ビー玉日記
きのう  もくじ  あした

2005年04月30日(土)  法事

おばあちゃんの3回忌。
会場は、町の中にある料亭。
両親が結婚式をやったところだそうだ。
結婚式の時、新郎だった父は足がしびれて挨拶か何かで立ち上がろうとしてよろけて爆笑されたらしい。

今回もお座敷かしら、と思ったら、中は改装されて畳ではなく赤い絨毯の広間だった。ほっ。
私も足がしびれるのは嫌だ。

今日はうち以外にもう一件法事をやっているところがあって、黒服がうろうろしていた。
うちの法事をやるフロアの奥は結婚披露宴の準備をしていた。
さすがに時間はずらしたと見え、まだ誰もいなかったが、もし同じ時間だったら気分悪いだろうなと想像してみた。

毎回この家の行事の時には笑わしてくれるにぎやかな(弾丸トークの)おばあちゃんがいるんだけど、今日はもう一人更にパワフルなおばあちゃんが加わっていた。
どちらもおじいちゃんの妹たちである。

子どもの頃のネタを全て握られているので、父も叔父たちもこの爆弾シスターズにはかなわない様子。
父は泣き虫だったことを暴露され、叔父はいたずらの数々を叱られ、という有様で、なるべく余計な口を聞いて自爆しないように、黙ってうんうんと頷いていた。
最後には「いい子に育った」と一人一人が頭を撫でられた(父の髪の薄いてっぺんをわざわざ撫でて「こんなになってしもうて」と言うのには、私も弟も爆笑)。私たちや父たちはともかく、おじいちゃんまで撫でられていたのにはびっくりだったけど。
そういえば、お通夜の日に電話番をしていた私が電話に出ると、「○○(父の名前)ちゃんね?」と勝手に早とちりして自己紹介もさせなかったのはこのおばあちゃんだった。
(おばあちゃんの頭の中では父はいつまでも子どもの「○○ちゃん」なのだ。どう考えても私の声がもうすぐ60歳になろうという男性の声に聞こえるはずはない。)

でも、頭を撫でられたら、なぜか涙が出そうになった。
なんかその柔らかい掌からおばあちゃんの愛情とか優しい気持ちとかそういうのを感じてしまって。
これくらいの年になると、顔を合わせるたびに「これが最後」って思ってるようだ。
そうじゃない、って言いたいけど、確かなものは何もない。
特に遠いところにいるし、こういう行事でもない限り来ないから。
年をとるのは、少し切ない。

2005年04月29日(金)  佐世保

朝のフライトでやってきた父と弟と博多駅で合流。
地下の寿司屋でランチ。
母は一刻も早く母の親戚のいる佐世保に行きたがったのだけど、弟が「4人揃うことは滅多に無いからうちの家族だけで食事がしたい」と珍しく殊勝なことを述べたため、二人の到着を待って食事することになったわけです。

九州ではお魚が本当においしい。
なんだろね? 鮮度?
これでしばらく東京の生のお魚のありがたみが減ることになるのだな、と思いつつ禁断の味を楽しむ。

食事の後、博多で用のある弟と実家に直行する父と佐世保に行く母と私は一時解散。
母と私は特急に乗り、陶器市でにぎわう有田を過ぎて、佐世保へ向かった。
車窓からはずっと満開のつつじが見えていて、とてもきれいだった。

佐世保は、米軍基地のある港町。
母が育った町だ。
駅までおじさんが迎えに来てくれた。
坂の上にある家に行くと、港が全て見下ろせる。抜群に景色がいい。

親戚のお兄ちゃんの3つになる女の子がいて、大人たちがしゃべっている間二人でお店屋さんごっこをして遊ぶ。
最近のレジのおもちゃって、会員特典カードやクレジットカードが使えるのね。おねえさん、驚きました。(←自分が一番楽しんでたという噂)
でも、この年でお金のやりとりとかレジとかに興味をもっているあたり、お店をやっている家の子どもって感じ。

いつもの通り、おじさんが車でいろんなところに連れて行ってくれた。
やっぱり海。海がいい。
高いところから見る九十九島の風景は、神様が一つ一つ島を作って日本が作られた、という昔の神話を思わせる。
いつか、こんな景色が見えるところに住みたいなあ。

