ビー玉日記
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2003年08月28日(木)  この夏の私

この日記も間があいてしまった。それは週末に埋めよう。


暑中見舞いもあったもんじゃないな、と思ってたら、残暑は厳しいのね。
ちょっとこの気候にはついていけない。
気持ちとしては、冬より夏の方が好きだし、暑さのほうが寒さより耐えられるんだけど、体がついてきてくれない、2X歳の夏。

暑さというより湿気があった関係で、何日か空調でドライをセットして寝てたらすっかり喉をやられて、実は休暇中ずっと風邪気味できつかった。
あんまり空調使わない人間が珍しくそういうことやるとたちどころにやられるね。(会社ではクーラー漬けだけど、家では扇風機ユーザー。)
節電のために今年は会社では空調の温度設定が高めで助かったというのに、家でやられるなんて思わなかったなあ。

休みが終わる頃、薬が効いたのか、仕事をしなかったからなのか、ようやく風邪も治ったな、と思ったら、月曜日から怒涛の外出出張の連発で、食欲もイマイチで、体力的にきびしーい状況となった。
1週間も休んだ後だったので弱音を吐くわけにもいかず、がんばりました。
今週も半ばを過ぎて、ようやく本調子に戻ってきたかなーって感じ。

もう夏も終わってしまいます。
8月って、いくつになっても特別な月。
学校時代のようにお休みではないけれど、8月が終わってしまうのはとても淋しい。
「ああ、終わっちゃう」って思う。
別にイベントもないのに、残念な気持ち。不思議な喪失感。

31日、後輩がライブをやるというので、それを見に行って、この夏をしめようなかなあ、と考え中。

2003年08月25日(月)  火星

火星、見えたよ。

6万年に一度だっけ?
前回はネアンデルタール人の頃だったとかいう、火星と地球の大接近。

確かに空には赤い星が見えました。
あんまり見えるんで、最初はどっかのビルの明かりかな、と思ったの。

不安な新聞のコラムを読んだ。
前に見えたのは西南戦争の時だったらしく、「西郷星」と呼ばれたらしい。
今回は隣の星印のある旗の国が動かなければいいけれど、みたいな一文があった。
やあねえ。
それは考えたくないよね。

2003年08月11日(月)  島原と雲仙

いつも九州に行くと、親戚の家行ったりお墓参りして終わっちゃうので、実は観光をしたことはあまりない。
なので、今回はどうせ行くのなら、と島原と雲仙に行ってみることにしていた。

当初の予定では私と母と二人で、ってことだったんだけど、その計画を話したら、なぜかおじさんがじゃあウチも一緒に、と言い出して、結局おばさん夫婦と4人で行くことに。
ちょっと不便なところだったので、車で連れて行ってもらえたのは非常にラッキーだった。

島原の見所↓
島原鉄道。武家屋敷。鯉の泳ぐ水路。

おいしかったもの↓
寒ざらし。(白玉団子を水で冷やして蜜をかけたもの)

保存されている土石流被災家屋も見た。
家がこんな風に埋まっちゃうくらいすごい量の砂が押し寄せてきたんだなあと思って見たけれど、おじさんが「これよりもっとすごいのがある」と火砕流の被害を受けた小学校に連れて行ってくれた。
これは、ホントにすごい。
この学校の真裏を火砕流が流れていったわけだけど、その時の熱風で、校舎は焼けて、窓ガラスは溶け、窓枠も曲がり、床板は焼け落ちて無くなっていた。
鉄棒が曲がったり、砂場の木枠が墨状になっていたり。
その中で大きな銀杏の木だけが無事残っていた。
植物の生命力にはいつも驚かされる。

そこから雲仙の温泉宿に向かう道中、濃い霧が発生。
コワイくらい何も見えない中を行く。
私だったら絶対運転できないねえ。

宿のお風呂は広くてゆったり。
いやあ、温泉はよいね。

2003年08月10日(日)  休暇の旅・初日

私の家が羽田に近いので、母が実家から昨日泊まりに来て、散らかり放題だった部屋の片付を手伝ってくれた。ありがたや。
8:25羽田発、10:15着の飛行機で長崎へ。

やはりお盆の真ん中に休みをとっただけあって空港は初めて見る賑わい。
ああー、テレビでいつも見る光景だ。

昨日まで大型台風のために雨と風がひどかったので、関東に停滞した場合出発も危ないと思ったけど、無事過ぎ去ってくれた。
時速30キロって、車より遅いスピードで日本を縦断するとは。
もっとすばやく通り過ぎなさい。
だけどおかげさまで台風一過の快晴で、窓の外の景色がよく見えた。
毎日通っている会社のビルもはっきりと見えて、ちょっとおもしろかった。

