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山手線占い - 2003年06月30日(月)

私の部の部長(53歳)が、部長の自宅でインターネットで山手線占いと言うのをやったら、これが結構当たっていたらしく、だったら部員全員(55人くらいいるんですけど)の山手線占いをやってみたらしい。そしたら全然違うと言うのがかなりあって、

「ありゃ全然当てにならねえよ」

と飲み会で言っていた。

いやね、山手線占いをYAHOOなりで検索してやってみて欲しいんだけど、あれ生年月日がいるんだよね。つまり部長は部員の生年月日を書いたものを自宅に置いていると言うことになるのだが、これを55人分やって、それぞれ合ってるだの合っていないだのやるのは、週末かなり時間を持て余していたものと思われる。

今度本部長代行と言うポストに就く俺の部長までやってんだから、みんなもやってみようぜ。尚、私は大塚駅だった。半分くらい当たっていたと思うが、恋愛運は当たっていないと思う。

各々結果は掲示板に書くように。では。


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聖飢魔IIがベスト盤を出した - 2003年06月29日(日)

1999年12月31日に地球征服の任務を終えた(らしい)聖飢魔IIだが、このほど"THE BEST OF THE WORST"と言うベスト盤を出した。「入門教典」と銘打っている通り、初心者でも入りやすい内容となっているのが特徴のようだが、ベスト盤はむしろ初心者向けのための、「誰でも分かる聖飢魔II」的なアルバムになるものであろう。

ベスト盤になると、比較的多くの曲がリミックスされるものである。今回も、何とbig time changesと言う曲が、曲自体と言うより歌詞そのものが全て英訳されていたりいる。しかも、その英訳が日本語の歌詞の全くの英訳と言うのが、何だか凄い。何がなんだかと言う感じでもあるが。どうもデーモンの歌い振りが若干疲れた感じがあるけど。

今回のアルバムは、既に解散しているもののそれぞれ同じ事務所(多分吉本興業)に所属して音楽活動を継続しているメンバーが集まって、選曲などを行ったようだ。その際に、当然どうリミックスするかとか、さらには殆どオリジナルで録り直すかの協議も為されたものと考えられる。そこで、引退直後に出したベスト盤において行われていたリミックスが、今回は行われずにオリジナルの曲が入っていたりする現象も見られた。それが最も特徴的に見られたのは2枚組1枚目の最後に収録されている"WINNER!"である。

WINNER!は聖飢魔II中興の曲として、この曲からファンになった層は比較的多いと思う(私もそうだ)。当時はバブル絶頂を極める直前で、第二次ベビーブーマーである我々は高校生から中学生くらいで、特にマセた中高生以外の普通の中高生は深夜ラジオなんかを聞いていたりして、その際に月曜深夜第一部の「デーモン小暮のオールナイトニッポン」を聞いていた人間は、多分殆どの人が当時発売されたThe outer missionを購入したと思われる。折りしもCDがレコードを物凄いスピードで駆逐したのはこの時代であった。デカイステレオセットでなくとも、何とCDラジカセと呼ばれる比較的小さいハードで、半永久的に音の劣化しないCDを聞けるようになり、居住空間大小に関わらずアルバムを購入して聞けるようになったあの時代、バブルで消費が大爆発してたあの時代、それまでレコードを聴くことが出来る機器が無かった我が家に、CDを聴くことが出来るハードが二つ揃ったのは、最早家庭に音楽が入ってくるのを2倍にも3倍にもするインパクトがあったはずである。

全然話が逸れているが、その時代に聖飢魔IIは「蝋人形の館」以来のメジャーヒットを飛ばしたのである。それがWINNER!であった。現在でも聖飢魔IIファンを続けている人間の中で、このWINNER!でファンになった人が多かった筈と言ったが、そんなこんなで、この曲はファンにとっては重要な曲である。

それがリミックスされると、若干調子狂うと言うことはあると思う。私も引退後に発売されたベスト盤を聴いていて、若干調子狂ってしまった。例えば、

輝く時の中で広がる果てしなきGlory land (Glory land)

と言う歌詞があるんだが、このときオリジナルは滑らかに歌うのだが、先のベスト盤では比較的ハッキリ単語を発音して歌うと言う感じになるのである。特にGlory landの発音はカタカナ発音っぽくなり、帰国子女で我が早稲田大学に入学してきたデーモン小暮らしくない。

とか、まあそんなことがあって、正直言ってリミックス版はあまり好きでは無かった。それが、今回の入門教典では元に戻った。正確に言うと、シングル版ではなくて、The outer missionに収録されたoverture~WINNER!とほぼ同じバージョンであると思う。第五大教典The outer mission一番目の楽曲として収録されたWINNER!には、最初にまさに序曲(overture)と言えるメロディーが挿入されている。これの(若干改良版?)WINNER!が、今回の1枚目最後の曲として収録されているわけである。まあ序曲とは言えないだろうが。

毎度のことながら、アルバム作成の際は当事者達の中では様々な思惑が込められた上で製作がなされるものと考えられるが、今回特に目立った動きは様々な曲のリミックスと言うより、原曲のまま収録された曲があるということであり、これが一体何故行われたのかと言う疑問が残った。

ファンからの反響がそうさせたのか、それは定かじゃない。一番最初に出したベスト盤"WORST!"には、全曲に対するデーモン小暮による解説が付されていたのだが、今回はそのような類のものは付いていない。どこかにこの辺の事情を書いたものないのだろうか。


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正答率3割は無いだろ - 2003年06月27日(金)