母たちが子どもの頃海水浴に来た、という白浜海岸にも連れて行ってもらった。
砂がさらさらで、その名の通り白い。
関東の黒い砂とは違うなあ。
母やおばさんとイソギンチャクをつついたり、海藻を拾ってみたり、キレイな石を集めたりして、遊んだ。

そして、最後は、九十九島が見下ろせる料亭でのお食事。
刺身だの天ぷらだのステーキだの。豪勢です。
満足しまくり。
量が多すぎて最後の方を残してしまったのは申し訳なかったけど、本当においしかった。

その後、佐賀の家まで車で送ってもらった。
いつものことながら、夢のような佐世保の旅でした。

2005年04月28日(木)  黄金週間初日(半日)

会社の引越し再び。
いい加減にしろ!って気持ちはあるんだけど、おかげで連休中はオフィスへの立ち入り禁止、5月2日は休み、となって、今回は半歩譲って許す。

朝から仕事を大急ぎで片付けて、段ボールに荷詰めをする。
今夜の飛行機で福岡に行くので午後半休をとっていたのに、結局夕方までかかってしまった。
大急ぎで家に帰って、今度は九州に行くための荷造り。
(事前にやっておけばいいんだけどね)

羽田空港はさすが連休突入とあって混んでた。
先日財布をなくしてカードがないため、面倒なことに窓口まで行ってチェックインをする。
自動化の部分は本当に早いし楽なんだけど、その分窓口要員が減らされていて、自動化じゃない時は非常に面倒なんだなということを学ぶ。

さて、博多では天神のホテルに泊まった。
フロントの人に教えてもらって、地元の人がよく行く屋台に行く。
焼きラーメン(焼きそばみたいな感じ)と、あさりバターと、おでんの大根、だったかな。
とにかくおいしかった。
博多はいつも通り過ぎるだけなので、有名な屋台に行ってみたいと思っていたのです。

2005年04月27日(水)  沙羅双樹の花の色

人間の一生なんて儚いものだと知っているし、東京にいつ大地震がやってくるかわからない状況だし、ある程度次の瞬間にも自分の命が終わることはありえることだという覚悟はしているつもりではある。
それでも。
朝、自分が乗っている通勤電車が線路の外に飛び出して建物目指して飛び込んでいくなんてことが起こるのだ、と思うと恐ろしい。

飛行機の場合は誰が乗っているのかはほとんど確実にわかるけれど、電車やバスに誰が乗っているのかを特定することは難しい。
レスキュー隊員が救出に入った時、重なり合って倒れている犠牲者の他に、たくさんの携帯電話が鳴ったり光ったりしていたらしい。
もしも東京でこんな事故が起きたら、まったく私の身には関係ない事故だったとしても、両親は連絡がつくまで電話をかけるだろうし、私がたまたま電波の届かないところにいたり携帯をもっていなかったり、何らかの事情で応じなかったら死ぬほど心配するだろう。
逆に私も自分の大切な人が巻き込まれたかもしれないと思ったらきっと連絡がとれるまで落ち着かない気分になる。
亡くなった方々の周りで携帯電話だけが光っている。
なんて悲しい光景だろう。

大切なのは誰かを責めることではなく、100名以上の犠牲を無駄にしないこと。
二度と同じことを繰り返さないこと。
いってきます、と笑って出て行った人が、必ず無事帰って一緒にごはんを食べられるように。
電車だけじゃない。他の業界だって、同じ。
不況が続いて利益やコスト削減を追求した結果、安全とか健康とか品質とか、本来一番大切なはずのものを無視することになってしまった。
そのことを思い出さなくては。


尼崎脱線事故で亡くなった方のご冥福をお祈りします。

2005年04月24日(日)  キッズワールド

子どもの成長スピードにはいつも驚かされる。
2月に会った時には人見知りして慣れるまでに時間のかかったシャイな女の子が、今日は会った瞬間から、ちゃんと目を見て「こんにちは!」と挨拶を返してきた。
もしこのスピードで年をとっていくのだとしたら恐ろしいことだな、とちょっと怖くもあるけど。