親戚のおばさん夫婦にお迎えに来てもらい、お墓参り。
その後は母の生まれ育った街・佐世保に入り、九十九島巡りの船に乗船。
残念ながら雲が出て夕焼けは見られなかったけど、きれいな海の風景を満喫いたしました。

夜、おばさん夫婦が用事を済ませる間、私と母はぶらぶらと街を散策。
母が高校時代によく通ったという喫茶店で名物のシュークリームをいただく。
ものすごい大きいシュークリームで、中にりんごとかバナナとか桃が入っている。
チョコレートと黒糖の混ざったような味の蜜をかける。
うまかった。

おじさんはちょっぴりお金持ちで新し物好きなので、行く度に目新しいことがいっぱいで、庶民な私たち森崎一家はいつも「オタク訪問」みたくなる。
何しろまだウォッシュレットが一般的でなかった頃からトイレに導入していて、我が愚弟はそれで顔を洗ってしまった。

最近新しく作った家に移ったのだけど、ここに伺うのは初めて。
すばらしい夜景を見下ろせる、高台のおうち。
電気を消してお風呂に入り、夜景を堪能。
しかもテレビがついていたので、湯船につかりながらテレビも見てみる。
ボタンを押すと泡も出るのね。(なんでも試したい庶民)
ああー、贅沢。

2003年08月09日(土)  マリア像が語ること

明日長崎に行くんだけど、今日は長崎に原爆が落とされた日。

私の曽祖父は長崎の職場に働きに行って亡くなったそうで、一応今日が命日ということになっている。
一応、というのは、遺体も見つかっていないし、実際その瞬間にどこでどうしていたのかも、その後どうなったのかもわからないからだ。
市電に乗っていたのではないか、とも言われているけれど、あくまで推測にすぎない。

たくさんの人がそんな風に行方不明になったままであること自体、今の世の中からすると大変なことだと思う。

広島は残念ながら行ったことがないので比べようがないけれど、長崎はキリスト教思想の空気がなんとなく感じられる場所。
浦上天主堂は、当時全焼してしまったので、今あるのは再建されたものだけど、歴史やその体験の重みからなのか、そこにある空気からは信者でない私でも圧倒的な何かを感じる。
以前、小澤征爾が浦上天主堂で「G線上のアリア」とマーラーの「復活」を指揮したのをテレビで見て感動したのも、世界の小澤もすごいけど、やっぱり場所柄というのがある。

廃墟となった教会跡で見つかった木製のマリア像が無言で何かを語っている。
そういうことを、世界の政治家や軍人たちは核兵器の保有や開発を議論する前に感じるべきだ。

■The Madonna of Nagasaki

1945年8月9日11時2分。
これが最後の核兵器使用となりますように。

2003年08月08日(金)  サイトの移転

私のサイトがずっと頼りにしていたレンタルサーバーが、今月のメンテナンス後、サービス内容をかなり変更することがわかった。

できればアドレスをずーっと同じままいたい、というのが私の希望であり、
いつでも何年経ってもそこに存在する、っていうふうにしたかった。

でもCGIにかなり制約が加えられるとなると、今はそんなに複雑なものは使ってないんだけど、何かしたいことがあった時にとても不便。
なので、もっと自由を求めて(?)別のレンタルサーバーに移ることに決めた。

私の決断というのはいつも唐突。
そして決めたら誰がなんと言おうとやっちまうという頑固者。
こういう時の自分の実行力には我ながら驚き呆れる。

早く眠ってしまったため、早朝に目が覚めて、突然思い立ち、契約を済ませ、リンクとCGIを修正。
そのスピードはちょっとした記録だ。
(夜までミラーサイト状態だったけど)

*  *  *  *  *  *  *  *  *
そんなわけで、ウェブサイトのアドレスが変更になりました。
これからもよろしくお願いします。

新しいサイト(内容は変わりませんが……)
http://beedama.ciao.jp

2003年08月06日(水)  8月6日に思う

今日は、広島に原子爆弾が落とされた日。

仕事をしている時に、ふと思い出した。
去年までは朝テレビをつけていたので、一緒に黙祷をしたりしてたんだけど、ラジオを使うようになったので、今日の朝はまったく気付かなかった。

8時頃、私はバタバタと出勤の準備をしていた。
「うわ、遅れるー」とか思いながら。

ああいう時間に爆弾が落とされて、そこにいた人たちの人生が変わってしまった。

一瞬にして亡くなった人もいれば、
顔も性別もわからないくらいひどい火傷を負った人、
爆風によるガラスの破片を浴びた人、
倒れた建物の瓦礫の下に埋もれてしまった人、
爆弾投下の後に起こった炎に焼かれてしまった人、
家族や大切な人たちを捨てて泣く泣く逃げた人、
水を求めて川や防火用水に飛び込み、そのまま亡くなった人、
たくさんの死体の山、逃げ惑う人たち、
泣き叫ぶ子供、子供を捜す母親の声。