パキスタンにいる人から、

「最近(私の)母校が3面賑わしてますね」

と言うメールが送られてくるのだが、これは取りも直さず例のサークルの件がマスコミで熱く叩かれていることを示している。サークル代表の和田某は中大に入学して1年で退学して、1994年に早稲田大学に入学したそうだ。つまり、私と同級生で、しかも私と違って我が大学が誇る政治経済学部入学の彼は、言ってみれば早大Aグループ(入学式とか卒業式が午前中に行われる)に属するエリート階級で、我々Bグループ(午後に行われるから前日飲んでても全然平気)とは異なる人々だ。まあAグループとBグループは従って入学式でも顔を合わせないから、明らかに私とこの超有名人和田君は、全然会ってもいないと思う。しかも、比較的行動範囲の狭い私は、大学内の居場所は所属していたお堅い英語サークルか、所属していた硬いコンクリート研究室であったため、超有名サークル「す〜ふり」は、何と今まで全然知らなかった。恐らく、このサークルを知らなかった人は相当大学内でもモグリであるかもしれないが、ここまで「内外でも有名だった」と書かれると、私は本当にあの大学にいたのかと自問自答をしてしまうほど、そんな存在だったようである。つまり、俺はモグリだと。入学式の際、記念会堂から出てきてサークル勧誘の嵐に同じく身を投じていたと思うのだが、和田某はこの時点で「す〜ふり」に入っていたのだろうか?

本件に関しては、私としても出身大学(本当にその大学にいたのかを自問自答すること含む)のことが囃し立てられているため、記事など見つけると読んでしまう。また、会社の部内では何と早稲田出身は私だけなので、昼休みに誰かがインターネットを見ていて何か記事を見つけると、必ず私に声がかかる。とは言え、本件に関しては島が既に詳細な考察を記述しているため、特にこれ以上書くことは無い。いや、別に人が書いてるからって俺が書かない理由は無いんだけどさ、なんつうの、実際ここまで書いてきたのがこの数日で記事とか読んで把握した内容で、これ以上のことは知らんのだよ。

で、ようやく本題だが、今日の朝日新聞で目を引いたのは、す〜ふり解散を嘆く短大生の胸元カラー写真の左下にある、大阪府で学力不足により解職された高校の数学の先生の話である。

何でも父兄や生徒から「数学の授業が全く分からん」と言う苦情が寄せられていたため、府が矯正研修みたいのを科したらしいのだが、この一環でやらされた大阪府立高校入試問題で3割の正当しか得られなかったそうだ。センター試験も全国平均を下回る惨状で(そりゃ高校入試でそれなら大学入試はセンターと言えども無理があるだろう)、指導力不足以前に学力不足(おいおい)でクビになったようである。この先生は「準備も無く突然やらされたからこうだったんだ」と反論しているようだが、これが反論になっていないのは自明の理で、先生なら準備無くても出来るだろ。しかも8割とかならまだしも、3割ってどう言うことよ。

ここで再度登場するのは、私の高校の頃の日本史の先生、A先生だ。

彼は指導力こそ5点満点中0点、100点満点中0点、1億万点中0点と言う、一億万と言う謎な桁数を用いても0点にしかなりえないものを持っているが、学力に関してはそんなことは無かったと思う。要は、先生に問われるのは学力じゃなくて指導力で、自分の持った学力をいかに生徒に伝えるかが大事なのであり、従って頭脳的な仕事と言うよりむしろ気の遣い様が問題となる仕事と言えると思う。生徒がどうすれば自分の持っている知識なりを分かるのか、一体どう言えば理解してくれるのかと、気を遣いながら授業展開して行くもの、と思うのである。

と言うより、思っていた。ある時点までは。でも、学力と言うのは先生も付けていかねばならないものだと言うのは、バイトで塾講師やってから分かってきた。

学力のある先生が指導力のある先生と言うことは必ずしも無いが、逆はほぼ100%の割合で成り立つように思う。つまり、指導力の優れた先生は、彼自身の学力(自分が教えるレベルの学力ね)も間違いなく相当優れている。そして、いくら中学校の数学だとか高校の数学だとか言っても、実際は先生でもかなり訓練しないと、その相当な学力と言うのは身につかない。つまり、指導力の優れた先生は、先生のくせに入試問題といたり問題集といたりしているのである。先生のくせにだ。

私がバイトしていた塾のとある教室は、指導力のある先生が揃っていて、指導力の優れていると言う先生は、全員(本当に全員)担当教科に関してかなりの学力を持っていた。彼らは確かに名門大学の学生でもあったりしたが、だからと言って彼らが昔から持っていた(?)卓越した(???)学力を引き摺っただけで食いつないでいたのかと言うと、実際は全くそうではない。何と、彼らはともすると自分で本屋で過去問題集とかを買って、それを家で解いたりしているのである。勿論、それは授業で使うプリントに載っけるために「授業準備」の一環としてやっていた面もあるが、単に自らの指導力向上のための学力を付けるための自主訓練と言う側面の方が大きかった。

中学生が解く問題といっても、大人でも難しい問題は少なくない(と言うより、かなりある)。だが、先生業に足を突っ込んで感じるのは、そういう難しい問題を教えるのが大変と言うより、むしろ全く簡単と思っていたのを教えるのが案外難しく、実際予習をやってみると、実は中学生レベルの簡単な事柄が、良く分かっていない(つまり学力が低下している)と言うことに気付くのである。だから、改めて学習が必要になってくる。これは衝撃的な事実だが、実際先生といっても新米は驚くほど学力が無いものである。

学力をつけるにはどうするか。それは勉強しなおすしかない。だから、結構みんな授業準備以外に、勉強しなおすのである。しかも、先生はいつも先生であることが必要であることから、普段から研鑽を積んでいる必要がある。つまり、いつでも準備が出来ている。電車の中で日能研の問題見ても、すぐに答えが出るように、常に学力を高度に一定以上保っていなければ、すぐに学力が低下する。繰り返すが、常に研鑽が必要だ。入試研究なんて当然やっているべきである。