最近ひらがなの「の」と「り」を書けるようになった彼女は、お母さんがうたた寝している間に、そこら中に油性マジックで「のり」と書きまくっていたそうだ。
起きたらびっくりだよねえ。
(注:別に家族の名前でもなんでもない)
子どものやることは大人の想像の範囲を越えている。

今日は2月に生まれたばかりの別の夫婦の赤ちゃんもいて、顔の表情を見ているのがおもしろかった。
妙に貫禄がある、オヤジ顔の男の子でした。
勝手に台詞を付けてからかったりしてごめんね。
なんか恐ろしく深いことを考えていそうに見えたからさー。

2005年04月23日(土)  消息不明事件発生

家に帰ったら留守番電話に着信が6件も記録されていた。(メッセージはなし)
何事かと思ったら、携帯電話にメールが入っていた。

明日友人たちと会うことになっていて、待ち合わせの場所と時間のお知らせのメールに返事をしていなかったので心配になったらしい。

早速電話をした。
「なんか携帯もつながらないし、家の電話も出ないから、死んでるんじゃないかって怖くなってさー」
「ごめんごめん。人と会っててさっき帰ってきたの」
「なんだー。よかったよ」

すみません。ご心配をおかけしました。
ちゃんと返事するようにします。

時々、何か不慮の事故とか病気とかで部屋で一人で死んだらいつ気付かれるんだろう、と思うことがある。
縁起でもない、と言われるだろうから人には言わないけど、100%ありえないとは言い切れない。老人でなくても。
普段からちゃんと人と連絡とるようにしないと、そういう意味でもコワイよねえ……。

2005年04月22日(金)  聞き違い女王健在

同僚とフレックス休暇の話をして、しばらくしてから。
突然上司が、
「メンフィスにあるのはフレックスだよね?」
とわけのわからないことを言った。

「えっ?」
「メンフィス」
「えーと。あれっ、メンフィスってどこでしたっけ」
「アメリカだよ。そっか知らないか」
「メンフィスのフレックスってなんですか??」
「フェデックスの飛行機が着陸する空港があるんだけど、それがメンフィスだったかどうか確認したかったんだよ」
「あっ、そうなんですか」
「君に聞いたのが間違いだったよ。はっはっはっ」

はい。間違いです。
私、わかんないです。(^_^;)

2005年04月19日(火)  歴史の話

中国の反日デモ。
日本人もちゃんと考えないとダメだと思う。
つい対岸の火事みたいに見ちゃうんだけど、当事者なんで。
政府だけじゃなくて、日本国籍をもつ人みんなが、何が起こってるのか、なぜこんな問題がいまだに起こっているのかということを知らないといけないということ。

テレビもさー、デモの様子とか映すのはいいけど、ちゃんと背景を説明しないと。
知らないんだよ、みんな。
あの時代に何が起こったのか。日本人が他の国でやってきたこととか。
あんな映像ばかりだと、どうしたって「中国人はやりすぎ」とか「あんなに感情的にならなくてもねえ」という感想しかもてなくなっちゃう。

年月が流れて、戦争の時代に生きてきた人はどんどん減っていくし、私たちみたいに戦争、戦後、という言葉自体から遠くなってしまっている人間だけが生き残っていく。
このままだと風化していっちゃう。

たぶんほとんどの人が日本の歴史に興味ないと思う。
新撰組とか源氏とか平家とか、信長とか、そういう世界だけじゃなくて、ちゃんと今の国際情勢につながる近い過去のことも知っておかなきゃダメなんだよね。
愛国心とかそういうことを求めているのではなく、日本の国籍を持っている以上日本人なんだから、当然知っておくべきことをしらないと恥ずかしい。

私も学生の頃は、歴史の授業で近現代の部分は興味なかったし、面倒くさいとすら思っていた。
歴史という科目自体は好きでもね。つまんないじゃん、ハッキリ言って。
政治の世界の駆け引きとか、それぞれの国の損得計算とか、夢やロマンの世界じゃないし、時代が近いだけより現実味があるから。
よく言われているように、確かに授業では、近現代史になると残り日数が押してきて、「あとこのプリント読んでおいて」とか結構短縮されちゃうところはあった。
私はたまたま、中学の時の社会の先生たちに(おそらく日米安保の学生運動の時代の先生が多かった)教科書に控えめに載っている南京大虐殺とか日の丸・君が代問題、歴史教科書問題のことを教えてもらったけれど、そんな先生ばかりじゃないと思う。
先生はもちろん、人の親だったら自分の子どもにそういうことを話していかなくちゃ。
中国や韓国ではちゃんと過去に起こったことを勉強しているんだから、同じレベルで正しい理解をしないと、お互いの気持ちがすれ違っていってしまう一方。
風化させてはダメです。本当に。

