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桜木町大混雑 - 2004年01月30日(金)

今日の桜木町は物凄い混雑振りであった。目的は本日を以って廃止される東横線の横浜-桜木町間の最期を見届けるためであるのだが、鉄ヲタでもないような人々までが、この深夜に切符売り場に長蛇の列(多分200Mくらい)をかましているのは異様としか言い様が無かった。

鉄ヲタを自認する私だが、本日は桜木町から隣の高島町まで乗ってやろうと思っていた。実は高島町は下りたことが無かったからだが、桜木町駅前の物凄い人出に引きまくってしまい、結局最後の東横線桜木町-横浜間は乗らなかった。

東横線は渋谷と桜木町を71年に亘って結んできたらしいが、明日は横浜止まりとなり、明後日からは新たに開通するみなとみらい線と相互乗り入れを果たすことになる。

みなとみらい線はみなとみらいと言う横浜新都心(とは言っても、事務所と商業施設しかない)と、横浜の官庁街を経て、元町・中華街に至る路線である。みなとみらい線の通るところは、まあみなとみらい地区を除いて、横浜の顔とも言うべき場所であるが、横浜以外に住む人にとってはあまり用の無いところだろう。

みなとみらいの次の馬車道であるが、ここは新線区間で最も微妙と言わざるを得ない場所にあり、何故ここに駅ができるのか分からないと言う感じである。まあ近くに合同庁舎などもあるが、閑散としていると言う感が否めない。

日本大通と言う次の駅周辺は官庁街の真ん中、と言う感じ。県庁が近くにある。とは言え、官庁勤めで無い私はまるで用が無い。

次が終点の元町・中華街駅。その名の通り横浜で一番ハイソな商店街である元町商店街と日本最大のチャイナタウンの傍にある。今回の新線開通で最も恩恵に浴するであろう場所は、この二箇所であると思われる。ああ、みなとみらいもそうか?

元町は小奇麗な商店街で、低層の商店が軒を連ねる商店街である。各商店のグレードは高いが、あまり肩の力が入っていると言う風情は無く、落ち着いた商店街である。最近は消費低迷やライバル商業地区の出現によって若干の凋落傾向が見られるようだが、横浜の田舎に住む私にとっては「横浜で最もハイソな商店街」と言うイメージが強く、例えば彼女へのプレゼントもここで買ったりする。表通りもいいが、裏通りに入るとバーや小さなレストランが並んでいて、中々雰囲気が良い。都内では見たことの無い、落ち着いていて清潔な商店街である。後背は山手と言う高級住宅街を控え、外人も結構多い。

新線開通に期待を寄せる元町と異なり、それに伴う桜木町-横浜間の廃止に寂寥感を感じているのは、桜木町の山側に広がる飲み屋街野毛であろう。

横浜-桜木町間廃止案が出されて、最も猛然と反対したのは野毛である。これが衰退の原因になると危惧したようである。とは言っても、野毛はどちらかと言うと横浜に勤めている人たちのモノと言う印象が強く、別に都内から客が来ると言う感じでもない。という訳かどうかは分からないが、結局市当局と合意に達したようだ。住民としてはいきなり渋谷まで出られる東横線を失うのは不便になるため、不満はまだ持っていると思われるが。

元々みなとみらい線は国鉄と相互乗り入れをする計画だったようだ。ところが民営化で新線計画(乗り入れ含む)が基本的に凍結してしまったため、市としてはその他の乗り入れ計画を考えたようである。東横線が相互乗り入れ対象として決まったが、盲腸線のような形では利用客が期待できないと言うことで、当初の予定通り相互乗り入れを東急とすることになった。替わりに廃止となるのが桜木町までと言うことになった。都営浅草線のように、馬込方面と京急乗り入れ方面で二股で運営する選択肢も無いわけじゃなかっただろうが、普段利用していて思うことは、意外と横浜-桜木町間が空いていると言うことである。あまり儲かる区間では無かったように思える。これでみなとみらい方面に抜ける路線が出来ると、恐らくこの区間の乗客数はもっと減り、多分東急の財政状況をを圧迫する要因になってしまうと思われる。これを考えると、東急にとって廃止は妥当だったような気がする。

かつての桜木町は今のみなとみらいのイメージとは異なり、横浜都心にあっては重工業地帯であった。横浜船渠(三菱重工横浜造船所)が今のドッグヤードガーデン(ってこれ自体は当時のドッグをそのまま使っている)にあり、今は閑散としている高島町駅は、造船所に出勤する労働者で非常に混んでいたらしい。今はそんな大工場は全く無く、そんな往事を思い起こさせるものも殆ど無い。