先生としての指導力は、気の遣いようが最も重要。しかし、最も基本的な要求事項は、先生の学力である。学力が無ければ、そもそも問題が解けないから生徒を教えることは不可能だ。だから、学力が無い先生は、どうあがいても結局何も出来ず、従ってクビになってしまうのはしょうがねえんじゃねえの。


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横浜市道志区 - 2003年06月24日(火)

山梨県の道志村の村民が、横浜市への飛び地合併を希望しているらしい。横浜市と道志村との関わりは100年を超えるらしいが、それは道志村が横浜市への生活用水の水源地であることがその関わりとのことだ。確かに、道志村を流れる道志川は、神奈川県を二分する相模川の支流のひとつで、相模川は横浜市にとって重要な水源である。

そんなこと出来るのか。出来るのか?距離の問題も然ることながら、山梨県と神奈川県じゃないか。仮に道志村が横浜市道志区になるとしよう。すると、道志区に郵便を出す際、

山梨県横浜市道志区

になるのか?

道志村の人口は2200人らしい。横浜市は350万人くらいだから、人口は一気に350万2200人にジャンプアップすることになる。市町村人口二位の大阪以下をさらに引き離す膨張振りには呆気に取られざるを得ないが、道志村は合併したら横浜のクソ高い税金を払わねばならないのか?

疑問は尽きないな。どうでもいい、とか言ったら怒られるんだろうか。市営地下鉄道志区まで延長とか言ったら、俺は反対と言うか横浜市民をやめるね。ムダだろ。


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オールスター投票で川崎が投手部門で得票1位に一言 - 2003年06月23日(月)

80万分の一になると、川崎がどう思おうと投票した人間は痛くも痒くも無いだろうな。


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キャンプ行ってきた - 2003年06月22日(日)

昨日朝から丹沢にキャンプに出かけ、今日の昼に帰って来た。

キャンプと言ってもコテージを借りたのであまりキャンプらしくは無いが、取り敢えず私が車を持ったことを機に、会社の現在のチームの人々+構成員の彼女たちで行くことを企画。

って、私の車は出動して無い。だって参加者6名でそんなに車いらないんで…。

朝、会社の寮に出向き、そこで上司Tさん、ならびに先輩Sさんの車で発進。メンバーはTさん・Sさん・後輩Y・Sさんの彼女Tちゃん・Yの彼女I・そして私だ。って、イニシャル連発で訳が分からん。行き先は丹沢のキャンプ場だ。

途中、開成町(と言う神奈川県西の町)のヤオハンで買い込みを済ませ、酒匂川上流の三保ダムを超え、ウェルキャンプ西丹沢と言う、酒匂川のかなり上流にあるくせに結構大規模なキャンプ場に到着。受付を済ませてコテージに向った。

コテージは驚愕の代物で、無茶苦茶清潔で布団もあり(湿っている布団じゃない)、洋式トイレと冷蔵庫まであると言うログハウスだった。これで一棟16,000円は安いと思う。

取り敢えず荷物を置いて、釣り班とハイキング班に分かれて行動開始した。尚、私は最初

「(金曜に社内バレーボール大会の練習があったお陰で筋肉痛の私にとって)ハイキングなんて冗談じゃねえぜ。」

と言う姿勢を示していたのだが、コースを見ているとハイキングの方に参加したくなり、私は上司Tさん率いるハイキング班に入ることになった。尚、釣り班は夕飯に花を添える魚を6尾釣り上げなければならない。

ハイキングは滝のあるところまでの道だが、途中で砂防ダムなどがあったりして非常に涼しげだ。川の水も極めてきれいで、Yの彼女Iまでもが川の水を飲んでいた。だが、途中で全く道を間違え、ハイキングと言うより沢登りのような様相を呈して、頂上にあるちょろちょろ流れる滝で行き止まりになった。この滝も雨が降った後は結構豪快に流れるんだろうな、などと思うがなあ。

仕方なく沢をまた下り、下ったところにある私の背丈くらいの滝のところで靴を脱ぎ、私は滝つぼに入った。川で泳いでいる子供を見たとき、「しまった、水着を持って来ればよかった」と思ったが、冷たすぎて若干厳しいと言う感じ。膝まで浸かっても、結構すぐ陸に上がらないと冷たくて痛くなってくるほどだった。だが、水しぶきが漂い、非常に爽快な気分。

夕方、釣り班と合流し、飯の準備。釣り班は時間ギリギリで6匹目を釣り上げたらしく、ちょうど人数分の魚を確保することに無事成功。

「釣堀だから楽勝やろう、と舐めてたら結構上手く行かなかった」

と言うのは先輩Sさんの談話。

飯はバーベキューだが、平塚出身のTさんは「俺は高校時代から大学時代に、大磯青少年何とかセンターでバイトで飯盒炊爨とか指導していた」と言う経歴を持っているので、こういうのは詳しいらしい。また、SさんもTちゃんとバーベキューに行くようだ。という訳で、私は火を熾したりの端役を演じ、殆ど飲食のみに参加と言う感じだった。

魚は美味くて、頭以外は全て食べられた。その他、買い込んで行った食材も美味く、酒も気がついたら無くなっていると言う状況だった。

風呂(風呂がある)は露天風呂で、これがどうやら温泉を引いているのか、中々風流である。「いやー、最高ですね」とTさんとSさんに言う。

風呂から上がったら蛍を見に行く。蛍は釣堀近くの茂みに生息しており、人間が入れないように柵でめぐらされている。乱舞、と言うほどはいなかったが、結構光りながら飛んだりして、蛍を生まれてはじめて見たYは感動していた。一匹が私の手に止まり、全員で蛍を間近で鑑賞したが、かつて見た昆虫図鑑にあったような赤い頭で、尻が青白く光っている。中々明るいが、蛍の光り窓の雪よろしく、この光を頼りに勉強は出来んだろう、などと思う。