ヨン様に夢中になる前に、海外でバカンスを過す前に、ちゃんと考えましょう。
韓国で日本の映画とか音楽などの文化交流が行われるようになったのはつい最近のこと。なぜ最近まで日本の映画や音楽がNGだったのか。
なぜサッカーやバレーボールで、国際試合になると韓国や中国が日本に対して敵対心を露にするのか。その度に問題が起きるのか。
いろんなことを知った上で他の国の人と話をしないと、本当に恥ずかしいと思う。

韓国や中国をはじめ、アジアの人たちは懐が深いんです。
過去のことを全て知った上で、許してくれている。
今は今、それはそれ、と割り切ってくれている。
傲慢な態度をとったり暴力をふるったり暴言を吐いたり、ひどいことをした後で、友だちが「もういいよ、あのことは」って笑って許してくれたようなもんです。
日本人はそのことをわかってそれなりの態度で接しないと、「なんだ、こいつ」って思われます。
日本だってアジアの国の一つなんだから。

やっぱり日本の国連の常任理事国入りは時期尚早なんじゃない。
ドイツみたいにちゃんと反省して誠意ある態度を国民全体が見せられるようにしてきてないから。
中国とか韓国に「日本もそろそろ入れてあげたら」って推薦されるようにならないといけないよね。

2005年04月18日(月)  最近のはまりもの

今、「ATMIC KITTEN」というUKのアイドル(?)にはまっている。
いつものごとく、何を今更、って感じなんだけど。
(このグループは去年の春に活動停止している)

きっかけはシンガポールで夕食に入ったお店でGREATEST HITS LIVEの映像が流れていて、その店の隣にあったHMVでCDを即買い。
(DVDはコードが違ったら怖いのでCDに。DVDは帰国後に購入しちゃった)

私の好きな「Eternal Flame」をカバーしていた上に、実は結構知っている曲があったし(CM曲があったのとその他は毎朝聞いているラジオでかかっていたのだと思う)、いい詞の曲があった。
女性のアーティストのハモリが好きなのかも。

活動停止の理由はメンバーの一人が自分の子どもと過す時間をとることを希望したため、というのもびっくりだけど、PVの中に妊娠してお腹が大きい状態の時のものがあること。(これ絶対そうだよね?)

いやー、日本のアイドルにはありえない世界だな。

ちなみに私は既に母親となっている彼女の声が一番好き。

2005年04月17日(日)  江ノ島探検隊

大変な朝ではあったけれども、友人と前々から約束をしていたので、江ノ電で江ノ島と鎌倉に行ってきた。
ある意味、気晴らしになってよかった。

実は江ノ島をちゃんと探検するのは初めて。
何度も弁財天に頭を下げて、財布の返却を祈願した。
念願の生シラス丼を食べた。
江ノ島の洞窟に初めて入った。
焼きイカを安く売ってもらった。

鎌倉でおいしいお蕎麦を食べた。
紫イモソフトクリームを食べた。

それにしても、江ノ島の岩の上で一人佇んでいたスーツ姿の男性は一体なんだったんだろう。
友人と二人で、仕事イヤになってさぼってるのかな、と話していたが、それにしても滞在時間長すぎて不審でした。

2005年04月16日(土)  事件発生

無事日本に帰ったのに、今日はやってしまいました。

お財布を落としました。がーん。
財布と言っても、まだ出張の後始末をちゃんとしてなくて、財布も出張の時に使っていた小さいポシェットタイプのもの。
いつも使っている財布は家に置いていたので、幸い免許とか保険証は入ってなかったんだけど、なんと家の鍵を入れていた。

警察に届け出て、クレジットカードの緊急連絡先に電話をして、友達のところに泊めてもらいました。
ふー。なんてマヌケなんだ。

不幸中の幸いというか、カードの被害はまったくなかったし、翌朝アパートの管理をしている不動産会社に連絡したら鍵を丸ごと付け替えてくれたのでひとまず安心。(鍵を付け替えた方が鍵の救急車で開けてもらうより安かった!)