こう考えると、既に重工業が斜陽と言われた時代には、東横線の横浜-桜木町間の使命も殆ど終わっていたような気がする。今まで良く生き永らえたという感慨もあるな。


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ようやく床屋に行ってやった - 2004年01月25日(日)

年末からカザフだのカザフだのカザフだのやっていたお陰で、全く床屋に行くヒマが無かった。今日は意地でも行ってやろうと思って、早く起きて床屋に行った。と言っても、起きたのは10時半だったが。

私は幼稚園の年長組から大学院の修士1年までの約20年間、たまプラーザに住んでいた。その関係上、私が行っている床屋は中学1年からずっと同じで、たまプラーザの床屋である。この床屋は私のサークルの一年先輩である岩武さん(金持ち)も行っていたと言う、大変格調高い床屋である。と言うのはウソだが、中学のときや高校のときの休日の混み様は凄まじく、例えば日曜の昼前に予約の電話を入れると、夜7時とか言われる。床屋に行くと空いている散髪台(と言うのかは定かでないが)は皆無で、手持ち無沙汰の従業員は全くいない。台は6・7台くらいあるのだが、これが一杯で、待っている人用のベンチもギッシリである。何故こんなに混んでいたのかは定かでないが、当時のたまプラーザは床屋が少なく、しかもこの床屋は背後にたまプラーザ団地を控えていたりして、集客の立地も良かったのかも知れない。技量も過不足が無かったのが良かったのだろうか。値段も当時はリーズナブルだった。

混雑振りが半減する事態が発生した。何と、この床屋が入っているマンションの二階(二階も商業スペース)の一室に、part2なる支店が開店したのである。これによってキャパシティーがほぼ2倍となり、今までは7時まで待った予約が3時半くらいと、面白いほど単純に2倍の効率となった。そうは言っても混んでいることには変わりなく、休日は電話して予約しないとダメであった。

たまプラーザから離れて既に5年ほどが経つが、今でもこの床屋に行っている。この床屋に行っていて気付く変化は、客足の遠のき具合である。今は2駅先の江田に住んでいるが、休日でも「今からですと、30分後のご案内になります」と言う、かつての7時間待ち・3.5時間待ちと言う、ソ連の飛行機の遅れ具合を全く彷彿とさせない遠のき具合である。以前は歩いて3分と言う距離に既に済んでいない私は、何とそれより遅い時間で予約をしなければならなくなった。

そして今日も30分後と言われたところを1時間後に変えてもらい、床屋に出向いた。床屋に来るのは何だかんだで2ヶ月ぶりくらいだったが、まず気付いたのは「英国式リフレクソロジー」と言う看板である。ほう、このビルにこんなもんが出来たのか、と思っていたら、何とこの床屋のPart2の一部スペースを個室にして、この床屋が始めたモノらしい。

床屋に入ると以前からは想像できないような空き様(まあこれは近年の光景だが)で、予約してても以前はちょっと待たせたのに、今は全く時間を待たずにいきなり散髪台(って、だからこれでいいのかな)に着座させられる。

今日は私のほかに客は僅か2人だった。その内混んできて、ようやく「二階(part2の方)でお願いいたします」と言う声が出た。以前は一階も二階もフル稼働だったが、今は土日は午前中だと一階も空いているのである。

この変化は良く分からないが、ひょっとしたらアレか、こう言うことになっているんだろうか?

1. 床屋じゃなくて美容院に行く
2. 安い・早いと言う床屋に行く

確かにこの床屋、顔剃りつきで3790円と言う、値段設定も謎に半端だが、散髪としてはあまり安くない。また、今日もそうだったが、時間的には全て終了するのに1時間近くを要する。当時は極端なことを言うと「この床屋以外に選択肢があまり無い」と言う状況だったので、それこそ物凄い混み様だったが、今は選択肢もたくさん出来たし、それ故このような所謂「悠長な」床屋は、あまりウケないのだろうか。

この床屋のカットは昔から殆ど変わらない。

着座⇒髪を濡らしながら店員が髪型どうするか聞く⇒カット⇒洗髪⇒トニック付ける⇒肩たたき・肩揉み(たまに頭もやってくれる)⇒顔剃り⇒セット

これで1時間くらいかかる。

1000円くらいで簡単にカットしてくれるところってあるじゃないっすか。私も行ったことあるんだが、上のスタイルに慣れているので、「床屋はリラックスできるところであるべし」となっているので、どうも馴染めない。美容院も、顔剃りが無いのがどうしても足が向かない。洗髪も別料金だろ。