消灯は10時なのだが、我々は結局1時くらいまで飲んでいた。しかも、結構大声で笑って。迷惑だっての。一応窓は閉めていたが…

翌朝の本日、Tさんが朝一番で起きて外に出てみると、ドアの鍵がかかってなくて、しかもドアの鍵が外の鍵穴にささっていると言う不用心振りだったようだ。浮かれすぎだろ。

以上、箇条書き風に色々書いたが、驚くほどの最高な土日だった。梅雨シーズンなのに鮮やかに晴れたのが良かった。いやー、リラックスしたぜ。


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世界史の勉強 - 2003年06月18日(水)

私は理工学部出身と言うこともあって理系の人間だが、国立第一志望だったので受験生時代は社会もやった。しかし、選択したのは私にとって当時趣味に近かった地理であり、一所懸命勉強している数学とかが地理の偏差値に勝てないくらいだった。と言っても未だにマニアックなほどに地理の知識が残っているかと言うとそうでもない。忘れてしまっていることのほうが多い。未だにタロイモの生産高世界5位がウガンダなのかも判然としないなど、地理は1年単位で色々変わるから、ついていけないと言うこともあると思う。

国立大学受験に失敗して、だったら社会なんてやらなくてもと言う私立大学に入学したわけだが、その時代に興味があった社会科はどちらかと言うと世界史で、会社に入ってからは山川出版社の世界史の教科書を買ったりして、つまみ読みなどをしている。しかし、世界史と言う非常に長期にわたる人間の歴史を僅か300ページくらいの冊子(しかも字が結構大きい)に詰め込んだ教科書と言う代物は、要点と言うか歴史上の重要な事件を単語を羅列して書いていると言う感じで、中々頭の中に残らない。

初心者はやはり基本的な参考書だろうと思って、例えばZ会の「はじめる世界史 50テーマ 入試への基礎」なども買ってみたのだが、これは更なる要点の要点と言う風情で、エピソードも減った暮れも無くてこれまた頭に入りにくい。例えば、

カノッサの屈辱(1077)…聖職叙任権闘争中の代表的事件。教皇グレゴリウス7世と神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世が衝突、皇帝は破門され教皇に屈服。

これだけかよ!これだけじゃ何が何だかさっぱり分からん。

フジテレビの深夜番組「カノッサの屈辱」、それをパロディとして使ったUNの「加納さんの屈辱」を超えるインパクトをもたらす受験参考書募集中。


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プジョー - 2003年06月16日(月)

午前中、仕事をしていると電気部同期Aからメールが入ってきた。電気部同期Aは「23階南の横綱」と呼ばれているのだが、横綱とは「いつまで経っても彼女が出来ない奴」と言うことで、電気部内でも有名である。Aはかつて、クリスマス大寿司食い放題大会を主唱・主催したことで、私の先輩や後輩にも名が通っている。当時の模様はここに詳述している。

そのAが、こともあろうか「ご報告」と言う件名でメールを送りつけてきやがった。この「ご報告」と言うのは、同期が結婚する際にだけ原則用いる合言葉的な件名であり、23階南の正横綱を張る人間が送っていいメールではないのである。

その報告には、

トヨタのMR-Sを(中古ながら)購入しました。」

とあり、しかも

「さらに、助手席に乗る女性も出来ました」

と書いてある。

仕事中に下らねえメール送ってきやがって、士気阻喪も甚だしい。馬鹿野郎、ぶっ飛ばすぞ、と言うメールを即刻返してやった。

夕方、後輩とコンビニに買い物に行った時、at!にプジョーの車が展示されているのに気付いた。みなとみらいでは、理由は良く分からないのだが、毎年この季節にフランス映画祭をやっており、その一環でこの御フランスの大衆車が置かれているのだろう。大衆車と言っても、置いてあるのは500万くらいする。

後輩「いやー、次はプジョーなんてどうですか?」

と聞いてきた後輩に対し、

「今、財布に653円しかない俺が、どうやってこんなもん買うんだよ」

と答えた私。尚、23階北の正横綱は、遺憾ながら私と呼ばれている。それはそれで「オイシイ」と思っている私だったが、今日のAの電撃引退は、残された横綱武蔵丸のような感じであった。もう今年で29歳。


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書き過ぎに慣れること注意 - 2003年06月14日(土)

久し振りに土曜出勤。今日は無茶苦茶暑い。

昼飯は事務所で食べるわけだが、大抵隣のビルにあるマックでセットを買って食う。食べるところなど周囲には五萬とあるが、結局これが一番簡単だ。

マックがサイドメニューをアレンジすることが出来るようになって久しいが、私の場合はいつもポテトのMとコーラのR、ってアールって言いにくいよな、である。サイドメニューをアレンジすると言っても、結局昔のバリューセットと同じラインナップにしてしまうのは、結局これが一番と思っているからだろうか。いえね、たまに試しますよ、ナゲットにするとかね。でも結局ポテトだよな。かつて小林が「サイドメニューを選べるようになったから勇んで行ったものの、『えーと、ポテトとコーラ』って今までと同じかよ、みたいな」とか日記に書いていたのを覚えているのだが、そんな感じ。

会社に着いたが、今日やる仕事は別に火急の仕事ではなく、今までパキスタン子会社にやってもらったある作業をまとめて、それをパキスタン子会社と部内に知らせるべく、部内データベースにアップロードする作業である。