現金2万円は授業料としても、あのバッグ気に入ってたのにな。
あまりのマヌケさにさすがの私もへこみました。
でもこれはなんかのお知らせに違いない。
マレーシアのPCバッグ忘れ事件もあるし。
もう一度何かあるかも。気をつけなくちゃ。
そういう意味であんまり早く立ち直らないようにしておこう。

2005年04月14日(木)  帰国

帰りはSQの機体。
SQいいね!映画がいっぱい見られるの。幸せ。
でも私はイマイチ使い方がわかっていなくて、隣の席のアメリカ人に教わるまでオンデマンドで開始できるって知らなかった。もったいない。
食事もおいしかった。食後のアイスクリームもイイネ!

そうお隣はアメリカ人の男性。
インドで5週間ヨガの勉強をして、前日にデリーからシンガポールに来て、日本経由でLAに帰るんだって。
飛行時間はどのくらいなんだろう。
私だったらそんな無茶旅行はいやだなあ。
「もしかしてもうぼくは夜を見られないのかな」
「そうだよ。東に向かっているんだもん」
なんて話をした。

ジム・キャリーの映画とハリーポッターを見た。
ジム・キャリーの映画はおもしろかった。
親を亡くした子どもたちの遺産を狙う親戚のおじさんという役。
一番下の赤ちゃんがちょっとしゃべりすぎ(狙いすぎ)って感じがしたけど、これがアメリカ人の好みなのかも。

何はともあれ、無事日本に帰り着きました。



実はシンガポールで飛行機に乗る直前に美容院に電話をして予約をして、帰国したその脚で美容院に行って髪を切った。
そのまま実家に帰りました。

2005年04月13日(水)  シンガポール

幼稚園、小学校と同じところに通っていた男の子が、お父さんの仕事の都合で引っ越していったのは、シンガポールだった。
シンガポールでは煙草の吸殻をポイ捨てすると警察に逮捕される、と教えてくれたのはその男の子だったと思う。
(そんなことを覚えているとは、もしかして初恋だった……?)
なぜか警官がうろうろしているというだけで緊張してしまう私は、長いことシンガポールは怖いという印象をもっていた。
(むしろ治安はいいということになるはずなのに。別に私は犯罪を犯しているわけではないです。)

当然のことながら、全然コワイ国ではなかったです。
そもそも警官の姿見なかったし。
仕事の後、夜のショッピングモールとか一人で出歩いちゃいました。

シンガポールのオフィスで働くのは95%くらいが女性。(うちの会社の場合)
男性は二人しか見ませんでした。
私のミーティングとか現地でのサポートをしてくれた男の子はそのあたりでストレスを感じる日々のよう。
女性社員たちの弾丸トークはすごい。しかも全員中国系で、込み入った話になると突然中国語でしゃべりだす。
こんなに女性に力がある国が他にあるんだろうか。
マレーシアも女性は多かったしマネージャークラスの女性もいたけど、トップとか要所要所は男性が押さえていた印象がある。

Kさん(中国系シンガポール人)と二人で話していたところへ、その男の子が話に加わり、話の途中で日本語で私に話しかけてきた。
私も日本語で問われればつい日本語で答えてしまう。
大した内容ではなくて英語でもちゃんとわかる領域だったので変といえば変だった。
「どうして私と森崎さんが話をしているのに日本語を使うの」
と当然Kさんが彼に抗議をした。
すると、彼はにやりと笑って、言う。
「いつも君らは中国語を使うだろう。おれの気持ちわかった?」
Kさんはチッと舌打ちした。
そんな復讐、わざわざしなくても……。

ところで、車の中で聞いたラジオがおかしかった。
現地の日本人パーソナリティが日本語で放送している番組で、小学生の女の子からの投稿が読まれた。
彼女のリクエストはドラえもんの曲だった。それに対してパーソナリティのコメントはこうだった。
「いつも聴いていただいてありがとうございます。この曲は明日かけますので明日も聴いてくださいね。今日は工藤静香さんの新曲をお送りします。それでは」
ええーっ。そんなんアリ?
今日かけられないんなら明日読んであげればいいじゃん!

