西方見聞録...マルコ

 

 

書評:アイデンティティ・ポリティクスを超えて - 2021年06月12日(土)

 すみません、すみません。あんなD論書いていながらこの本を未チェックだった私を許してください。ちょっと許されないミスかも。この本をお勧めくださったKさまありがとう〜

さて金泰泳著「アイデンティティ・ポリティクスを超えて―在日朝鮮人のエスニシティ」を読みました。。

 1〜4章のマイノリティのエスニシティがどう歴史の中で作用してきたのか、原初論か用具論か、在日コリアンはその中で如何に自らの在り方を規定してきたのか、世代を重ねるにつれ、移り変わる立ち位置がえがかれます。様々に読ませる箇所満載です。

 しかし、やっぱり5章の「在日朝鮮人子ども会の世界」が、同じようにベトナム系の子どもたちの放課後教室に関わってる私には胸に刺さるものがありました。

 子どもたちが、民族の音楽や踊りを表現する活動、主にベトナム式獅子舞(ムアラン)を子どもたちとともに、すでに15年近く行っています。

 本番前子どもたちに「ムアランは他の皆にはできない、あなたたちにしかできない特別なスゴイこと。でも一生懸命やらないとこのスゴサは伝わらない、みんなにスゴイ!と言ってもらえるよう、がんばりましょう。」

 そう言って私たちはマイノリティの子どもたちを舞台に送り出します。

 子どもたちが主体的に「見せる」活動に関わっているのか、「みられる客体」になるのかで、この活動は全く意味が異なります。最初はあらゆる活動は指導者も子どもたちもわくわくして、子どもも主体的に取り組みます。

 しかし時の流れの中でそれがルーティン化し、先輩から受け継ぐものになるとき、見せる主体から子どもたちは見られる客体に移動します。毎回子どものワクワクを引き出すようにするにはどうしたらいいのかな。等と思いつつこの本を読みました。

 本の本筋としては5章に出てきた「宋順子」さんの事例が著者のパズルのピースとして登場します。

 子ども会を居場所に成長した彼女は、中学では民族名を名乗り、民族教育の旗印となります。しかし高校では「戦術的に」日本名に再改名し、日本社会の差別に抗し、民族からの抑圧も躱し、自らの生を営もうとするところでこの本は終わります。

 ラストで引用されるホールの言葉がおそらくこの本の肝なのでしょう。
「私たちが、暫定的にアイデンティティと呼んでいる「位置性」(ポジショナリティ)を構築することもできるのです。そうやって一つ一つのアイデンティティの物語が、私たちが選択し同一化する位置に刻印されていきます。私たちはその特殊性をすべて大事にしながら、もろもろのアイデンティティの位置の総体(アンサンブル)を生きなければならないのです」

 前に友達が「アイデンティティはたくさんある。○○人だったり、ジェンダーだったり、絵が得意だったり。そのたくさんのアイデンティティを花束のようにみんな抱えていて、ある場面ではある花を差し出すように、自らの中の多様なアイデンティティを操作しながら、選択しながら、生きている。」と言っていたのを思い出します。

 人はいかに人生の中で歩いていく道を主体的に選び、自らを構築していくことができるのか、周囲はいかに抑圧せずにその構築を見守れるのか、立場の弱い子ども、特に多数派や大人からの抑圧を受けやすいマイノリティの子どもとそれを見守る人々の課題をこの本に突き付けられた気がします。


 





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