暫く昨深夜に届いた結果を眺めて、若干修正しながら、その「まとめ」を書き始めた。色々気付く点(耐力計算でこれがgovernになるとか、この場合はこう補強してやればよいとか)を、ダラダラと書き連ねていった。随時関係ファイルを添付したり、スケッチを書いてそれをスキャンして保存したりしながらね。

普通に書いていって、ある場所で文字が打ち込めなくなってしまった。あれ、何だこりゃ、字数制限でもあるのか?と思って、今まで書いてきたものをスクロールしてざっと見てみた。

長過ぎる。

マジで長過ぎる。こんなの誰も読まねえよ。

私は普段から文章が長い。出張で何かを報告する時、とにかく長い文章で報告する。自分ではそれほど冗長だとは思っていない。しかし、説明がくどいと言うのは事実だと思う。

こうなったのも、日記を毎日書くなんていう習慣がついてしまったからに違いない。しかも、文体・字数に全く制限の無い、まるで自由な個人ホームページ。鉛筆握って書くスピードより明らかに早く書けるというキーボード利用では、必然的に文章も多く書けることから、長くなるのも当然である。

結局「鉄骨の何とかかんとかへったくれPart I」とか書いて取り敢えず二部構成にした。Part IIも殆ど書き終わったが、これは資料がまだパキスタンから届いていないため、まだアップロードはしていない。尚、二部構成でも済みそうに無い。

帰り道、いつものように桜木町からは帰らず、スリーエフでスーパードライ買って、飲みながら散歩がてら高島町まで行って、それで帰って来た。ビール飲んで、「くぅ〜、いかにもビールって味だなあ」とか、みなとみらいの高そうなレストランの横を歩きながら独り言を言ってみたりして。いかにもビールに決まってるだろうが。


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あっという間に金曜日 - 2003年06月13日(金)

日記書いてないなと思ってたら、あっという間に金曜になっている。日記を書かなかったのは飲み会が今週は二回あったことと、ネタが無かったことがその原因の主たるものだ。

別にその日全く何も無かったわけじゃないから、その日に起こったことを徒然に書けばいいじゃないか、と思う向きもあるかもしれない。しかし、徒然に書くのさえ辛いのが「別段何も無かった日」で、こういう日はこの日記を書く際の「題名」すら埋められない。一応ブラウザ上で編集モードには変えてみるのだが、数分考えて書くことが思い浮かばないと、そこでインターネット閉じてパソコンも閉じて、バガボンドでも見ながら眠ってしまうのが最近の傾向だ。BGMは聖飢魔IIの「赤い玉の伝説」である。

それで、本日は何か書くことがあるのかと言うと、これがまた別段特に無いという感じである。だが、ここで閉じずに今日はちょっと粘ってみようと思う。何しろ今週は更新が少ない。

先日、沢井鯨の著作がamazonから届いたことを受けて、早速沢井鯨第一作目である「プリズナー・イン・プノンペン」を読み始めた。文体はところどころホームページ日記サイトの管理人のような書き方で、世の中には色々な作家がいるもんだと思いながら読むと言う状況で、それが若干読む側の我慢を強いられるところのように感ずる。まあまだ30ページくらいしか読んでいないのだが、そうは言っても沢井鯨が描くプノンペンは、その昔学生時代に色々旅行した頃を思い出させるシーンが描かれている。

別に私は女を買いまくったとかマリファナ吸いまくったとかしていないのだが、こう言うのを武勇伝的に自慢する輩と言うのがかなり多く、これが嫌で旅行中は日本人旅行者となるべく目を合わせないように歩いていたのを思い出した。

これだけならいざ知らず、学生の日本人貧乏旅行者と自称する人たちは、何故か私が彼と同じものを持っていると「これいくらで買いました?」と聞いてきて、例えば「250バーツです」とか言うと、喜びを隠し切れない表情で、

「僕これ180バーツで買ったんですよ。」

とか言ってくる。顔は笑みを隠しきれない笑みが広がっている。それに対し、私は必ず、

「へぇーっ!どこで買ったんですか!!?」

と聞いてあげなければならない。すると彼は、

「いやー、適当にブラブラ歩いていたらあったんですよ。」

とか言ってくる。顔は笑みを隠しきれない笑みが広がっている。それに対し、私は必ず、

「へぇーっ!そんなところにあったんですかぁ。失敗したなあ」

と言ってあげなければならない。

この小さな自尊心をくすぐる会話を、何故こんなところに来てまでせにゃならんのだ、と思いながら旅行をしていたものである。次第に日本人を見ると伏目がちに歩くようになった。

と言うのを、本を読みながら思い出した。

このように、どうにも落ち着けようの無い感じになってしまう。大体「このように、どうにも落ち着けようの無い感じになってしまう」と言う文を用いて、冒頭部分とリンクさせて日記を終えようとしている時点でいっぱいいっぱい感を拭い切れないだろう。

今週はこんな感じで、あまり書くことも無かったんですね。


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明日は新入社員歓迎会 - 2003年06月09日(月)

明日、部の新入社員歓迎会があるんだけど、もう新入社員歓迎会も入社してから4回目である。今は配属が我々の頃より1ヶ月遅く、じゃあその1ヶ月間何をしているかと言うと、英会話学校で研修をしているらしい。うーん、流石に1ヶ月研修積めば、結構なレベルに達するような気がするけど、大学1年の時の私を思い出すと、あれだけ頑張って英語サークル(かなり厳しいサークル)の夏合宿やった割に、1年の夏合宿が終わった時点の英語力はそれ程でも無かったな。やはり短期集中後ちょっとずつでも研鑽を積まないと、英語は全然上手くならねえな。