シンガポールの印象は、いろんな国の人が一緒にいる国、という感じ。
実際に、中国系、インド系、マレー系、その他いろんな国の人が住んでいて、同じ会社にいてもそれぞれの習慣で祝日があったりするらしい。
「今日はインド系の人はお休み」とか「中国の○○節だからこの人は休み」とかそういう世界のようだ。
おもしろい。

2005年04月12日(火)  ペナンからシンガポールへ

ペナンというと、日本では去年の年末の大津波の被災の印象が強い。
実際今現在どうなのかはペナンに行ってみてもわからなかった。
海岸に行ったわけじゃないし、あえて訊くのも気が引けたので話題にしなかった。
でも、空港から会社に行くまでの車の中で迎えに来てくれた現地のインド系のマネージャーがペナン島のことをいろいろと説明してくれた時、人口の話に及んだのにはドキドキした。
うちの会社では特に影響がなかったと一月にマレーシアの人と話をした時に聞いてはいたけど。

お昼は、インド料理のお店。
大きなバナナの葉をお皿にして、そこにゴハン(フレーバーのものと普通のを選べた。私はフレーバーのものに挑戦)とカレーとか肉とかマンゴーのピクルスとかを盛り付けて、食べる。
カレーは本当に辛かった。でもおいしかった。魚のカレー。
結構インド料理好きかも。
食後はラッシーというヨーグルトの飲み物。
ラッシーという言葉だけは知っていたんだけど飲むのは初めてだった。
ストロベリーラッシーにした。さっぱりしておいしかった。

無事ミーティングが終わって、再び空港まで車で送ってもらう。
海の上の長い橋を渡って。
この橋、本当に長い。
海ほたるのところの橋も最初こんなかと想像してたんだけどね。
たぶん日本にはこんな長い橋はないんじゃないかな。

車の中でかかるのはSMAPのアルバムだった。
日本人がいるから選んでくれたのかと思ったら、どこの国のかは知らないけど曲調が好きだという回答。
この適当さが好きです。

「ペナンはいいところ。バカンスで来るんならね」
「ホント。残念ながら仕事だけど」
「今度は絶対プライベートで来るんだよ」
「そうします」
なんて話をして笑う。
SMAPを聞きながら渡るペナンの橋。
もし今度来ることがあったら、このことをきっと思い出すだろう。

マレーシアは、夏休みの国。
日差しと気温と湿度で、「夏が来た」って体に訴える感じがした。
仕事で来ているのに(そしてもちろん打合せばかりで遊ぶ時間はないのに)、夏休みの気分になってしまう。
ハワイのからっとした暑さとは違う。
やっぱり日本の夏とおんなじニオイがする。

思い出すのは小学一年生の夏休み。
母が重体の曾祖母の看病をするために人より早めに夏休みをもらって、一ヶ月半まるまる佐賀の田舎にいた。
いとこたちと毎日田んぼの周りで鬼ごっこをしたり、プールで遊んだり、祖父と縁側で星を見たり。風邪で寝込んだ弟のために祖父がビーチボールで即席氷嚢を作ったり。学校からもらってきた期末テストを母の監視の下、一人でやらされたり。隣の家の朝顔の絵をスケッチしたり。
蚊帳への出入りはすばやくしなくてはならなかったこと。隣のお寺の庭でのラジオ体操。夜、外のトイレに行くのに母親を揺り起こしたこと。お葬式の後にいとこたちと縁側に並んでドラえもんの棒アイスを食べたこと。100%みかんジュースばかりが入っていた冷蔵庫。
取るに足りない記憶ばかりだけど、とても懐かしい。
永遠みたいに長かった、夏休み。

2005年04月11日(月)  やっぱりただじゃすまない事件

クアラルンプールの道路は一方通行ばっかりです。
ここでの車の運転に慣れていない人が一度道を間違えると、結構大変です。
私にはとても運転できない街です。
きっと永遠に行き先にたどり着けないでしょう。