と言う訳で、今後もこの床屋に行くことになるわけであるが、流行らないからといって潰れないで欲しい。


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就職戦線 - 2004年01月24日(土)

就職戦線が始まっている。私はまだリクルーターをやっている。理由は私の会社の私の部に、私の出身大学を出た人が私以外いないからだ。

会社に入って部に配属になって分かったことだが、私の部には「同じ大学を出た人」と言うのが結構いる。そんな中で、私の出身大学を出た人は、私一人しかいない。これは我が社では珍しい。私の出た大学は日本有数のマンモス大学で、社内には出身者も相当多い。しかし、我が部では私一人である。

これにはどうやら理由があるようだ。対照的な京都大学出身者と比べてみる。

我が部で圧倒的人員数を誇る京大出身者は、最近では不景気だろうが何だろうが必ず一人は入社してきて、一人は我が部に配属される。このOBが多いと言うのは明らかに採用時に違いがハッキリする。OBがたくさんいるから、学生への情報チャンネルが多いのである。

入社してから知ったことだが、私が入った年も同様で、やはりOBのいる大学は情報も多くもたらされ、その他の大学の学生に比べ、やはり目立つ。私の場合は当時の部にはOBがいなかったため、OB訪問もしなければ、そんな情報も入っては来なかった。私は普通に採用ステップを歩んで行った訳であるが、他の学生は社員との飲み会があったりして、私よりも断然我が社の社員に触れていたことになるようだ。つまり、情報や会社の雰囲気がどんなものであるかは、私より分かっていたようである。

そんなことを全く知らなかった私は、「説明会で説明された通り」のステップを踏んで、次は部長面接となった。その直前に、いきなり正規ステップに無い、妙な面接が入った。その時人事から受けた説明は、「部長面接の前にどんな人間であるかを見たい」と言う、当時としては意味不明な理由であった。いや、もう一回目の面接やったじゃねえか、と思ったのだが、取り敢えず昼過ぎに会社に呼ばれ、会議室で1(私)対3(会社)の面接と相成った。今思えば、会社側にとっては私の資料はあまりに少なすぎたようだ。何しろ、OB訪問もしていなければ、社員とも殆ど会っていないし、話もしていない。それがいきなり部長面接では困る、とは、会社に入って数年リクルートの手伝いをやっていて分かってきたことである。

つうことで、振り返ると色々不利だった今の会社に対する私の就職活動であったが、やはりOBが最初に引っ張りあげなければ駄目だと言うのは、最近良く思うことである。別に何人も私の大学から来る必要は無い。一人で十分である。そして、今年もまた我が母校から誰も我が部に入ってこなければ、また来年も私がリクルーターをやらねばならなくなる。

もう忙しいから御免なんだよ、リクルーターって。

来週は会社説明会。業務説明をすることになりそうだ。願わくば我が母校の学生が来ていることを望む。そして、頼むから我が社に入ってくれ。マジで。


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客寄せパンダ - 2004年01月22日(木)

デーモン小暮が再婚していたらしい。小暮よしのぶと言う名前と言うのも知った(漢字は分からん)。


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みなとみらい線 - 2004年01月19日(月)

来月頭からみなとみらい線と言う地下鉄が開通する。東急東横線と相互乗り入れと言うことになり、今まで桜木町から徒歩10分程度かかったMM21地区がかなり便利になる、様な気がする。今まではとても徒歩で行く気にならなかったジャックモール(と言うMM21地区真ん中にある暫定商業施設)も、新高島と言う駅が出来て便利になる。我が社の真下にできるみなとみらい駅が恐らく中核駅で、馬車道・日本大通と言う横浜の官庁街を抜け、終点は元町・中華街と言う、妙な名前の駅が終点になる。

みなとみらい線の事業主体は横浜高速鉄道と言う事業体で、この会社はかつての東急こどもの国線を買い取ったんだか譲渡されたんだか、とりあえずこどもの国線を営業している。こどもの国は今の天皇皇后が結婚した際に出来た遊園地みたいな奴だ。出資者は神奈川県と横浜市の他、三菱地所などみなとみらい開発の事業主や東急・京急・相鉄など、地元の私鉄が出資している。特に東急は東横線に乗り入れる上、車両も田園都市線で走り始めた5000系とほぼ同じ車体を東急車輛で製造している、と言うのは鉄ヲタなら常識である。