話が逸れた。そうだ、新入社員のときの話だ。私が配属になったのは5月中旬で、いきなりマレーシアのプロジェクトに入った。入社以来1ヵ月半、新入社員研修と称して研修に参加していたのだが、何つうの、生温いと言うかそんな感じで、社会人なのにこんなに楽勝でいいのかよ、と思う日々だった。つまらない講義は居眠りしちゃうしね。

それが、配属されて暫くしたらいきなり忙しくなった。最初に振られた仕事で覚えているのは、三次元CADのマニュアル英訳で、これを上司と3人で英訳し続けた。上司が脇で「うー、もう指が動かねえよ」と言いながらそれでも英訳していた姿を思い出す。私にしても、いつ終わるとも知れぬこの英訳をし続けていたのは、何だか妙に覚えている。

その後は色々仕事がやって来たが、実際に設計させてもらったり出張行かせて貰ったりしながら、1年目が過ぎた。あっという間でなくて、1年目は妙に長くて、それでいて厳しいものだった。何しろ分からないことが多くて、充実感と言うか、そういうものを感じることが少なかったからだ。仕事が楽しいとはまだ思えなかったが、周りの先輩がキツイと言いながら楽しく仕事をしている姿を見て、「俺だって、慣れればこの仕事が面白いと思えるようになるはずだ」と信じてやっていた。んだけども、こんなだから1年目に自らが満足するレベルに達したとは言えないと思う。

仕事がようやく面白くなってきたのは、2年目の後半くらいからだろうか。今ではこの会社以外で仕事をしている自分を全く想像できないほど、今の仕事は好きだけど、一朝一夕に楽しくなるなんて言うのはあり得ず、1年目はそんな意味でも変にストレスの溜まる日々だったような気がする。

と言うのを、明日新入社員に話すかどうかは酒の入り具合によると思うが、まあ自分でそのうち分かってくることだろうな。


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結婚式ラッシュも取り敢えず一段落か - 2003年06月08日(日)

本日の玉木結婚式を以って、取り敢えず私のサークル同期内の結婚式は一段落と言う感じのような気がする。と言っても、他にも近日中に結婚式を挙げる同期はいるが、それには出席しない。来月、会社の同期の結婚式に出るため名古屋に出向くが、まあ会社の方は幾つかあるだろうか。何しろ会社の同期は殆ど院卒なので、現在社会人4年目くらいで結婚を立て続けにする傾向にある。現場帰りで金が貯まっているという状況もあるだろう(現場赴任に行っていないのは私だけになってしまった=金は貯まっていない)。

もう結婚式にも慣れたと言う感じだが、本日の披露宴は主賓挨拶等はカタかったものの、芸(我々のも含めて)は中々勢いがあった。また、披露宴に付き物の湿っぽいシーンなどは今回は特に無く(新婦の両親への手紙とか、来賓の涙を誘うものは一切無かった)、玉木らしいカラリとした結婚式だった。今後、この夫婦はどんな時も平静に暮らしていくと言う印象を持ったが、これは全く負の意味ではなく、恐らく人生の終わりに際しては「やはりこいつと結婚して良かった」とお互いに思えるような関係になるだろう、と当てにならない私の予想をしてみたりした。あっさりしていたが、そんな意味では実はかなり良い結婚式だったと感じたが、他の列席者は果たしてどう感じたのだろうか。

あー、しかし明日朝から会社ってのは、やはりダルいな。やはり結婚式はなるべく土曜に。

>業務連絡<

町田と津川。見てるならたまには近況でも知らせるように(掲示板にWESAスレッドを立てていいぞ)。


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実話かどうかは調べていけば分かるだろう - 2003年06月07日(土)

沢井鯨と言う作家がいる。デビュー作(?)はPrisoner In Phnum Penh(略してP.I.P)と言う本で、第二作はDice of Die(略してD.O.D)と言う本である。前者は、自身がでっち上げでプノンペンで投獄された経験をもとに書いた本で、二作目はマニラで同様に嵌められた日本人達を取材して書き上げたミステリー小説だそうである。

で、本日の主役は沢井鯨ではなくて、二作目D.O.Dに登場する人物のモデル(になっているのかは分からないが)の人である。この人、昨日終電終わった後に桜木町から乗ったタクシーの運転手なのだが、彼は沢井鯨から取材を受けたことがあるらしい。

昨夜、飲んで終電を逸した私は、地下鉄のある交差点からタクシーに乗って家に帰った。

「すいません、江田方面」

と言うと、運ちゃんは江田がよく分からないと言う表情をして、

「港北方面でいいんですか?」

と言ってきた。第三京浜の港北ICを降りれば分かるので、それでお願いしますと言うと

「いやー、タクシーの運転手は久し振りに始めたんで、良く分からなくて。4年間休んでたんですけど、横浜も変わっちゃいましたね」

と言ってきた。そうですね、確かに港北の辺りはガラリと変わりましたね、などと話していたのだが、この人話好きらしく、結構話しかけてくる。酒は入っていたが意識のハッキリしていた私は話をし続けた。4年間は違う仕事してたんですか?と聞くと、マニラにいたと言う。経緯はこうだ。

タクシーの運転手稼業を続けてきたこの人は、4年前に10日間の予定でフィリピンに旅行に行ったらしい。予定通り帰るとき、出国審査で賄賂要求の難癖を付けられた。入国スタンプが押されていないと言う。入国スタンプはしっかり押されているので「押されてるだろうが」と突っ込むと、これは偽のスタンプだと始まったようだ。揉めているうちに別室に連れて行かれて、ホテルで待機するように言われたようだ。それでホテルに戻され、数日間音沙汰なしで過ごしたらしい。

数日後、再び出国を試みると、今度は滞在許可期間が過ぎていると言うことになり、これで逮捕。大使館に掛け合ったものの、マニラでは不法に日本からやってくる人間が多いからか、それらと同一視されて助けてくれず、禁固刑1年を食らったようだ。

