。マニュアルも相変わらず、ユーザーに親切だし…。
FIVA、大好きです。
…よくわかんない、「機能を制限されたリナックス」もおまけについてるし。
(ソフトはあらかじめ入っている、MP3プレイヤーとFTPツールしか動かないみたいです。…こ、これって、いったい何?)。

それにしても、懐かしかったことが一つ。
FIVAは起動画面で、当然のように、「CASIO」のロゴがでるんですが、それは、Darwinの起動画面と同じなんですね。
今年三月に、ThinkPadに乗り換えてからというもの、何ヶ月かみていなかった、起動画面、それまでは毎日のようにみていたロゴがFIVAの液晶に浮かび上がるのをみたとき…。
懐かしい場所に帰ってきたような、そんな気がしたのでした。

さあて♪ FIVAのメモリ増設は自分でやるぞっと。
それにしても、もしカシオがデスクトップのパソコンをだしたら…
買う…だろうな、私は(笑)。

FIVA

<追記>
DarwinCX−100(95年発売)の主なスペック。
内蔵辞書数/変換単語訳55万3千語、AI辞書数約29万5千語。
ユーザー辞書数/約920語。
画面の表示方式/バックライト付きカラーSTN液晶表示。48万画素。
内部記憶容量/A4版、約24ページ×3。

DarwinGX−1000(99年発売?)の主なスペック。
内蔵辞書数/約219万7千語。
液晶表示/13.3型カラーSVGA。
ワープロ文書容量/A4版×1100ページ分。2.6MB。
インターネットによるバージョンアップ可能。



2001年09月12日(水) おちこみ

だめです。どうも今朝から、あのアメリカのテロ事件がきっかけになって、気力が落ち込みまくりです。仕事できません。ごめん>Nさん

最初は、「旅客機がビルにつっこむテロがあった」とニュースで聞いても、なんだか映画のようで、何がおきたのか理解できなかったんですが、夕べ遅く、知人の旦那様があの最初に倒れたビルで働いてたという話を聞いたあたりから、怖くなってきて、今朝遅く起きて、ネットで情報を調べだしてから…。

旅客機って、まさか、お客さんつんだままのを使ったとは…。
救助活動にはいった人々の上に、ビルが崩落したとは…。

幸い、知人の旦那様は、無事、ご帰宅されたのです。
それはほんとうにほんとうに、よかったです。

二度と、こんなばかげたテロがないといいと思います。



2001年09月09日(日) 読書感想文「青い惑星」&「もうすぐ飛べる!」

現在、ルルー6,構成たてなおし中の村山です。
で、こんな時は、半ば現実逃避で、人の本が読みたくなるのです。

さっき読んだのは、「青い惑星」(長崎夏海・学研)
「もうすぐ飛べる!」(越水利江子・大日本図書)
おお、どっちの作家も季節風同人じゃん(笑)。

「青い惑星」は、シンプルに要約すると、自己嫌悪で精神的に死にかけていた小六の女の子が、作家志望の若い叔母さんにつれられて、サイパンへ行く。そこで、サイパンの歴史にふれてさらに滅入ったりするんだけど、大きな海に抱かれることによって、自分が(人間というイキモノそのものが)何か大きな存在に許されているんだということを知る(で、立ち直る)、という物語です。

私は長崎さんの作品と、相性がよいので、文章を読んでいても、キャラクターのせりふを読んでいても、うへへ〜と顔がにやけてしまうのですね。テンポがよくて、品がよくて、無駄がなくて、すきなの。
でもって、キャラ設定も、毎度、「頑固でピュアで不器用で、真っ正直で、自分一人で抱え込んで苦しむ」人がでてくるんで、そういう人物設定は大好きなので、感情移入しやすい。
構成もうまい。はしょるところは上手にはしょって、余韻も残すし。
このへんは、長崎さんは洋画(それもマイナー系)がお好きなので、影響を受けているのかなあ、と、思いますね。とにかく構成と演出が映画的。
回想シーンの入れ方も上手。

ただ、今回の本に関していうと、最後の「許されている」と主人公がさとるシーンが、もっともりあげるか、さりげなくすませるか、どっちかのほうがよかったんじゃないかな、と思いました。
ラストの「これからはお母さんとの関係も変わっていくだろう」みたいなことを主人公が思うあたりもいらないと思います。
一番気になったのは、現地の人がでてこないことかな? 遠景でもいいから、やはり、サイパンの人や、他の国の人の描写も読みたかったです。
そのへんがちょっと惜しかったけど、でも長崎夏海はやはりよいのですな、うん。

「もうすぐ飛べる!」は、クラスで、ゲームのようないじめにあったヒロインの、ささやかな戦いと、いやしの物語です。
これはねー。もうねー。
気が弱い人は読まないでほしい、といいたくなるほど、いじめのシーンが怖かった。いや別に、暴力的ないじめがでてくるわけじゃないですよ、「よくある」いじめが書かれているだけ。でも、怖いのだ。
おまけにいじめのシーンが多い。本一冊の、九割がいじめのシーンだったかも。
越水さんは、文章がうまい人ですから、よけいに辛い…。