東横線沿線に住むかな、と最近思うのは、夜の桜木町ダッシュが増えているからだ。

私の利用する横浜市営地下鉄は万年赤字の、自治体の御荷物の象徴と言うべき存在で、運転本数も意外と少なければ、終電も当然早い。あざみ野行き最終電車は、何と桜木町発23時57分と言う早さで、午後11時30分に帰り支度を始めないと、間違いなく桜木町ダッシュをしなければならなくなる。

この桜木町ダッシュがたまらなく厳しい。もうヘロヘロになっている状況で、根性に鞭を打って、走って走って走らなければならない、と言うほどでもないが、とにかく息が上がる。

明日は桜木町ダッシュを回避すべく、早起きしようと画策しているが、すでに午前2時。ダメだなこりゃ。


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小林の一周忌 - 2004年01月17日(土)

本日は昨年1月22日に、25歳の若さで亡くなった後輩・小林の一周忌法要だった。場所は埼玉の三郷で、昨年四十九日を執り行ったお寺で行われた。

この一年は色々あって、ハッキリ言って長かったように感じる。しかしながら、小林の墓を見ると、何かあっという間だったと感じた。

法要のあと、寺の向かいにある会館の中で会食が行われたのだが、何だか同窓会と言う様相で、中々楽しかった。ご両親にも久し振りに会い、特にお父さんとは仕事の話でまた盛り上がった。

和やかな会の中でも、小林のお父さんの挨拶には、若干胸が熱くなった。一年を振り返りつつ挨拶をされていた。たまにしか小林に会わなかった私と異なり、生まれてから毎日小林と接してきたご家族のこの一年を思うと、やはり感情的にこみ上げるものが感じられた。

小林の死によって自らの人生を見直した人々は、まあ私も含めてだが、かなり多い。夢に実現するために会社を辞めて努力している人間とか、職場を変えて新たな世界で悪戦苦闘をしながら努力している人間とか、そういう同期や後輩が増えた。私はそこまで変えていないが、何か辛い時、何故か小林のことを思い出しながら、甘えを抑えて自らを叱咤激励する場面が多かった。責任感の塊と言うか魂のような男だった小林を、何だか思い出していたんだろうか。

命日は1月22日である。とにかく、あれから一年が経つ。


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おいおい - 2004年01月15日(木)

帰国してから休みもなく働いているため、疲れが抜けない。チームの三人とも疲れており、夜も10時を過ぎるとトーンダウンとペースダウンが甚だしい。

と言うとき、インターネットでも見てみる。

<芥川賞、直木賞>19歳綿矢さん、20歳金原さんら受賞

の字が躍る。芥川賞に19歳の学生と20歳のフリーターが受賞したとの事だ。この内、綿矢と言う人(学生の方)は以前「インストール」と言う小説を書いた人であるが、今回の受賞は二作目らしい。両方とも読んだことは無いが、書店に平積みされているのは見たことある。出身は京都らしい。京都と言えば京都生まれの京都育ち、しかも京都大学出身と言う、やることなすことネタを追求する先輩Sさんである。何しろかつて若干上等な店(しかも京風と言う触れ込み)で湯葉を食べた時、「ん、この豆腐食感が変わってて美味い」などと言うほどである。食感が違うどころか食材が違うってんだよ。

と言う訳で、この綿矢りさ(本名は山田梨沙)の出身高校の名前を聞いてみた。

「Sさん、京都市立柴野高校って知ってますか?」
「しばのこうこう?知らんなあ」
「柴犬の柴に野ですよ。」
「…、よく読んでくださいよ。」
「あ、紫野?何て読むんですか」
「むらさきの」

疲れているため漢字も読めない状況で帰宅を決意したわけであるが、もう少し突っ込んで調べてみた。

「…、結構可愛いですよ。」
「どれ」

見入るSさん。

「うーん、たしかにまあまあやなあ。」
「まあまあですか。」

まあまあと言う評価である。

「凄いですね。一作目で賞を取って、二作目で芥川賞ですよ。」
「こういう人っているんやなあ。やっぱり才能があるのかなあ。」
「あるんでしょうねえ。」

さらに読むと、

「お、東京に住んどるやんけ。…付き合ってもらうかなあ。」

等と言い出していた。京都のローカルネタで盛り上がるのだろうか。

10分後くらいにSさんを置いて帰宅した。Sさんは仕事上で何かを忘れてしまったらしく、「えーーと、これどないしたんだっけなあ」と、頭髪の薄い頭を抱えていた。


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恭賀新年 - 2004年01月12日(月)