1年後、出獄したはいいものの、既に金も何も無い状態に陥り、大使館の相手のしてくれなさは更に磨きがかかり、日本人とさえ認定されなくなった(パスポートも無くなっていたらしい)。全く助けてくれる人間がいない状態に陥った。日本の家族と話をしようにも、家族と連絡が取れず、また1年も全く音信不通だったことから恐らくもう死んでいると思われたのか、向こうからのアプローチも無かったような状況のようでもある。そこから3年、物乞い生活で何とか死を免れて生活を続けたそうだ。

3年経ったある日、最初の出国のスタンプ関連で揉めた警官に物乞い生活が見つかり、これで馬鹿にされたのを機にぶち切れ。もともと空手をしていただけあって、10人いた相手の一人の目を潰すくらいの切れぶりだったようだが、多勢に無勢で結局ボコボコにされ、これで生死を彷徨う。幸い助けの手が出て医者にはかかったものの、このままでは死んでしまうと言う訳で再び大使館に行き、相手にされずとも門柱にへばりついて助けを求めたようだ。

外務官僚はこの際一切無視したようだが、公安関係でマニラ大使館に出向で来ていた日本の警察関係者がこの人に気付き、色々調べ始めてくれたようである。これで潔白がようやく証明され、日本の家族にも連絡が取れ、金を工面してパスポートと航空券を購入し、ようやく「強制送還」と言う名目で帰国を果たしたらしい。

帰国後、外務省の偉いさんから「すみませんした」の電話が一本入っただけでこの問題は片付けられてしまったようだが、本人は納得が行かない。しかし、今回金を貸してくれたりした義理のお兄さんがどっかの省庁の結構偉いさんで、ここで国を相手に訴訟を起こしたらその地位が一気に揺らぐことから起訴を諦め、結局タクシーの運転手をまた再開したようである。

「もうどうすることも出来ないんで、本でも書こうかと思っているんですよ。」

と言っていた。

マニラは日本から逃げてきた人たちが大勢いて、大使館もこのような人間達を殆ど「不可触日本人」的に扱っているようなので、本当に言われ無き罪で酷い目に遭っている人間を助けることは殆ど無いようである。また、このような人間に助けの手を差し伸べて、金を渡す人間も殆どいないようだ。理由は「こういう日本人は帰る気は全く無く、金貰ったらすぐに覚醒剤に使ってしまう」と言うことが定式化しており(実際そうらしい)、容易に助けの手が入らないのが現状のようだ。

「全く、今考えたらスタンプでいちゃもん付いたときに金を払えばよかった」

と言っていたが、それは確かにそうだろう。

役人の特に腐っている国に一人旅で行くのは、実はかなり危ない。


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久し振りにTOEIC受けてみた - 2003年06月05日(木)

TOEICで860点を超えたら報奨金を出す。

と言うイベントが会社で開始された。入社以来受けていなかったTOEICだが、車の修理で金が飛んだり今週玉木の結婚式で金が飛んだり、飲み会多過ぎで金が貯まらなかったりと言う惨状の私にとって、この恵みの雨のようなイベントに申し込まないわけが無い。という訳で早速申し込み、先週受けてみた。企業向け(IPテストと言う奴だ)のものは1週間で結果が返って来る。

で、結果。

部長が私の席の前に来て

「TOEICの結果、945点だぞ」

と言った。

945点?

きゅ、945点?

自己記録更新どころの問題じゃねえだろ。確かに手ごたえは結構あったが、「よーし、次回(8月下旬)は900点越えてやる」くらいの出来だったような気がしていた。先日捨てたTOEIC本を買い戻してやろうかと言うくらいの勢いで、何と文法問題集とか買ってしまったほどなのである。工業英検の前に取り敢えずTOEICかな、とか思って。

特筆すべきはリスニング490点と言うもの。リスニングって、満点495点らしいんだが、100問中1問くらいしか間違えてないのかな。いやね、確かに聞き取れない所とかはありませんでしたよ。でもさ、ちょっと迷う選択肢とかあるじゃない。特に私があまり得意じゃない2番目の問題、ってほらこういう奴、

1. 昨日どこ行ったの?

A. 私の人生の目標は叶姉妹です
B. え、別にどこにも行ってないよ
C. 夜霧の終着駅です

何つうの、明らかに違う受け答え(A)と、一瞬戸惑うけど正解は(B)で、(C)は正解のように感じるけど、夜霧の終着駅は石原裕次郎の歌だから不正解、みたいな。まあこんな微妙な問題は出ねえけどさ、やはり今回も2番目では「あれ、どっちだ?」と言うのがいくつかあったからな。

まあ何だかんだ言ったところで、取れば取ったで嬉しいものですね。特に最近悪いことばかりだったし。

尚、報奨金は明日の飲み(若干豪快に奢る)と玉木への祝儀で足が出る予定。おいおい、結局蓄えが減るのかよ。


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都立高校で授業の評価を生徒がすることになるようだ - 2003年06月03日(火)

朝日新聞夕刊を眺めていたら、そんな記事が載っていた。板書の構成や授業準備の質などを生徒が評価するらしい。チョークの色のレイアウトまで評価対象になっていたりと、中々細かい。この記事を見ていて、私の脳裏を走ったのは高校時代の日本史のA先生の授業である。結論から言うと、A先生の授業は私が覚えている中で、最もダメな授業だった。

(1)授業準備

彼は果たして授業準備をして来ているのだろか。山川出版社のあの赤い教科書を読んでいって、たまに自分が知っている蘊蓄を傾けているだけのような気がする。

(2)板書

この先生は、何故か黒板の中央部しか使わない。端から書いたら教室の端に座っている生徒に見にくくなってしまうと言う、絶大なる配慮から為される行為なのではないか、などと一瞬たりとも思ったことは無く、教壇を単に右に左に動きたくないだけのような気がしてならない。板書も無茶苦茶汚い字で、自分の喋ったことをまるで自分自身の備忘メモのように書くだけで、体系と言うものが全く感じられない。しかもあの板書、教科書読んでるだけでもいいんじゃないの?