それが地獄でなければ、何が地獄なんだろう。
今日のあの時間に爆弾が落とされたら、どんなことになっていたんだろう。

それを目撃し体験した人たちは、どんどん年をとって、
いずれはいなくなってしまう。
その時、どれだけの人たちがこのことを次の世代に伝えていけるんだろう。
実際に体験した人の話や絵の迫力や説得力にかなわないとしても、誰かがこれを表現していかなくてはいけないんだと思う。

忘れてはいけない記憶。
時々思い出しておかなければいけないこと。


■NHK原爆の絵 市民が残すヒロシマの記録←先日再放送していた番組

■市民が描いた原爆の絵
(広島平和記念資料館 バーチャル・ミュージアム)

2003年08月03日(日)  蝉の声

待ちかねていたかのように鳴く蝉の声を聞いた。

2003年08月02日(土)  花火と漬物石

ようやく夏がやってきたなあ。
暑いのは決して快適ではないけど、うれしくなる。
暑くなきゃ着られない服とかあるし。
夏が夏らしくないと、気分的にもつまんない。
用事があって花火にいけなかった私に、友人が花火の写真を写メールで送ってくれた。
日本の夏はやっぱりコレだね。


このところの私はかなりお疲れ気味。
長く続いた湿気のせいなのか。

いろんなところで変に期待されたり責任を負わされるのを重荷に感じてる。
誰も私に何も期待しないで、放っておいてほしいと願う。
「あの人は無理だから森崎さんに」なんて言われると、私だって無理だよ、って思う。
私がぼーっとしてて、大変だと気付いてあわてるまでに時間がかかってしまうので、何でも落ち着いてこなしてるように見えてしまうからなんだろう。
なんでまたそんな期待をするんだろう。
調子のイイコトだけ言っといて、いざとなったら夜逃げするような人間なんだけどねえ。

テレビなんか見てると、同じ年の人たちが随分活躍してる。
しかももうキャリアがかなりあって、中堅どころというポジション。
そういうの見ると、自分の自覚なんかまだまだ甘いと思うんだけど。
いつまでも若いつもりで甘えてちゃいけないんだなあ。

わかっちゃいるけど、そうは言ってもね……。
めちゃくちゃプレッシャーに弱いんですよ。
歩いていると背負ったリュックサックの中にぽいぽいいろんなものを投げ入れられるんだけど、それを下ろすこともできず、誰かに手伝ってもらうこともできず、寄り掛かる壁もなく。
いい加減全て放り投げて隠れたくなるなあ。

大丈夫か、私。
オシツブサレルナヨ。

2003年08月01日(金)  ついに8月

もう8月か……。
あまりにも時が経つのが早すぎてついていけない。
梅雨明けもしないままだし、ついていけていないのはどうやら私だけじゃなさそうだ。

初盆の催しのために私にしては珍しくお盆の最中にお休みをとるわけだが(去年もお盆に休んだけど、これは人に合わせた結果であり、基本的にはオフシーズン派)、休もうと休まなかろうと、8月というとなんだか「夏休み」って感じがする。

夏休みは大好きだ。(休みがキライな人はいないと思うけど)
子供の頃は、夏休みは永遠にも思える楽しい日々だった。
私の昔の記憶の大半はほぼ夏休みの出来事でできている。

住んでいたマンションや団地でケイドロしたり、
自転車で遠くの公園まで行ったり、
駄菓子屋さんでお菓子を調達したり(コーラ味の手作り水飴が大好きだった)、
学校のプールに行ってふざけすぎてプールサイドに正座させられたり(何やってたんだろ?)、
友達の恋のお手伝いをする作戦を考えたり、
夕立に降られて濡れ鼠になって帰ったり、
「夕焼け小焼け」の音を無視して遊んで門限に遅れて母に叱られたり、
盆踊りの屋台でかき氷を食べて舌を真っ赤に染めたり。

海で思い切り焼いてしばらく体中がひりひりしてたことや、おぼれかけてる弟のSOSをカンチガイして笑って手を振り返したこと。
親戚のおねえちゃんについて回って家ではできない夜更かしをしたこと。
暑い中、どこかを母と弟と長いこと歩き回ったこと。
冒険小説をどきどきしながら何時間も読みふけったこと。
おじいちゃんと大きな縁台に寝転んで星空を見たこと。
おじいちゃんが熱を出した弟のために、ビーチボールを割って氷嚢に改造したこと。
おばあちゃんと川で魚や蟹をとったこと。
田舎に行くと振舞われる三ツ矢サイダーがおいしかったこと。

思い出しはじめると夏の思い出は、手品の万国旗みたいに後から後から出てくる。

夏の記憶は、思い出すと楽しい。
けど、ちょっぴり切ない。
どんなにやり直したいと思っても、もう戻ってはこないから。


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