新年明けまして、誠におめでとうございます。本年も何卒お引き立ていただくよう、よろしくお願い申し上げます。

本日昼過ぎにソ連から帰って来て、明日からいきなり仕事。んもう、休みはいつあるんだと言う感じであるが、出張中に行程上休まざるを得ない日があったので、全く無いと言うわけではなかった。でも、そんな日も夜は移動だったりして、フルに休んでいないが。

もうソ連はいいって感じだな。

以下は往路の様子(会社の人宛)。復路はまあまあ順調ではあった。

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成田-モスクワ線

いきなり5時間遅れました。ここでアエロフロートの成田の職員にAir Astanaの翌日便手配に奔走してもらいましたが、翌日じゃなくて翌々日のものを手配されていた(モスクワで気付いた)。また、ホテルについてはアエロフロートがモスクワで手配するから、モスクワで対応しますと言われました。

モスクワ到着

アエロフロートはホテルをアレンジしてくれませんでした。理由は、「あなたはアエロフロートの乗継ぎじゃなくて、他社線に乗り換えるのだから、アエロフロートは関係ない。」の一点張りで、全く相手にされず。おいおい、アエロフロートが遅れたんだから乗り継ぎ出来なかったんだよ、と出張しても、全然理解されない。さらに、「あなたの便2日後じゃない(ここで先述の翌々日便手配に気付く)、2日分も泊められないわよ」と言うのも災いしたよう。無理に粘ったのが更に心証を悪くしたのか、相手のロシア体型姉ちゃんは「全部説明したでしょ」と言って机の自分の仕事に集中し、一貫して無視。という訳で、空港のタクシーカウンターで安めの宿を探してもらい、そこに泊まりました。タクシーカウンターの人が言うには、「他社線に乗り換える旅行者がこんな目に遭うのはいつものパターン。ここに『アエロフロートがpick upしてくれなかったから、タクシーを拾った』と書け。」と言われ、そこにスタンプを押されて「後日これを持って再度アエロフロートに請求しろ」と言われました。ホテルはSVO-2とSVO-1の間にある中級ホテル。夜中のSVO-2からホテルまでのタクシー代80ドル・宿泊費80ドル強・ホテルから空港(SVO-1)までタクシー代800ルーブル。成田で交渉しましょうか。

SVO-1でAir Astanaの便予約変更

成田でアレンジされた便が1月3日じゃなくて1月4日だったことから、1月3日の便に変更すべく、早めにSVO-1に出向きました。Air-Astanaのチケットカウンターは無く、いくつかの旅行会社(?)の窓口が、他の航空会社と兼用でチケット発行などを行っている。という訳で、Air Astanaのステッカーが貼ってあるカウンターに向かうも、SVO-1は英語が殆ど通じず、たらい回しにされた挙句どこも「出来ない」と言う対応。まあ私が何言っているか分からなかったのでしょう。Air Astanaの電話番号を教えてくれと聞いても、そもそも英語が通じない。途方に暮れていて端の方に行ったらAir Astanaのステッカーが貼ってあるカウンターをまた発見し、ここでお姉さんに「一人歩きのロシア語会話集(JTB刊)」の「予約の変更をしたいのですが」の例文を見せて、チケットを渡し、「今日!」を連呼したらいろいろなところに電話をしてくれ、端末を何度も叩き、ようやく予約変更に成功。捨てる神あれば拾う神ありを痛感。SVO-1で英語が通じないことから、昨晩のクレームをSVO-1で言うのは諦める。

Air Astana

定刻どおりチェックインが始まったことに信じがたい奇跡を感じる(他の便は"通常通り"、結構遅延が発生している)。しかも搭乗後も定刻どおりに動き出し、これでモスクワともおさらばと思い、スチュワーデスの安全確認デモンストレーションを横目に、少しうたた寝。機長の「離陸準備をしています」と言う放送を最後に、離陸

と思いきや、1時間半後に寒くなって目覚めたら、まだモスクワを離れていない。前のドアが開いていて、空港関係者と乗務員がゴチャゴチャやっていて、結果的に離陸延期。SVO-1のビルに戻されて(午前2時半)、待合室で仮眠。遅延に慣れているこちらの人々もさすがに頭に来ているらしく、Air Astanaの職員に食いかかるも、ロシア語の会話だけにさっぱり意味が分からず。ひとしきり文句攻撃が終わったあと、その職員に聞くと「technical problemにより、朝6時出発に延期になりました」と言う説明。搭乗客全員、疲れ切って待合室で仮眠。


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