(3)喋り

どこが重要なのかさっぱり分からない。何かいつもと同じような適当な喋りっぷり。彼は果たして教育に情熱を持っているのだろうか。

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いやさ、一体何でなんだろう。歴史だぜ。歴史なんて、多分一定以上面白い科目の筈だよな。別に入試に出る「覚えなければならないこと」をひたすら覚えさせるようような授業でも無かったと思う(大体この先生は入試問題研究とかしたことあるんだろうか)。そもそも、歴史はかなりのストーリー性とエピソードを持っていると思うのだが、何かそれだけで興味深いモノに出来そうな気がしないでもないのだが...

物理とか化学に比べれば、絶対万人受けする授業を展開できそうなものだが、そうでもないのかな。とにかく、今日新聞を見てこの先生の授業を真っ先に思い出すほど、彼の授業は酷かった。まああっしは大学・大学院時代に進学塾でバイトしてたけどさ、科目は数学と理科だったけど、日本史にコンバートしろと言われて、いきなりやっても多分彼の授業の5億倍マシな授業を出来ると思う。質ゼロに5億かけてもゼロはゼロだがなあ。

と言うくらいの授業だった。何か思い出したら腹立ってきたな。


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ダニー - 2003年06月02日(月)

昨晩は殆ど一睡も出来なかった。いや、痒くて。どうも一昨日くらいから私の部屋のカーペットにダニらしきモノが大繁殖したようで、とにかく体の隅々まで痒かった。

つうことで、本日は帰りにダニアースとスキンガードのダニ用の奴を買うことにしたのであるが、財布に1200円しか入っていなくて敢え無くダニアースの方を諦めた。ダニアースは絨毯は使えるだろうが、布団には使えないような気がしたのだ(恐らくダニーズは布団でも繁殖を繰り返しているだろう)。

俺の布団で繁殖を繰り返すなんて、何て破廉恥な奴らなんだ...。


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英検5級 - 2003年06月01日(日)

本日、本屋で親子連れが英検コーナーの前で揉めているのを発見した。どうやらどの本を買うかで揉めているらしい。

子供は小学生のようで、お父さんとお母さんが勧める英検勉強本を拒否している。最初に買おうと思っていた本があったようなのだが、お父さんとお母さんが「書き込み式」的なデカイ本の方が良いと主張しているようなのだ。

その内、

娘「もう英検なんて受けない」
母「何言ってるの。これから英語なんてみんな普通に出来るようになるのよ。気がついたらみんな(英検何級を)持っているってことになるわよ。私立に行ったら、みんな確実に取ってるわよ(未来完了的な言い方で)。」
父「な、これで頑張ろう。お父さんも見てあげるから」
娘「忙しくてこんなのやってるヒマ無い(やや愚図りながら)」
母「忙しくなんて無いでしょ、全然勉強やってないんだから」

と言う会話になってきた。いや、聞くつもりは無かったんだけど、私が見たい工業英検の本が実用英検コーナーの真下にあってですね、隣においてあるサルでも出来るロシア語講座みたいな本を見ながら待ってたんで聞こえるんですよ。

結局、この親子は最初に子供がこれで良いと主張していた本を持ってレジに向った。

やれやれと思って、工業英検コーナーを覗いたのだが、私の目指す工業英検1級本は全く無い。ああ、沿線最大のこの書店でも、所詮工業英検なんてのはマイナーな検定なのだろうな、と思ったのだが、まあついでなので英検の本でも見てみた。受ける気は無いけどな。

親子が揉めていた英検5級のレベルは、こんな感じである。会話文のようなものに穴埋めしていくような感じであるが、取り敢えずアルファベットが分かり、基本的な単語のスペルが分からないとダメっぽい試験だ。中学初級程度とあるが、要は中学校1年生レベルの人が対象のようで、小学生が対象かどうかは分からない。そりゃ出来るガキはいるだろうがなあ。

英語の習得に対し、現代はかつて以上に熱が入っているのかどうかは分からないのだが、確実に言えるのはその割に全体のレベルが高くなっていないと言うことであるような気がする。「これからは英語くらい出来ないと」と言うのは、本日の若いお父さん・お母さんにも当てはまることだと思うのだが、彼らが英語を使って外人を道案内できる程の基本的なレベルに立っているのかさえ謎と言う感じがする。大体、「これからは英語くらい」と言うのは、多分私が子供の頃から言われていたことで、一体いつになったらその「これからは」の時代が来るのか分からない。一流企業の国内業務しかやっていない人でも、「これからは」英語が必要なのだろうか?

私が子供の頃言われていた「これからは」の時代は、どうやらまだ来ていないような気がする。だって、英語使う部署って普通の会社だったら、やっぱり海外部門だろうし。大学で英語サークルに所属していたのに、同期で「英語を使って仕事をしている」と言う人のほうが少ないくらいだ。他の人より英語が出来る人にすら、英語を使う仕事が回ってこないと言うのは、結局まだまだ英語使う人が他国ほど必要とされてないんじゃないの、と言う感じである。

結局、みんなが英検持ってるからあなたも持ってないと恥ずかしいわよ、くらいの切っ掛けしかまだ無いんだろうか。

「あんた、英語くらい話せないと仕事なんて何も出来ないわよ」

と言う時代は、多分来ないんじゃねえか?


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