有名なツインタワー(とうもろこしみたいな形の棟が二つ並んでいるビル)は、昼も夜もキレイ。
形とかパズルみたいなパーツの一つ一つがいい感じ。
もし私が建築デザインの勉強をしていたら、
「こういうのが作りたい」って思うかも。
なんだか美しいって思った。

あ、お仕事。お仕事はなんとかうまくいったみたい。
やっぱりメールや電話じゃわからないことがいっぱいあって。
ちゃんとFace to Faceでしゃべることって大事ね。
言葉はつたなくても。(つたないのは私であって、マレーシアの方は英語堪能。私に合わせてゆっくりしゃべってくれた)
Ngさんという名前の方がいて、私は最後まで直接名前を口にすることができなかった。
「ん」さんなのか「あん」さんなのか「うん」さんなのか、周りの人の発音を聞いてもよくわからなかった。

お昼は現地の日本人社長と日本食の店にいったんだけど、「なんでも好きなもの頼んでいいよ」と言われた後に、社長が「きつねうどん」を注文したのでびっくりした。
天ぷらうどんにしました。
(遠慮だけじゃなくて、それほどお腹が空いてなかったこともあるし、食べる速度が一人で遅くてもいやだったということもある。別の定食メニューを頼んだ男の子のお膳のボリュームを見て、実際天ぷらうどんという選択は間違ってなかったと安心。)

仕事の後は、ハッカ、という中華料理のお店で夕食。
いっぱい食べました。
(台湾に引き続き)また生の海老が出てきたのにはちょっとびびったけど、現地在住の日本人の方が食べてるのを見て、とりあえず食べました。
初トロピカルフルーツでマンゴーを食した。おいしかった。
実は私日本ではマンゴーを好んで食べたことなかったんだけど、これはおいしいと思った。さすが。

昨日の夕食も付き合ってもらったのでさすがに今日は早く解放されると思ったんだけど、そうはいきませんで遅くまでゴハン食べて、飲みました。
(ごめんね、884さん)
海外の日本人ルールってちょっと困る……。
でも、マレーシアの夜の雰囲気を味わえて楽しかったです。ありがとうございました。

……さて、問題はその後。
翌朝はペナンに移動するというのに、PC(仕事道具)を送ってくれた方のトランクに入れたまま別れてしまった。(←緊張感ゼロ)
部屋に戻って、しばらくしてから気がついて、あわてて電話をしようとして、更にぎょっとした。
スケジュール(連絡先電話番号が書かれている)も全部そのバッグの中に入ってたんだった……。
しかも今回そのコピーをキャリーバッグに入れたりしてなかったんだ。
(いつもなら絶対そうするのに。)
携帯とか、財布とか、パスポートは手元のバッグに入れて持っていたしフライトチケットはホテルに置いていたので、その意味では行こうと思えば明日そのまま移動することはできるんだけど。
相手も酔ってるから、トランクの中を見て今日中に気付く確証がもてなくてあせりました。
幸い持ってた携帯で、スケジュールのメールを転送した上司と同じ部署の人に電話を試みた。日本時間だと遅すぎる時間だったけどこの際仕方ない。
でも連絡つかなかった。
(後でわかったけど、この時ちゃんと相手につながってなかったようだ。かけ方を間違えたらしい。結果的に良かったけど)
少し落ち着いて考えたら運良く実家にFAXでスケジュールを送ったことを思い出して、実家の母に電話して教えてもらうことができた。

電話をかけたら相手も気付いていて、明日私に同行する予定の男の子(これまた運良く今日突然社長からシンガポールまで同行するように命じられた。念のため補足すると、私のボディーガードとか通訳ではなく、彼の仕事上必要だから。)に持って行ってもらうことにしたと教えてくれた。
ふう。危機一髪。
……マジでアセッタ。
出張中一度はこういうどっきりがあるな。私。気をつけようぜー。

2005年04月10日(日)  マレーシアへ

午後のフライトでマレーシアに旅立ちました。
なんとものすごい偶然で、マレーシアに住む友人と同じフライトでした。
最初から打ち合わせたわけでもなく本当に偶然一緒だということがチケットを予約した後でわかった。
すごいよね。