さて、この女の子(こちらは五年生)、飛べない五位鷺の雛を発見して、「どうしよう、どうしよう」と、心配するのですね。雛の心配と、いじめの話と、あいまに、クラスの中でただひとり、味方になってくれるかもしれない動物好きの少年との間の、今にも切れそうな心の交流が交互に書かれている本です。

とっても心臓に悪かったなあ。
雛が死んだらどうしよう、と思ってました。
少年との間の友情も、先行きが不透明に見えたし。

結局は、ハッピーエンドで、よかったです。
でも、このハッピーエンド、いじめがおわってめでたしめでたしじゃないんですよ。いじめは続行中なのです。うう。
しかし、ヒロインは、たぶん男の子からもらった壊れやすい友情の証を抱きしめて、ささやかに戦い続けるんでしょうね。暖かい終わり方でした。
そうそう。鳥と卵、扇や面、といったものが暗喩として使われていておしゃれでしたね。

で、あとがきに、越水さんの一言がついていまして、いわく、「子どもには子どもの勇気がある。いじめと闘え、ヒーローになれとは私にはいえない」というような意味の言葉が書いてあるのです。
「いじめられている子どもにそっと手をさしのべること、その小さな勇気、それがゆくゆくはいじめをなくしていくのだ」と、そんな言葉が…。

ああ、と、私は思うのです。
越水さんは優しい。越水さんは、人格者だ〜。
いやこれは嫌味じゃなく、なのです。
越水さんの性格って…HPをみるにつけ、包容力があるのですよね。どんな人がきても、うけいれそうな心の広さがある。
根本的なところで、人間を信じている、信じたい人なのだと思います。

私はこういうのは書けないですね。
なぜって、誰かひとりや少数の人を信じることはあっても、多くの人を信じたりはしないから。もっというと、全体や集団を信じてないんです、多分。
人は孤独で、だからこそ、美しいんだと思ってるし。
だからこそ、人とつきあえるんだと思ってるし。
だから、いじめをテーマにした作品を書いても、個人の心の中で循環して、解決する話にするんじゃないかな、というか、そういう話をこないだ書いたな、実際。
(これはたぶん、長崎さんもこのタイプだと思います。ていうか、「人は孤独だ」というのは、いつも長崎さんの本にでてくる言葉だし)。
クラスの子からさしのべられた手で、主人公が立ち直る、という話は多分、書かないような気がします。
クラスの子じゃなく、学校外の人の助けなら、ありのような気もしますが…。
当事者じゃない人との出会いがきっかけになって癒されていくとかね。

私は、いじめられた主人公を、学校に何がなんでも返そうとは思わないし、いじめっ子と仲良くしなさいと書くこともないし。
好きな奴と好きなようにつきあってくれ、と思ってるし。
大体、うちのヒロインたちは妙にプライドが高い子ばかりだから、「いじめっ子なんて最低の人種だから、たとえ謝られても、私は二度とつきあわない」くらい、いいかねない…と思う。
いま書いてて思ったけど、すごくやなキャラですね。
いかにも、いじめられそう(笑)。

でも、こういうことを書いていても、「もうすぐ飛べる!」という作品は嫌いじゃないし、作品のもっているメッセージも、貴重なものだと思っています。
ただ、作家の個性って面白いなあと、感慨に耽ったというお話でした。
いろんな作家がいて、いろんな本がでて…そりゃいいことだと思います。







2001年09月08日(土) コーデリアの気持ち

「リア王」を子どもの頃に読んだとき、コーデリアの気持ちがよくわかるなあ、と思ったものです。
そう、あの、ひとりだけお愛想がいえなかったばっかりに、父王に疎まれた末の姫君ですね。

優しい言葉とか、誰かを励ますための言葉とか、愛情を表現するための言葉とか…。
そういうのを口にしたり、文章にしたりするのが、私はとても苦手です。
天邪鬼だから、ということもあるし、照れ屋だからかもしれないし、なによりも、言葉というものの不安定さを知っているからかもしれない。

どんなに思いを言葉にしても、それは心の中にある思いのすべてではありませんし、人にはうそをつくことができる。
で、人はいくらでも、きれいな言葉を語ることができる。
私はいくらでも、うそがつける。

それがわかっているから、「ああ、このタイミングで優しい言葉をかければ、きっと相手の人は喜んでくれる」とわかっていても、思いついた一瞬後に、さめている自分を発見したりするんですよね。
私が今相手に話そうとしている言葉は、どこまで真実なのだろうか? と、思い始めてしまうから…。

これはただの、優しいうそなんじゃないのかな?
自分が相手によく思ってもらいたいから、優しいふりをしているんじゃないの?

そんなふうに考えていると、だんだんわけがわからなくなってしまう。

で、けっきょく、一言ですませたりするのです。

「がんばって」
「大丈夫だから」
「心配しているから」

このへんのシンプルな愛情だけは、真実だとわかっているので。

言葉を費やして、相手への思いを語ろうとするとき、どんどんそこには、自分をよく思わせようとする演出がはいるような気がするのです。
純粋な思いからは遠ざかるような気がするのです。

だから私は、優しい言葉を書くのが苦手。
お仕事の上なら、小説でなら、いくらでもかけるんだけど…。

本当に優しい人は、こんな馬鹿なことで悩んだりしないんだろうな、と、思います。そういう人々が私は非常に、うらやましい。


 < 過去  INDEX  未来 >


chayka [HOMEPAGE]