誰かが一緒だと途端に緊張感無くなる私。
搭乗時間をちゃんとチェックしてなくて危うく置いてかれそうになりました。(笑)

お隣の席の人が席を替わってくれて、隣同士に座ることができました。
お仕事での旅なのに、なんだか楽しかったー。
(席変わってもらった結果、モニターがちゃんと動いてくれない席で申し訳なかった……ゴメンなさいね)
初めての国だったので、とても心強かったです。
やっぱ、一人だとなんだかんだ言って心細さを感じてしまうわけですが、今回はそういうのなかった。(その緊張感のなさがちょっとした事件を起こしたりするわけだが。明日の日記参照。)

空港に会社の人が迎えに来ていたので、残念ながら彼女とは到着ロビーで別れました。

夕食は、バクテーという中華系のごはんの店にいきました。
気温と湿度が日本の夏と同じ状態です。
暑いからなんだろうけど、食事できるお店が軒を連ねて朝までやっている光景を見ると、文化祭の露天を思い出した。それだけでなんだか楽しい気分になる。

2005年04月09日(土)  再び初めての国へ

明日から、出張再びです。
遊牧民なので、なかなかひとところに落ち着いて働けません。
……いや、そういうわけじゃないんだけど。

初めてのマレーシア。初めてのシンガポール。
ドキドキです。
偶然にも(本当にまったくの偶然)マレーシア生活の長い友と同じフライトで行くことになったので、心強い。
気温を調べたら4月は25度前後だったので、あったかくて荷物が少なく済む、と喜んでいたら、「マレーシアは常夏」と訂正のお言葉をいただいた。
そうでした。

昼前に歯医者に行って虫歯を退治してきたので、怖いものなし。
とは言え、昨日の夜は出張準備のために残業して帰ったので、荷造りはこれから。
不安だ。パスポートとチケットをまず入れておこう。

2005年04月08日(金)  ぽかぽか陽気

会社の近くの公園のブランコに座って、お花見ランチ。
いい天気。あったかい。
無条件になんかいいことありそうな予感。
薄着は大好きなので率先して身軽になる。
……でも夜風はまだ冷たかった。

今日きれいに咲いている桜も、来週には散ったり葉が混ざったりして、見られなくなるだろう。
(日当たりのいいところは既にその状態だったけど)

花の色は移りにけりないたづらに
わが身世にふるながめせしまに

ぼーっとしてたら、年をとっちゃいますねえ。


3月末に、ちょっと頑張ろうと思って夜を徹して久々に物語を作った。
でも、スパートが遅くて間に合わなかった。
……まあ、いつものことです。

ともかく今年は自分の生活を重視しようと決めました。
例年になく何かある気がしてならず。
何かあるなら自分で何とかしないとだめなんで。
まあ今年はいろいろやってみます。
チャンスはあれだけじゃないもんね。
やっぱり書くの好きだとわかったから。

2005年04月07日(木)  不可解語録

母の使うカタカナ語はありえない変換をしたり、意味の違う言葉になったりして、時に私を戸惑わせる。
本人の話では中学の時の英語教師が意地悪だったので英語アレルギーになったそうだが、それにしてもひどいです。常識問題です。

例えば、フローズンヨーグルト。
学校から帰ると母が私に声をかけた。
「おやつはフローズンヨーグルトよ。冷蔵庫に入っているから」
母の言葉どおり、それは冷蔵庫に入っていた。
でも、フローズンなので、食べる前に冷凍庫に入れなければならなかった。
教訓:溶けたフローズンヨーグルトはおいしくない。

今回出会った言葉は。
フリーズドライ。
パソコンの操作のことでよく電話でSOSをしてくる母だが(ウチの電話番号を110番と間違えていると思われる時間にも)、これには驚いた。
「うちのパソコンがフリーズドライしちゃったの」
フリーズドライしたパソコンは、お湯をかけたら普通に戻るんだろうか。
やってみたい。ただし自分のパソコンではやりたくない。
いやその前にどうやってフリーズドライになるんだろう。
質問:パソコンはフリーズドライしたら重量が軽くなりますか?


My追加

mail    home    bbs

Design by shie*DeliEro